4-4 もう、我慢しなくていいですから

 俯き押し黙ってしまった亞妃の手の中で、茶が細かい波紋をたて揺れている。


「知っていましたか? お茶って、身体の中に溜まっている悪いものを追い出す効果があるんですよ」


 震えている亞妃の手を、優しく月英の両手が包む。

 揺れていた水面が静まれば、そこに映ったのは、亞妃の今にも泣き出してしまいそうな顔。


「たくさん飲んでください。いくらでもお淹れしますから。だから、たくさん飲んで、たくさん心の中の曇りを吐き出してください。そうしたら――」


 月英は身を寄せ、抱き締めるような近さで囁いた。


「――たくさん笑ってください、亞妃様」


 次の瞬間、ポチャン、と茶が音を立てた。

 なにかが、茶の中へと次々に落ちていく。茶だけでなく、亞妃の膝の上にも、まるで降りそそぐ雨のように透明な雫が落ちる。


「…………ふ……ぅ…………ッ」


 室内には、か細い嗚咽だけが響いていた。


「――っ本当は、さよならと言えなかったのではなく、言わなかったのです。だって、言ってしまえば、本当にもう二度とあの地に戻れなくなってしまうと……っ寂しくて。たとえ居場所がなくとも、わたくしはあの地が大好きだったのですから」


 ポツリポツリと紡がれるそれは、雨粒と一緒に流れ落ちた亞妃の雨音だった。


「怖かった……っ! わたくしは亞妃です。亞妃でなければならないのに……でも、そう呼ばれる度に、わたくしの中から少しずつ白土が消されていくようで恐ろしかったのです。わたくしの名を知る者も聞く者もおらず、本当のわたくしすら消えて、この先一生、亞妃の皮を被って生きていかねばと思えば……それでも、亞妃を捨てる事は許されません」


「それを、オレ達内侍官に言ったことは」


「言えるはずがありませんわ! ただでさえ周囲に快く思われていないのは、分かっておりましたもの。そんな中で弱音など吐いて、さらに面倒な妃だと思われてしまえば、わたくしは架け橋としての役目も居場所も失ってしまいます。白土にも居場所がなかったわたくしが、この国でも居場所を奪われてしまえば……っどこで生きられると言うのです……っ」


 なるほど、と月英は、亞妃の万里に対する妙な態度に納得した。

 内侍官である万里に、下手な部分を見せてはならないと気にしていたのだろう。通りで、彼へ向ける彼女の目に怯えが滲んでいたはずだ。


「本当は、皆様の顔色を窺うのにも疲れました! このひっつめた髪型も頭が重くて嫌です! 本当は――っ」


 そこで顔を上げた亞妃は、突然、手にしていた茶を一気にあおった。

 ごくりと喉が鳴り、空になった茶器が卓へと丁寧に置かれる。


「――誰かに、このように全てを聞いてほしかったのです……っ」


 涙で濡れた目尻や頬は赤らみ、震える繊細な睫毛には、雨に濡れた蜘蛛の糸のように細かな雫が飾られている。

 彼女が瞬けば、それらは一つの丸い雫となって頬の上を滑り落ちる。


 真珠のような美しい輝きをもった雫は、音もなく静かに彼女の赤らんだ頬を、杏色の口を、華奢な顎先を伝い、薄紅色の襦裙に濃い水玉をつくった。

 月英は、空になった茶器に茶を注いだ。

 雨が上がれば、きっと空を覆っていた分厚い雲も晴れるだろう。

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