1-3

「へえ、月英げつえい殿は十八なんですね」

「ええ、まあ」

「失礼ながら、男性にしては少々小柄でしたので、もう少し下かと思っていました」

「……よく言われます」


 日常会話のようだが、月英にはただの尋問にしか思えなかった。

 手元の作業をてきぱき行いながら、適当な相槌で会話を流す。一刻も早く仕事という名の強制労働を終わらせたかった。

 しかしよく考えると、本人の同意もなく勝手に金銭取引をされたのであれば、これは人身売買ではないかと疑問がよぎる。


「そんな事はありませんよ。ただの雇用契約ですから」


 勝手に人の脳内を読むのはやめて欲しい。何者だ。


「それで、月英は今は何の作業をしているんだ? その香炉台こうろだい? も変わった形をしているな」


 燕明が興味津々に、月英の手元を覗き込みに来た。


芳香浴ほうこうよく用の香炉台です。普通の香を焚く香炉台の上板に穴を開けたものですが」


「芳香浴?」と燕明が首を傾げる。

 月英は竹籠から二本の陶器瓶を取り出し、小皿の上に数滴ずつこぼす。


「これは精油せいゆという、香りの付いた油です」


 精油を入れた小皿を香炉台の上板の穴にはめ込むと、下に置いた蝋燭で炙り始める。すると、途端に小皿から芳醇な香りが立ち上り、あっという間に部屋全体を覆った。

 例えるのなら、香りの津波。

 一瞬のうちに香りに飲まれてしまった燕明と藩季は、目を丸くして吃驚した顔で香炉台を見ている。


「これは……!? 油は燃えてないのに、どうしてこんなに香りがするんだ!?」

「しかもこれだけ強く香るのに、こうと違い煙も出ませんし、息苦しくなりませんね」


 二人して不思議そうにスンスンと鼻先を動かす姿は、失礼ながらまるで犬のようだと、月英はふと口元を緩める。


「精油と言ったか。それはどうやって油に香りをつけるんだ? その香りはどこから持ってきてるんだ?」


 燕明が好奇に満ちた目を月英に向ける。


「方法は色々ありますが、今回使った蜜柑オレンジの香りは、皮を潰して出てきた油を採取します。精油の香りは、全て果物や植物からとれる天然の香りなんです。因みに今、僕が調合した香りは蜜柑オレンジの他に薫衣草ラベンダーを少し入れてます」

「ら、らべ……ん?」

「紫の粒のような花を付ける植物です。気持ちを落ち着かせて、疲れを癒やす効果があります。蜜柑も精神疲労や不眠に効果があります」


 月英は蜜柑と薫衣草の精油が入った小瓶を、燕明の前についと差し出した。


「これが芳香浴です」


 燕明も「なるほど」と頷いた。


「確かにこれは、『浴』という言葉が合っているな。香りの中に自分が落とし込まれたようだ。心なしか確かに気分も落ち着いている」

「香りで不調を治すというのは、こういう事だったのですね」


 二人共嬉々とした声を漏らしていた。


「嗅覚は触覚や味覚よりも早く脳に伝わると言われています。つまり、それだけ他の感覚よりも鋭く早く脳に作用するんです。外傷や臓腑の異常などには無理ですが、心や血の巡りによる不調に関しては、脳を安らげてやる事で一定の効果はみられます。精油もご覧の通り様々ありまして、症状によって使い分けるんです」


 へえ、と燕明は精油瓶の蓋を開けては匂いを嗅いだりと、並べられた精油を面白そうに手に取っていた。


「そういえば、お前の身体も良い香りがするな」


 燕明は隣に立つ月英の首筋当たりに鼻を近づけ、すんすんと鼻をならした。燕明の鼻先がちょんと首筋に触れれば、月英は驚いた猫の如し速さで後退った。

 燕明は月英の行動が分からないときょとんとして、何事もなく会話を続ける。


「精油を肌に塗ったりしているのか? それとも飲んだり?」

「ああ、そういえば昔の後宮話で、薔薇を毎日食して涙も汗も全て薔薇の香りにした妃が居ましたね。それで皇帝の寵を得たとか何とか」


「~~っぼ! 僕のこの香りは芳香浴で染みついただけです。別に僕が良い香りな訳じゃありません! 変態!」

「へっ、変態ぃ!?」


 目一杯に否定する月英に、燕明は訳が分からないと素頓狂すっとんきょうな声を出して驚いていた。

 勘弁して欲しい。ただでさえ人に触れられるのに慣れていないのに、首筋を、しかも類い稀なる美貌の男がそんな所に近寄らないで欲しい。

 月英は深呼吸を二度ほど繰り返し、自分を鎮める。


「――気をつけて下さいね。精油はただの油と違って、中には肌につくと害をもたらす物もありますし、誤って飲めば死にますよ」

「死ぬ!?」

「毒ですか!」


 月英の言葉に二人がたちまち気色ばんだ。藩季に至っては、長衣の隙間からチラチラ見えていた剣に手を掛けている。


「使い方を誤れば毒にもなるって話ですよ」

「薬みたいなもの……ですか」

「そうですね」


 それで納得したのか、ようやく藩季の手が柄から離れた。


「それにしても、こんな術は初めて見たが……どうやって学んだんだ?」


 燕明は何気ない疑問を口にしただけだったが、瞬時に月英の顔から表情が抜け落ちた。といっても、顔の半分は前髪に隠れていた為、その変化を燕明達が気付くことはなかったが。

 月英は精油瓶を片付けながら、気取られないように声を明るくして答える。


「僕も口頭で父に昔教えられただけで、これ以上詳しい事は分からないんですよ。その父ももう他界してますし」


 へらっと最後に笑みを付け加えれば、案外あっさりと燕明も藩季もその言葉を信じた。


「しかし、お父様は亡くなっていると? では、一緒に暮らされていたあの男性は……」

「養父みたいなもんですよ」


 八人目の、とは言わなかった。言っても、この二人にはそれがどういう事かは分からないのだから。この世には何回も売り買いされる人間がいるなんて思いもしないだろう。


「さて、じゃあ僕はこれでお暇します。あ、芳香浴の道具は差し上げますんで。それだけあれば結構もちますから。じゃあ無くなったらお知らせ下さい」


 それでは、と頭を下げ、逃げるように踵を返した月英。しかし、その腕はもう少しで扉に手を掛けられる、というところで藩季に捕らえられてしまった。

 腕を掴む藩季の力強さにミシミシと骨が悲鳴を上げる。月英は背後から襲い来る圧の凄まじさに、振り返らずに尋ねる。


「……あの、何か?」

「無くなったら? まさか、瓶が空になるまで来ないつもりじゃありませんよね?」

「い、いやぁ、僕は混ぜて火を着けるだけしかやる事がないので……」

「日々燕明様の体調は変化されるのですよ? 先程の説明ですと、香りの調合は体調によって変わるのですよね? そうですよね?」


 なぜそんなに理解が早いのか。もう少し脳を休めていてくれれば良いものを。


「うぅ……仰る通りです……」


 さすがに自分のこの術に嘘はつけなく、月英は悲嘆に暮れつつも肯定する。


「でしたら毎日欠かさず、燕明様の体調把握に努めるのが仕事ではありませんか?」

「ぐうの音もでない正論」


 しかし、月英は最後まで足掻きたかった。必死に脳を絞りきりどうにか逃げる口実はないかと探す。そして、「あ!」と一つの脱出口を見つけた。


「あっ、でもほら! えー……その、人を雇うには上の人の許しが要るんじゃないんですか!? しかも、僕は下民ですから! 萬華宮に居る事すらおこがましいですし、きっと怒られると思いますよ!? もう一度よく考えられた方が良いんじゃ……」


 いくら上級官吏といっても、官吏でない者をそう無闇矢鱈むやみやたらに宮廷に出入りさせることは出来ないはずだ。きっと誰かもっと偉い人の承認が必要とか、官吏にならないと駄目とかあるはずだ。しかも自分は下民。下民が宮廷に入るのを許す者など居ないだろう。この特殊な二人を除いては。

 少々勝ち誇ったように笑んだ月英に、燕明と藩季は一拍間をおいた後、腹を抱えて笑いだしてしまった。


「まさか、本当に気付いていないとは驚きましたね」

「自分で言うのも何だが、そこそこ有名だとは思っていたが……まだまだだな、俺も」


 ――有名?


 どういう事だろうか。有名な官吏という事か。

 確かに与えられた部屋はまさに豪華の一言であり、側近をつけられる程の上級官吏。しかし下民である月英は、萬華宮は知っていてもその中で働く者など知りようがなかった。一生無縁な人達だ、と考えたこともない。

 すると、混乱に頭を右に左に傾げていた月英の顔を燕明が両手で掴み、そのまま強制的に上向かせた。

 燕明の胸元までしかない月英は、ほぼ後ろ首を直角に折ることになる。痛い。


「俺の正式な名は『燕明えんめい』という」

「…………?」


 この国で『華』姓を名乗れるのはただ一つ――皇族のみ。それくらいは下民でも知っている。

 にやにやと見下ろす燕明とは反対に、月英の口は、脳がその名の意味を理解しはじめると、わなわなと次第に大きく開いていく。

 その様子を面白そうに見ていた藩季が、決定的な言葉で追撃する。


「こちらのお方は、第十五代萬華国皇帝、華燕明様です」


「即位が出来てないから、まだ皇太子のままだがな」と、燕明がつまらなそうな顔をして付け加えていたが、皇帝でも皇太子でも月英にとってはどちらも変わりない。

 ぶるぶると震える月英に、燕明は「よく見て覚えておけ」と言わんばかりに、鼻先が触れそうな程に顔を近づけた。そして、目を細め極上の笑みを浮かべながら、月英に死刑宣告を言い渡した。


「三月、俺の安眠の為によろしくな。月英」


 完璧にトンズラしそこねた。

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