朝まずめの海
杜右腕【と・うわん】
第1話 磯にて
朝まずめの海は、まだ薄暗い。
頭に付けたヘッドライトの小さなアカリと、足裏の感覚を頼りに磯の
——先客か。
この磯は
そんなことを考えながら歩を進め、人影の近くまで行くと、釣りを邪魔しない程度の声で
「おはようございます。釣れますか?」
と、挨拶をした。
だが、声を掛けてから気が付いたのだが、そこにいた人——ぱっと見七十代ぐらいの老爺——は、釣りはしていなかった。
釣り竿、道具箱、クーラーボックスなど、一通りの釣り具は持っているのが見て取れる。だが、竿はケースに入れたままで、ただクーラーボックスに腰掛けて海を眺めていた。
「おはようございます。あ、もしかしてここは貴方の釣り場でしたか?」
顔を上げた老人は、優し気で上品な笑顔を浮かべ、立ち上がって移動しようとしたので、俺は少し慌てて、手で制止した。
「いえいえ、海は誰の物でもありませんから、どうぞそのまま。俺はあっちの方で釣りますから」
そう言って少し離れた場所を指差した。老人が座っている場所は、確かに一番釣れるポイントだが、あっちも以前それなりに釣れた。
老人は俺が指差したポイントをしばらく見つめていたが、おもむろに、
「よろしければ、あちらでお釣りになりませんか」
と、まったく別の方向を指差した。
そこは潮の流れも普通で、正直あまりいいポイントとは思えない。だが、老人の
「まあ、騙されたと思って」
と云う、にこやかだが押しの強い言葉に、素直にそこに糸を垂らしてみた。
東の空が白み、水平線からお日様が顔を出した瞬間、ゴツゴツと当たりが来た。つづいてググンと糸が引かれ、更にガツンと竿先が引き込まれた。
少し興奮しながら大きく合わせると、竿が大きく弧を描いた。
腰を落とし、大きく竿をあおってはリールを巻き取る。引きが強すぎてドラッグを少し緩めたので、糸が出ていく。糸を巻き取っては出て行き、また巻き取っては出て行く。
当たりや引きからみてイシダイ、それも結構な大物だ。だが俺も釣り歴は長い。時間はかかったが確実に対応して、なんとか岩場に引き上げることに成功した。
六〇センチはありそうな、クチグロとも呼ばれる縞の消えた大物だ。
今までも何度かイシダイを釣り上げたことはあるが、これほどの大物は初めてだ。
——こんなポイントでこんな大物が釣れるなんて……。
その後も、イシダイ、マハタ、メジナなどの大物が連れた。
このポイントを教えてくれた老人にお礼を言いたいところだが、タイミングを外すと釣れなくなりそうで、釣り場を離れられなかったのがだが、ちらりと見ると、老人は未だに竿を出すことなく海を見つめていた。
不思議に思いながらも釣りを続けたが、クーラーボックスがいっぱいになったので竿を納めることにした。
——それにしても、あの老人は釣りもしないで何をしに……まさか!?
自殺の可能性が頭に浮かび、慌てて老人の方を振り向くと、そこには、今まさに竿を振るい、仕掛けを飛ばす老人の姿があった。
そして仕掛けは綺麗な弧を描き、沖合まで飛び、小さな飛沫を上げて着水した。
取り敢えず自殺ではなかったことに安堵した俺は、荷物を肩にして老人のそばに行った。
「今日は根魚狙いじゃないんですね」
声を掛けると、老人は柔らかな笑顔で
「ええ。今日は——」
と答えかけて、表情を改めた。
先程までとは別人のような精悍な表情になった老人が、手に持つ竿に全神経を集中させているのが伝わってくる。
俺も緊張して思わず唾を飲み込んだそのとき、老人の体が大きく後ろに反って、竿が満月のようにしなった。
長い格闘の末、老人は七〇センチに近い大型の、丸々肥えたハガツオを釣り上げた。たも網で引き上げるのを手伝ったのだが、かなりの重さだった。
「私はね、仕事一筋でこの年まで来て、唯一の趣味が釣りだったんですよ」
結局、その老人——お名前は加藤三郎さんと仰るそうだ——は、そのハガツオ一本で納竿してしまった。
「昔から霊感と云うか、第六感と云うか、妙に勘が良くてね。」
その後、俺は近所にある馴染みの割烹料理屋に加藤さんを誘い、俺が釣り上げた魚を御馳走しながら、話を伺った。
加藤さんは仕事でも釣りでも、大事な場面で勘が働いてきたらしい。ある時は危機を回避し、あるときは機会を掴み。
何年も勤めた会社を辞めて起業したのも、何かの勘が働いたからだが、それは必ずしも順風満帆な人生ではなかった。勤めていた会社はその後、大きな問題を起こして倒産したので、辞めたことは良かったが、起業した会社が軌道に乗るまでには長い時間が掛かった。
「その間、妻には苦労をかけっぱなしでしてね。優しい女性だったから文句一つ言わずに家庭を守り、子供たちを育て、私を支えてくれましたが、私は妻に何一つ恩返し出来なかったんです」
熱燗の酒を口に含みながら、加藤さんはその半生を語ってくれた。
「今度の水曜日が妻の命日なんで、せめて墓前に妻の好物だったハガツオの刺身を供えようかと思いましてね。お寺に生臭物もどうかとは思いますが、私にはそれぐらいしかできませんので」
俯く加藤さんの後ろに立つ女性が微笑むのを見て、俺は加藤さんに声を掛けた。
「加藤さん、きっと奥様も喜んでくださいますよ」
「そうでしょうか」
「だって、そうすべきだって云う第六感が働いたんでしょう? 俺の霊感もそうすべきだって言ってますから」
そう言いながら、俺は、加藤さんの席の隣に、もう一組、お猪口とお箸を置いた。
朝まずめの海 杜右腕【と・うわん】 @to_uwan
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