第三幕 崩壊 ― 愛と別れ

 ◆ ◆ ◆ 美月


 実家での拒絶は一度きりだと思っていた。

 落ち着いたら受け入れてくれる――そう信じていた。


 けれど、現実は違った。

 母は毎日のように電話をかけてきては「早く別れなさい」と言い続ける。

 父も「結論を先延ばしにするな」と冷たく告げた。


 何度も何度も言葉が刺さり、そこが赤く腫れ上がっていくような痛みに変わる。

 笑顔は強張り、食事の味もしなくなる。

 眠ろうとすれば、耳の奥で両親の拒絶の声が響いた。


(でも……悠真がいる限り、私は大丈夫)


 そう信じることで、どうにか心をつないでいた。


 その日の夕食時。

 テーブルの上には手をつけられなかった料理。

 私は拳を握りしめ、正面の悠真を見つめた。


「ねえ、悠真……」


 声が震える。

 それでも言わなければならなかった。


「私は、あなたと生きたい。病気があってもいい、全部背負って一緒にいたい……だって、私はあなたを愛してるから」


 喉の奥から絞り出した。

 涙で視界が滲み、彼の顔が揺れる。


「愛してるの。だから、別れるなんて言わないで」


 必死だった。

 悠真の口から出た『別れ』の言葉。


 繋ぎ止めようと言葉を重ねた。


 けれど……。


 悠真は、黙っていた。

 唇がわずかに動きかけて、すぐ止まる。

 視線は逸れ、テーブルの端に落ちている。


 私は知っている。

 答えを探すのではなく、答えを避けているときの彼の顔だ。


「……ねえ、何とか言ってよ」


 縋るように訴える。


「私のこと、愛してないの?違うよね?だったら――」


「……」


 返事はなかった。


 沈黙が胸を切り裂く。

 妹や両親、過去の傷……彼を縛っているものがあることは分かっていた。

 けれど、欲しいのはただ一言。


「一緒にいよう」


 それだけだった。


(どうして……? 守るって言ってくれたのに。私の隣で笑ってくれるって誓ったのに……)


 そして、目の前に置かれた一枚の紙。


 離婚届。


「……これしか、道はない」


 悠真の声は低く、重かった。

 耳に届いた瞬間、世界の音が消えた。


「嘘……でしょ」


 掠れた声が漏れる。

 視界が揺れ、遠くなっていく。


「嘘だよね?だって、私たち……結婚したんだよ?ずっと一緒にいるって……」


 涙が止まらなかった。


「私、幸せだったの。あなたと一緒で、本当に幸せだったのに……どうして……」


 何日も何度も話し合った。

 それでも悠真の意思は変わらなかった。


 私は折れるしかなかった。

 震える手にペンを握り、名前を書く。

 一文字ごとに胸を切り裂かれるようだった。


 書き終えた瞬間、力が抜けてペンが落ちた。

 視界は涙でぐしゃぐしゃになり、悠真の顔すら見えない。


(私はまだ愛してる。なのに、どうして……どうしてこうなってしまうの……)


 心で何度も叫ぶ。

 声にならず、ただ涙だけが頬を流れ落ちていった。


 静まり返った部屋の中に私の嗚咽だけが響いた。


 ◆ ◆ ◆ 悠真


 目の前で、美月が泣いている。

 頬を濡らし、必死に言葉を重ねてくれる。


「私は、あなたと生きたい。病気があってもいい、全部背負って一緒にいたい……だって、私はあなたを愛してるから」


 絞り出すような声。震える指先。

 その『愛してる』という響きに胸を抉られる。


 ――答えたい。

 俺も同じだと叫び返したい。


 けれど喉は詰まり、声が出なかった。


「ねえ、答えてよ。愛してないの?違うよね?だったら――」


 美月の訴えが痛みに変わる。


(愛してる。愛してるんだ)


 心の奥で叫んでいるのに、唇が動かない。


 弟を失った記憶、妹の病気。

 義両親の徹底した拒絶。


 毎日、何度も途切れることなく届く非難の声。

 すべてが胸の中で絡みついて、言葉を封じていた。


(これ以上、彼女を苦しめたくない。俺と一緒にいれば不安に押し潰される。なら……離れたほうがいい)


 そう自分に言い聞かせる。

 だが、それは無力さを隠すための方便だと分かっていた。


(美月との子供)


 本当は守りたい。

 彼女の笑顔を、未来を、すべて抱きしめて生きたい。

 それでも、「守れる」と言いきれない。

 自分も子供も発症する可能性がある。

 自分が情けなくて、怖くて、結局『美月のため』という言葉に逃げた。


(これは彼女のためだ。俺が身を引けば、彼女はもっと安全な未来を選べる。だから……)


 机の上に、一枚の紙を置いた。


 離婚届。


 美月の前に差し出した瞬間、喉まで言葉がこみ上げた。


(やめよう。俺はお前を手放したくない――)


 叫びたかった。

 けれど声は空気に溶け、沈黙だけが流れた。


 美月が震える手でペンを握る。


「……嘘だよね。だって、私、幸せだったのに……あなたと一緒に……」


 涙で濡れた頬を見ながら、拳を固く握りしめる。

 声を出せない自分が憎かった。


 紙の上に彼女の名前が刻まれる。

 一文字ごとに、俺の胸が切り裂かれるようだった。


 視界が滲んだ。

 ふいに、遠い日の記憶が鮮やかに蘇る。


 社会人になりたての頃、中距離恋愛を続けていた日々。

 週末の新幹線のホーム。

 改札の向こうで手を振る美月の笑顔。


『またすぐ会えるよ!』


 人混みの中でも、その声はまっすぐに届いた。

 あの笑顔を、俺は守ると誓ったはずだった。


(なのに……)


 気づけば目の前には、涙でぐしゃぐしゃになった顔と離婚届。


(俺は守れなかった。大切なものを、自分の手で壊したんだ)


 胸の奥に重い塊が沈み、呼吸が苦しくなる。


 幸せだったはずの時間が遠ざかり、指の隙間からすべてが零れ落ちていく。

 その現実を、俺はただ黙って見届けるしかなかった。


 静まり返った部屋に響く美月の嗚咽をただ聞くだけしかできなかった。



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