月定という名の旧友

示紫元陽

月定という名の旧友

 仮に、です。人の感情が分かるようになると、人はどうなると思いますか? そんなもの誰にだってできるじゃないかなんて言っちゃあいけません。確かに極端な喜怒哀楽は表情や所作から読み取れますし、他人の機微に敏感な人もいるとは思います。でも、それらは結局表に現れたものでしかありません。上手く感情を押し殺している人だっているでしょうし、貴方だって何でもかんでも自分の内面を露わにはしないでしょう? そういうことです。

 少し話が逸れそうなので先に言っておきましょう。他人の感情なんて知らない方が楽です。いや、別にダメだってことじゃありませんよ。どうしても知りたいというのならば止めはしません。もしかすると、貴方にとっては至上の感覚を得られるかもしれませんし、もっと想像以上の副産物だって生まれるかもしれません。

 しかし、まぁもう少し私の話を聴いてくださいな。まだ時間はたっぷりありますし、今から話すある男の過去を知ってからでも、判断は遅くないと思いますよ。


*****


 もう十年以上も前になりますでしょうか。夜宵やよい月定つきさだという男がいました。私が彼と会ったのはそれほど多くはありませんが、彼の方は私が留守にしていたときにもよく訪ねてくれていたようです。酒を片手に歩き回るような風貌とは裏腹に、存外まめな男だったのでしょう。彼の置いていった美味しい土産も何度か口にした覚えがあります。

 私は月定がどこで何をしている者なのかは知りません。ただ時々彼が私のもとに来て、都合がよければ酒を酌み交わすというような間柄でした。とは言うものの、月定が一方的に言葉をぺらぺらと繋いでいくので、私はそれに耳を傾けているだけでしたが。それでも彼の楽しそうに話す姿は見ているだけで心を豊かにしてくれる何かがあり、私はその時間を過ごすだけでも満足でした。

 しかし、月定の方は、心中あまり穏やかではなかったのかもしれません。いつ頃からかはもう忘れてしまいましたが、少しずつ彼の精力が削がれていくのが分かりました。他人には無頓着なでくの坊の私にも察せられるのですから、間違いはないと思います。以前まで溌剌な姿に慣れてしまっていたので、何かあったのかと思うのは自然なことでしょう。私は月定にあった時に一度、何か悩みでもあるのかと尋ねてみました。

 最初彼は、何ともない、気のせいだと主張しました。酒をごくごくと煽るように飲んで見せ、ガハハと不自然に笑ってみせもしました。しかし、私が何も返さずにじっと待っていると、そのうち月定は目を伏せ静かになりました。溜息混じりに視線を落とした酒の水面に、提灯の明かりが映っていたのを覚えています。しばらくすると月定は、ことりと盃を置いて一言呟きました。

「人をこれほど疎ましく感じるとは思わなかった」

 月定は固唾を飲み込んだあと、盃を再び掲げて酒をぐいと喉に流し込みました。彼はそれ以上の詳細は話しませんでしたが、私には思い当たる節がありました。

 ちょうどそのころ、ちまたで奇怪な現象が生じていました。皆さんも五感というのはご存じでしょう。しかし、それらでは説明できないような感覚を持つ人間が表れるようになったそうなのです。感じるものは個人によって様々で、例えばこれからの天気だとか、身に降りかかる危険だとか、目の前の人間が次どっちに向かうだとか、そんなくだらないことが分かってしまう人もいたようです。あまりにも多種多様で、その上何を以て感覚を得ているのかも不明なため、そういった新しい感覚を総称して『第六感』と呼ぶようになりました。理解できない者にとっては信憑性も何もないので、歯牙にもかけないか、はたまた狂信者だと扱われた者もいたそうです。

 そんな第六感を、月定も得たらしいと以前私は耳にしていました。しかし、それがあまり好ましくないものだったようです。彼が知覚するようになったものは、他人の感情でした。

 第六感に気づいた当初は、彼はむしろ誇らしげでした。きっと神からの贈り物だとか、俺は選ばれた人間だとか、声を大にして私に喋っていたものです。たまに私が贈り物を渡そうとしても、酒で十分だから一緒に飲もうだの言っていたくせに、勝手な男です。

 まぁそれはいいとして、感情を読み取れるようになってから暫くは、万事うまくいくと月定は喜んでいました。それはそうでしょう。なんたって他人の情動に合わせて自分の行動を選択できるのですから、いらぬ勘繰りや勘違いなどがなくなります。しかしながら、問題は彼の第六感が、他の五感と同じように意図せず認知してしまうことにありました。

 通りを歩けばすれ違う人がみな憎悪や嫉妬、怒りなどを振りまいています。笑顔の裏に舌打ちが聞こえるような感情が頭に飛びこんできます。喜びのような感情ですら、時と場合によっては恐ろしいものに感じるものです。一々詳らかにはしませんでしたが、月定はとうとうそれに辟易してしまったのでしょう。

 月定の憔悴した姿を目の当たりにして、私はいたたまれなくなりました。こうして私のもとに足を運んでくれる数少ない人間です。どうにかして救ってやりたいと思いました。ただ、彼に私の施しを受け取る気がさらさらないことは重々承知しています。しかしまぁ、お節介の一つくらいかけさせてくれもいいだろうと、私はこっそりと飲んでいた酒にまじないを仕込みました。彼は知らずにそれを飲み干し、また来ると言って家路につきました。

 それからというもの、月定は以前のように酒を持って私のもとに訪れ、直近の出来事や愚痴の数々を思う存分吐き散らかすようになりました。彼は例の第六感はいつの間にか消えたと言っていたので、もう問題はないでしょう。あぁあと、あんなものなくったって酒は美味いと言っていましたっけ。


******


 そろそろ貴方の順番が回ってきますね。どうですか、心は決まりましたか? おや、私の話を聴いてもなお、感情を知りたいと。なかなか根の太いお方ですね。そうまでして得たい何かがあるということでしょうか。いえ、別に言わなくても結構です。私は貴方の思いを尊重しますので。


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