第二幕 遺伝 ― 未来への不安
◆ ◆ ◆ 悠真
消毒液の匂いが漂う廊下を、ゆっくりと歩く。
白い光に照らされた壁、すれ違う看護師の足音。
どれも現実なのに、まるで悪い夢の中を進んでいるようだった。
扉の向こうで妹・彩花が検査を受けている。
病室のガラス越しに見えた横顔は、不安に引きつっていた。
その姿に重なるのは――幼い弟・翔。
幼い身体は痩せ細り、声は日に日に弱まり、ついには「にいちゃん」と呼ぶことすらできなくなった。
何もできずに見送ったあの日の無力感が、今も胸を締めつける。
(また……守れないのか)
思考を振り切るように目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
今度こそ、失うわけにはいかない。
数日後。
俺は美月と並んで、新潟の畑中家のリビングに座っていた。
高層階から見下ろす窓の外には街の灯りが広がっているのに、部屋の空気は鉛のように重い。
深々と頭を下げる。
「どうか……理解していただきたいんです。二人で支えあいたいのです。彩花のことも、俺は背負いたいのです」
震える声で必死に言葉を紡いだ。
だが、返ってきたのは冷たく突き放す声。
「悠真さん……あなた、娘を不幸にする気なの?」
義母・恵子の声は、氷のように冷たく硬かった。
続く義父・誠一も重く口を開く。
「家の子孫に、不安を受け継がせる気か」
突き刺さるような言葉。
俺は顔を上げられなかった。
反論したいのに声がでない。
「違うの……! 私たちは、愛し合ってるの!だから」
隣の美月が声を震わせて叫ぶ。
「悠真がいれば、私は幸せなの。病気があったとしても、二人なら――」
「美月!」
恵子が声を荒らげる。
「分らないの?母さんはあんたのために言ってるの。現実を見なさい!」
「そうだ。お前はまだ若い。人生を棒に振ることはない」
父の低い声が追い打ちをかけ、美月の嗚咽が響く。
口を開こうとするが、言葉が出てこない。
遺伝性の爆弾を持っているのは俺だ。
俺も発症するのか?
理解をしてもらう以外にどんな言葉を言えるのか?
必死な美月の姿を見ているだけしかできなかった。
(守らなきゃいけないのに……)
義父母の冷たい視線が、体を縛る。
気付けば無意識にポケットへ手を伸ばしていた。
財布の端に触れる。
指先の感触――軽井沢で美月と作ったペアのレザーキーホルダー。
笑いながら互いの頭文字を刻んだ。
「一生大事にするね」と言った美月の声が、鮮やかに蘇る。
(あのとき誓ったはずだ。どんな未来も共に生きるって)
心で叫ぶ。
だが現実の前に、唇は固く閉ざされたまま。
自分の沈黙が、美月の涙をさらに深くしていく。
拳を握りしめても、声は出ない。
ただ、美月の嗚咽が重苦しく響いた。
◆ ◆ ◆ 美月
その知らせは、突然だった。
悠真の妹、彩花ちゃんが倒れ、病院に運ばれた。
精密検査の結果――遺伝性の疾患。
「……そんな、嘘でしょ」
声が震えた。
けれど悠真は静かに頷くだけだった。
その瞳の奥に、押し殺した痛みと覚悟がにじんでいた。
「美月……翔も……弟も、同じ病気で亡くなったんだ」
息が詰まった。
幼いころの写真でしか知らなかった笑顔の弟。
成長できなかった命。
恐怖が膨らむ。
もし、もしも――と考えそうになった瞬間、私は頭を振った。
「でも……だからこそ。悠真、私、一緒にいる。どんな病気だって……二人でなら大丈夫」
悠真は驚いたように私を見て、それから小さく笑った。
その笑顔を見ただけで、私は『間違ってない』と思えた。
だからこそ、実家に戻ったときも不安はなかった。
母と父は応援してくれる。
「二人で頑張りなさい」と背中を押してくれる――そう信じていた。
「お母さん、お父さん……聞いてほしいことがあるの」
リビングのテーブル越しに座り、真剣に切り出した。
母・恵子は眉をひそめ、父・誠一は無言で腕を組んでいる。
「悠真の妹、彩花ちゃんが……遺伝の病気だって分かったの。弟の翔くんも、同じ病気で亡くなっていたらしいの」
言葉を選びながら伝えると、母の顔色が一瞬で変わった。
「……ちょっと待って。つまり、あなたの子供がちゃんと生きるかどうか、分からないってことよね?」
冷たい声だった。
「そ、そんな言い方……!」
「そうでしょう?生まれてくる子供が、いつ病気で苦しむか分からない。そんな未来を、どうしてあんたが背負わなきゃいけないの」
体が硬直する。
隣に悠真もいるのになんてことを……。
父がゆっくりと口を開いた。
「美月、親として言う。別れなさい」
「……別れる? そんな、だって……」
頭が真っ白になる。
応援してくれると信じていたのに。
私の味方でいてくれると思っていたのに。
「でも、私は悠真と一緒に生きたいの!」
涙がにじませ、必死に声を張り上げる。
母は顔を歪めて、まるで幼い子供を叱るように言った。
「分からない子ね。これはあんたのためなのよ。母さんは間違ってない。幸せになってほしいから言ってるの」
「そうだ。美月の幸せを考えているんだ」
父の低い声が重く落ちてくる。
(どうして……愛してるのに。どうして、分かってくれないの……)
心の中で繰り返す。
私にとっての幸せは、悠真と一緒にいること。
ただそれだけなのに。
話し合いは平行線のまま終わった。
重い足取りで玄関を出ると、夜風が涙を冷やしていった。
悠真も力なく俯いている。
鞄から鍵を取り出す。
そのとき、革の小さなキーホルダーが揺れた。
軽井沢で、悠真と一緒に作ったお揃いのもの。
笑いながら互いのイニシャルを刻んだ、あの夏の日。
革の感触を指でなぞると、彼の声が蘇る気がした。
(大丈夫。悠真となら、大丈夫)
両親の拒絶がどれほど冷たくても、私は揺るがない。
(私は絶対に諦めない。だって、幸せは悠真と一緒にあるんだから)
キーホルダーを強く握りしめ、涙を拭って前を向いた。
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