1-2
月英は目を白黒させつつも、自分の置かれている状況の把握に努めた。
目の前の長椅子にもたれるようにして悠然と座っている、妓女より美しい男。女物の着物を着せれば、すぐに花街一に駆け上がること請け合いだ。
そしてその後ろには、細長い身体の上に温和な顔を乗せた男が柱よろしく直立している。
先程それぞれが『
次に、月英は周囲に視線を巡らせる。
自分の家より遙かに広い部屋。
置いてある調度品は蜜でも塗ったかのように飴色に輝き、窓には鳥や花の飾り格子が嵌まっている。日が射し込めば、美しい紋様が石床に映し出され優美な一枚の絵画になる。
影さえ美術品になるとは知らなかった。
月英にとって影はただの日よけであり、窓は換気のためとしか思っていなかったため、こんな遊び心のある使い方には素直に驚いた。
――やっぱり、ここは夢の世界だったんだな。
月英が連れて来られた場所は、あの一番偉い人が住まうという
いつも通り仕事に行こうと家を出た瞬間、月英は物々しい男達に拘束された。無理矢理車に押し込まれ、着いた先が萬華宮。男達の腰には黒鞘の剣が下がっており、抵抗など出来ようもはずもなく、そしてあれよあれよという間に、今居る部屋に放り込まれたのだ。
一体この燕明と名乗る男は何者だろうか、などと思っていると先に彼が声を掛けてきた。
「お前が
何故自分の名を知っているのか。
「変な術を使うと聞いた」
燕明の質問を聞いていても状況が全く掴めず、月英は自分から男に問いかける事にした。
「あのぉ……自分はなぜここに連れて来られたんでしょうか?」
「変な術を使うと聞いたからだ」
答えになっていない。人攫いのうえ馬鹿なのか。顔に全養分取られているんじゃなかろうか。
思わず溢れた気持ちが口元を引きつらせれば、立っていたもう一人の細い男――藩季が言葉を付け加えてくれる。
「実は花街であなたの事を聞きまして。なんでも香りで気分や体調を整えてくれるのだとか――」
藩季という男は経緯を詳しく話してくれた。
身分を隠して、燕明と藩季は花街に来ていた。もちろん妓女を買う為ではない。
ここに来たのは、先日言っていた『情報』を得るため。
『――まあ、それで来られるなんて珍しい旦那様ですねぇ』
妓女は柳のように細い指で、驚きに開いた口を隠す。
『確かに花楼には沢山お客様がおいでになりますからぁ、色んなお話が聞けますけどねぇ』
『特に
おだてるような藩季の物言いに、妓女は気分良さそうにくすりと笑った。
『そうですねぇ。でも、こんなに素敵な旦那様は、今までお目に掛かった事ございませんわぁ』
妓女はしなを作り燕明に寄り掛かろうとするが、燕明が身を引き、間に素早く藩季が入る。それを少々癪に思ったのか、上級花楼の妓女という矜持に触れたのか、妓女は途端に眉を顰めてつっけんどんな口調になる。
『それで、よく眠れる薬についてでしたかぁ? さて、私はこの国の古今東西のお話を伺うんですが、その様な薬は聞いた事ありませんねぇ』
『薬でなくても、なにか良く眠れる方法などは知りませんか?』
『薬でなくても……ですか。まあ……心当たりが無いわけではありませんがぁ……』
ツンとそっぽを向いてしまった妓女に、藩季が頼み込むように身を前傾させる。妓女はチラと燕明に視線を寄越した。その瞳の奥には劣情が仄かに見え隠れしている。
燕明はなるほど、と妓女の手を優しく取った。
『頼む。俺はもうあなたしか頼る人が居ないんだ。色々な方法を試したが駄目だった。どうか俺を救ってくれないか』
絵から出てきたような美丈夫に手を取られ、「あなたしか居ない」と憂い漂う眉目
で縋られれば、男慣れした妓女だとて頬を染めるというもの。妓女は燕明の手に頬を寄せると、熱のこもった流し目で燕明を見つめた。
『香りで不調を治す者なら知ってますわぁ』
『その者はどこに?』
勿体ぶるような言い方をする妓女に、燕明は互いの吐息が交わる位置まで顔を近づけ、その先を催促する。
『月英という少年ですよ。――下民の』
妓女の声は燕明に釘付けになりうっとりとしていたが、最後に付け加えた「下民」という言葉には嘲りが含まれていた。
燕明は目で藩季に合図すると、あと少しで唇が重なる――というところで立ち上がった。反動で妓女が滑るようにして床に転び、目を白黒させる。
『助かった。有意義な時間をありがとう、美姫』
妓女の手に銭を握らせると、にっこりと他人行儀な笑みで燕明はそそくさと花楼を後にした。
「というわけだ」
「どういうわけです」
思わず突っ込んでしまった。経緯を聞いてもちっとも理解できなかった。
「えっと……つまり、不眠解消法を聞き出すため色仕掛けで妓女を誑かし口を割らせた上、金で片付けてきた、って事で良いですか?」
「どうしてそれで良いと思った」
「凄い勢いで尾ひれが付いて、事実がねじ曲げられていますね」
燕明と藩季の口が引きつる。仕方ない。そうとしか聞こえなかったのだから。
「まあ早い話が、これをどうにかして欲しいんだ」
燕明が疲れたような声で、自身の目元を指でトントンと示した。そこには狸も仲間と間違えてしまう程の立派な隈があった。
「どんな薬を処方しても、香を焚いても、美女をあてがっても駄目でした。古来より伝わる秘術や手練手管の妓女でも――」
やめてくれ。聞きたくない。
耳を塞ごうとしたら、その手は耳に到達する前に藩季に捕獲されてしまう。
月英は驚きに口をあんぐりとさせた。いつの間にこんなに近付かれたのか、全く分からなかった。流石は側近だなと素直に感心していれば、藩季は目をカッと見開いて喜声を上げた。
「――しかし! そこで月英殿の話を得たのです!」
「し、しかしわざわざ僕みたいな下民を……」
そこで月英は手を握られていた事を思い出し、慌てて振りほどいた。
今更ながら自分と目の前の男達との差を思い出し、自分が恥ずかしくなったのだ。絹の衣を身に纏った燕明達に比べ、ぼろぼろでつぎはぎだらけの麻の衣を身に纏う月英。この『綺麗』ばかりの空間で、自分は藁でしかないと思い出し、身を縮めた。
「ああ、これは失礼致しました。不躾に触れてしまいまして」
藩季の言葉に月英は驚いた。
下民である自分に謝る者など居ただろうか。しかも相手は上級官吏だろう者。
「え、いや……えと……」
初めての事に何と反応して良いのか分からず、月英が言葉を詰まらせていると、燕明が指先で長椅子の脇息をトンと叩いた。
「下民だろうと平民だろうと関係ない。俺に安らかな眠りを与えてくれるのならば、
呪法とは星読みや卜占を元とした術で、当初は明日の天気だとか吉凶などを知るための手段だったのが、今ではまじない的要素が強まり、雨を降らせるだとか誰それを不幸にさせるとか、謂わば眉唾的呪術と化したものである。その呪法にも縋るとは……余程追い詰められているようだ。
「確かに、香りで心身の疲れを癒やす事も出来ます」
「本当か! ならば是非やってみせてくれ!」
燕明の言葉に、ドキリと月英の心臓が跳ねた。ただしそれは甘い疼きではなく、緊張に締め付けられる痛み。
「し、しかし、ここにはその道具がありませんから」
正直、香りの事は知られたくなかった。
元々月英はそれを生業としているわけではない。普段は日雇いの仕事をして日銭を稼いでいた。妓女に香りを処方していたのだとて、時たまにしか来ない割りの良い仕事だったからだ。狭い花街界隈での話だし、外に漏れることはないと思っていたが、まさか宮廷官吏に知られるとは。
「一旦、道具を取りに家に帰ってもよろしいでしょうか」
――そしてそのままトンズラしよう。
月英はなんとかこの空間から逃げ出す方法を思いつき、口元を弧にして怪しまれないように愛想良く尋ねる。
すると、燕明の口角がニタリと上がった。
「藩季」
その呼び声と共に燕明が指を鳴らせば、藩季はどこから出したのか、手に竹籠を取り出した。
「なぁ――っ!?」
藩季の手にあったのは見覚えのある竹籠。
「こんな事もあろうと、お前の荷物も全て持ってきている。それにしても持ち物がこの竹籠一つとは……凄いなお前」
ぐるりと燕明が部屋を見渡した。当然彼の持ち物であろうこの部屋の物は、竹籠一つには収まらないだろう。
「……下民と上級官吏様を一緒にしないで下さい」
「ん?」
月英の言葉に燕明と藩季が目を丸くした。
「え?」
思わず月英も首を傾げる。
燕明と藩季は顔を見合わせると、二人して笑いを噛み殺すように肩を揺らす。
何か変なことでも言っただろうかと心配したが、今はそれよりもどうやってこの場から逃げ出すかが先決だった。
「あー……えっと、そう! 父が家で待ってて。僕、仕事に行かないとなんで。行かないと生きていけないんで! だから一先ず帰っても――」
「ああ、その件でしたらご心配なさらず」
「はい?」
「今回のこれを仕事と思って貰えれば。お金も、あなたを連れてくる時に親御さんに先払いしておりますし。何分危急の最優先事項でして」
「たっぷりとね」と言った藩季の顔が、仄暗く見えたのは気のせいだと思いたい。
しっかりと逃げ道を塞がれていた。
「じゃ、じゃあその香りを作ったらもう帰っても良いですか」
こうなればさっさとやる事だけやって、色々聞かれる前に帰ってしまおう。
――そして、トンズラだ!
しかしそうは問屋が卸してくれない。
「まさか。一日寝られただけで、あの狸も仲間と勘違いする立派な隈を消せるとお思いで?」
藩季が柔和な顔で笑いかけてきた。しかしその声は柔和というにはあまりにドスがきいている。
「では……一週間くらいでしょうか……?」
藩季がにっこりと笑んだ。
「三月です」
「はぇ?」
月英は耳を疑った。
「あなたの親御さんにお支払いした額は、きっちり三月分ですよ」
「み、三月……っ!?」
月英は膝から崩れ落ちた。
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