感情

ムラサキハルカ

感情

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 夕方。高校からの帰り道の途中、ぞわりと首筋に寒気が走る。またかと思い振り向けば、柳の木の下にスーツを着たひょろりとした男がこちらを恨めしげに睨みつけていた。

「どしたの?」

 きょとんとした様子で大きな目を向けてくる七海に、なんでもない、と応じてからまた歩きはじめる。変なお兄ちゃん、と楽しげにポニーテールを揺らす七海に、気楽に言いやがってと思いながら、通学鞄を肩に担ぐようにして持ち、早足になった。その間、刃物じみた冷たさが延髄に注がれていたが気付かないふりをする。


 *


 昔からいるはずのないものが視えた。

 いつでもというわけではないものの、ふとした瞬間にその存在を感じる。強い冷やかな視線に振り向くと、誰かが立っていた。


 最初に視たのは、たしか小学生の頃だったか。隣にいた妹の七海に、あそこに変なやつがいる、とこっちを物言いたげに見る腰の曲がった老人を指差してみせたが、不思議そうに、誰もいないよ? と言われた。いや、いるだろう、と何度か押し問答した末に、いないよぉ、と泣かしてしまった。俺はただただ、悪かったよ、と謝りその場をおさめた。当時は妹の目がおかしいのではないのかと疑ったが、何度か似たような事態に遭遇した末、どうやら視えているのは俺だけなのだと理解するにいたった。


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「はい、アーン」

 休日昼間の喫茶店内、チョコレートパフェに入っていたブラウニーの一部を差し出してくる七海に、サンキュ、と応じ、口を開く。

 その間、窓ガラスの外に立っている白い半袖のシャツにカーキ色のジーンズ姿をした四角い眼鏡をかけた男から浴びせられる熱烈な視線が絶えず刺さっている。正直、気まずくてならない。

「早く、食べてよ。それともチョコケーキ嫌いだったっけ?」

「……悪い」

 短く謝ってからケーキのかけらを口にする。

「おいしい?」

「ああ」

 実際のところ甘いのはわかったが、見ず知らずの男の視線に曝され続けているせいかどうにも充分に味わえなかった。

「そう。良かった」

 一方の七海はそれなりに満足したらしく、手元の山を崩しはじめながら、俺の手元に視線を向ける。そこには、食べかけのアップルパイがあった。

「そっちもちょうだい」

「わかった」

 もらった以上は返さなくてはならないだろう。その点に関しては何の問題もなかったが、やはり視線が刺さる刺さる。小さく切りとったパイのかけらをフォークの腹に乗せ、ちらりと窓越しに様子を窺ってみれば、男の顔はより憎しみの込められたものになっていた。ふと、シャツにはピンク色のフリフリの服を着た魔法少女がプリントされているのに気付く。

「なに笑ってるの?」

「いや、ちょっと思い出し笑いを」

 ごまかしながら、ゆっくりとアップルパイを妹の口元まで移動させる。直後に七海はフォークに被りつくようにして、数度噛んで、うぅん、と声を漏らした。すっかりほっぺたが落ちている様子に、満足感をおぼえる。

「こういうの文化祭で作ってみたいかも」

「気が早いな」

 まだ、三ヶ月も先だ。しかし、七海は首を横に振ってみせ、甘いよ、と告げる。

「そんなに悠長に構えてたら、夏休みも文化祭も、それどころか高校生活も終わっちゃうよ」

「大袈裟だろ」

 笑い飛ばそうとする俺の前で、妹は呆れたように目を軽くつむる。

「やりたいことはやっておかないと、すぐにできなくなっちゃうんだからね」

 なぜか、スイッチが入ったらしい七海の言葉を、聞いたり聞かなかったりしながら、外に立つ眼鏡の男と魔法少女の視線を受け流し続けた。


 *


 あれは近所の友だちのタカ君が交通事故で亡くなってすぐのことだ。

 事故現場が通学路の途中にある横断歩道だったため、住んでいるマンションの子供たちでの集団登校中にどうしても通らざるをえない。高学年と低学年のおおよそ十人ほどの子供たちは全員がタカ君と仲が良かったためか、みんな沈んだ顔をしていた。

 横断歩道の赤信号で足を止めると、ここだよね、と七海が呟いた。それと同時に、喉元にあの寒気がやってくる。対岸に立つ電柱の下、タカ君がこちらを見ていた。生前、柔らかく人懐っこかった顔は険しくなり、アーモンド形の目も釣りあがっていた。まるで親の敵でも見るようなその眼差しは、なまじ親しい付き合いがあっただけに堪えた。

「タカ君ね」

 電柱下のタカ君のことが視えていないらしい七海は、どこか物憂げに呟いたあと、躊躇いがちに俺の耳元に顔を近付ける。喉もとの痛みのような冷たさが強まった。

「ついこの前、わたしのこと好きって言ってくれたんだ。だけど、わたし。わたし……」

 そのまま顔を俺の肩の辺りに押し付けてくる。信号はとっくに青になっていたが、登校を急かす気にもなれずに立ち尽くしていた。その間も、タカ君は俺たちを恨めしげに見ていた。


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 夏休み中の登校日。諸事情の確認やプリント配布などがあっさり終わったあと、なんとはなしにクラスメートと交流を深めた。

 そのあと、ふと一人になりたくなり、新校舎と旧校舎の三階を繋ぐ渡り廊下へやってきた。むわっとした空気にうんざりする一方、それとは別に涼しい風が通っているため気持ち良くもある。そのまま、ぼんやりと中庭を見下ろしていると、後ろから目を塞がれた。

「だーれ――」

「七海」

「ちょっと! まだ、言い終わってないんだけど」

 視界が明るくなってすぐ、俺の横から頬を膨らました妹があらわれる。

「こんなこと、お前くらいしかしないからな」

「えっ、もしかして、お兄ちゃん友だちいないの? ごめん、わたし、気が利かなくて……」

「こんなにべったりしてくるのはお前だけなんだよ」

 言ってから、少なくともあと一人はいたなと思い出す。同じ人物のことが頭に浮かんだのか、七海が眉を吊り上げた。

「キョーヤ君のことを忘れちゃったの? ひどくない?」

「そうだったな……」

 忘れたままなんてどうかしてる。そう考えかけたあと、思い出さない方が良かったのではないのか、と気持ちがほんの少しだけ湧きあがった。案の定、首筋に冷たいなにかが広がっていく。視るまでもないだろう、と思いつつ、そちらを向けば、渡り廊下の落下防止柵の上に座ってこちらを物言いたげに見つめるがっちりとした少年の姿。まるで記憶が薄らいだこと自体を責められているようだった。

「ここから落ちたんだよね」

 七海が中庭を見下ろすのに合わせて、俺もまた少年から目を離す。抗議の意思からか冷たさがより皮膚の深くに突き刺さっている気がしたが、暑いしちょうどいいか、と思おうと努めた。

 校門に向かっていたり、立ち話をしたり、ベンチで座って話していたりする学生で賑わうこの空間の真ん中に、かつて一人の少年が落ちた。事件当時、俺が登校した時には既に亡骸は片付けられていたため、直接見ることはなかった。当日、日直で早く登校した七海から聞いたところによれば、頭が割れ脳が見え、血がべったりとコンクリートについていたらしい。

「キョーヤ君にはすごく良くしてもらったなぁ」

「そうだな」

 同意を示す俺に対して、七海が懐かしげな目でこっちを見ながら、愛を感じたね、と冗談めかして告げた。あながち、なくはないかもしれない、と思っている間、話題は死者繋がりからか、この前、二人で行ったお盆の墓参りの話へと移っていった。その間も、柵の上に座る少年の視線はずっと注がれ続ける。


 *


 中学生の頃、いないはずの誰か、が出た場所についてあらためて調べてみた。大方の予想通り、どの現場でも例外なく人が死んでいて、確認できるかぎりでは俺が視た人間と故人たちの年齢性別は合致していた。

 やっぱり、幽霊が視えていたのか。当時の俺はそう解釈した。それにしても、皆が皆、あの視線を向けてくるとなれば、死後の世界というものはそれほどに苦しくひどい場所であるのだろうか? 親しかったものですら睨みつけてくるのは、そういった解釈を想起させた。あるいは、仲良くしていたと俺が思いこんでいただけで、向こうから憎しみを向けられるだけのなにかをしでかしていたのだろうか?

 答えの見えない諸々の思いの先に、ふと七海の顔が浮かんだ。あいつだけにはあんな目で見られたくないな、と。


 /


 夜。マンションのべランダ。俺は七海と手を繋いで花火を見上げている。輝き広がって、空に吸いこまれるようにして消えていく、色とりどりの光をぼんやりと見上げるかたわら、溶けそうなくらいの微笑み浮かべる妹の横顔をちらりと盗む。できるかぎり眺めていられれば、と思った。

「なに、お兄ちゃん? もしかして、わたしがあんまりに美人だったから見惚れたりしちゃった?」

 視線に目ざとく気付いた七海の問いに、ああ、と同意を示す。途端に黙りこんだ妹の頬はこころなしか紅潮しているようだった。

「もう、急にそういうこと言わないでってば」

 しばらくして再起動した妹にばんばんと肩を叩かれる。からからと楽しそうにするただ一人の大切。いつまでもこのままでいて欲しいと思う。

「ねぇ、お兄ちゃん。今日もいいかな?」

 尋ねられて、黙って頷くと、七海は俺の首に両腕を巻きつけ顔を近付けてきた。

 家の中から伸びてくる二つの物言わぬ温度のない視線の存在をより強く感じつつ、唇にかかる柔らかさを受けいれた。時間が止まったような心地の中でも、人肌の温度といないものの冷たさはたしかにここにある。


 どれだけ時間が経っただろう? 七海が名残惜しげに離れた時には打ち上げ花火は止まっていた。

「お兄ちゃん、私……幸せだよ」

 一年ほど前、部屋が家族ともども荒らされ、二人きりになった日から、七海はよくこんなことを呟く。できれば、そうあって欲しいし、そうあるべきだと思った。

 程なくして、どちらともなく手を繋いだまま部屋へ戻ろうと柵に背を向ける。室内からの視線が気になって妹の方へと顔を逸らすと、とてもとても無邪気な笑みを浮かべていた。

「今すぐ死んでもいいくらい」

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感情 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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