虫の知らせが知らせない
眞壁 暁大
第1話
町田ミチと町田サチは孤児である。
両親が死に、町ならぬ町、「穴」の縁の集落に住んでいる。
*
ある日世界に空いた小さな穴から、ヒトならぬものが湧き出した。
すわスプラッタ終末スペクタクルか、と思いきやそれらヒトならぬものは、おおむね無害。
ただ見た目が「ヒトから見て」気に入らないので、ヒトはそれらを湧き出した穴の周りに閉じ込めておくことにした。
閉じ込めついでに、底しれぬ穴をゴミ箱として扱い、人の世に不都合で不格好なあれこれも放り入れることにした。
*
町田サチは勘働きが良い、と言われて育った。
事実そうだったのであろう、今は亡き父に連れられていった公営賭博では、フネもバイクもチャリもウマも、多くの賭け券を的中させていた。
そうして日中に膨らませた懐を「男の沽券」に拘る父が最終勝負に全てブチ込んでボロ負け、すってんてんになるのもいつもの光景であった。
他にもなんとなく……で未然に危険を回避していたことも数多い。
そうした経験があったから、サチ自身も「自分の直感は鋭い」と自覚していた。
その自覚がゆらぎ始めたのは、この穴べりの町に暮らし始めてからだった。
引っ越してはじめての日に、鳩の群れに囲まれてしまった。
サチはこの距離感のおかしな生き物が苦手だった。近づいても逃げないかと思えば、遠くからサチめがけて飛びかかってくるとか、行動が読めない。
むかし母に連れられた公園で、餌をまいている老人ではなくサチの方に群れで集ってきた鳩がトラウマになっている。
そうした苦手意識のあるものに近づくと、サチは耳の付け根の下、顎の骨の出っ張りにピリリとした違和感を感じる。第六感とでもいうのだろうか、その違和感を無視していると大抵ろくなことがない。
違和感を感じたら進もうとしていた進路を曲げるか、引き返すかしないと拙いことになる。
裏を返せば、そうした違和感を感じないかぎりはよほどの凶事は起こらない。
それがサチのこれまでの短い人生から得た経験則であった。
にもかかわらず、引っ越し初日に鳩の群れに出会い、囲まれるというアクシデントに遭遇する。
その日以来、違和感が働くのを急に止めたかのようにサチはこれまで自然に回避してきたこまごまとしたトラブルをどんどん踏みつけるようになっていた。
以前、ミチが鳥にフンをかけられた! と酷く苛立ちながら落ち込んでいたのを笑っていたが、自身はこの町でそれを二度も経験することになった。
耳の下の違和感に頼り切っていたため、サチは歩いている時の警戒感が薄すぎる。普段の行動でも、普通の人間が払うような注意力がまったく訓練されてない。
一度などは側溝に足を取られて怪我をした、と泣きながら帰ってきたサチに、ミチとマチは顔を見合わせたものである。
幼稚園児でも一度やったらなかなかやらない事故である。
二人は、サチがふだん本当に目を開いて歩いているのか不安になった。
今ではそうして不安を抱くのもミチ一人になった。
勘働きが完全になくなったサチ。
母である町田マチが寝煙草で焼け死ぬのを直感すらしなかった。
サチにとっては青天の霹靂。予想だにしない事態である。
町田マチが故・町田マチとなり、この穴べりから小さな骨壷に入れられて街へと戻っていった後もサチが泣くことはなかった。
サチの父親が海外で亡くなったときはこうではなかった。
そうとうひどい虫歯なのか、と母のマチが動揺するくらいに泣き叫んで転げ回っていた。
虫歯などではなく、例の耳の下、顎の付け根あたりのピリリとした引攣れが、なんとなく慣れていたのとは桁が違う尋常でない激痛だったために、まだ語彙の貧弱だった幼少のサチは泣き喚くしかなかったのだ。
痛みで転げ回ったことは覚えていたが、その後はすっかり忘れていたサチに呆れながらミチが語ったところによると、母のマチがどうすればよいかとオロオロする間にそうしたサチの絶叫はピタリと止み、ケロリとした顔で立ち上がった……のだそうだ。
そうした直感がまったく働かなかったことの衝撃。
母の死。
一つでも重いに重ねがけのショックに迫られて、サチはマトモに受け止めきれずにいた。
今回の母の死に際してのゴタゴタがようやく収まった頃。
居間でダラダラしている時に、サチはそのことについてミチから問われた。
「サチは今回はなんともなかったのか」
「うん。ぜんぜん」
「じゃあやっぱり消えたのかな、直感」
兄のミチは軽く流していたが、サチはけっこう落ち込んでいる。
もしも父の時のような激痛があれば。
もとい、あれ程の激痛でなくとも、何かしら感じ取れるものがあれば。
引っ越して以来、何らの刺激も湧かなくなった耳の下のあたりを指先で撫でながらサチはため息を吐いた。
「どうしました、お嬢さん」
声をかけてきたのはゴタゴタがようやく収まった後に迎え入れたルームシェアの同居人であった。首から上はやたら長いまつ毛を除いて卵のようにツルツルなのに、デコルテラインから下は極細の針金のような剛毛がびっしりと体表を覆っている。もちろん背中も、肩甲骨のあたりから下は全身真っ黒な体毛をまとっていた。
サチとミチは、同居人のぎょろぎょろと動くその目に促されるようにサチの直感が働かなくなったことの次第を語る。同居人(本人はワトソンと名乗っている)は毛むくじゃらの腕を組んで
「それは直感が消えたのではなくて、ここでは出なくなっている、と見たほうがいいでしょうね」
と呟いた。
腕を組んだと見えたのは毛むくじゃらの懐に潜っていたなにかを探っていたためらしく、目的の品にたどり着いた腕を引き抜くと、その手のひらの中にはスマホが現れた。
ワトソンは太い指でスマホの画面を操作しながら、俯いたまま言った。
「穴の縁が崩落してからこっちに来た、というのは話しましたよね」
返事を求めていたわけではないらしい、ワトソンは続けていう。
「崩落の危険性なんて、私たちはちっとも感じていませんでした」
世界に空いた穴。
さいしょは小穴だったのだが、じわじわ広がっている。どういう理屈かはわかっていない。
穴を囲むように形成された集落のうち、とくに穴べりの住人が崩落に巻き込まれて穴に飲まれたり、住居を失ったりしている。ワトソンはつい最近の崩落の生き残りだった。
「だから、私たちは勘の鈍い質なんだろうな、と思っていたのですが」
目的の画面を開くことに成功したっぽいワトソンが、その画面を開いたままスマホをサチに差し出してきた。
受け取ったサチは、その画面を見つめて動かなくなる。
よく知られたコミュニケーションアプリのポップアップした吹き出しがすべて一つの単語の連続で埋め尽くされていた。
サチは恐る恐る画面を指先でなぞったものの、どれほどスワイプしても終りが見えない。
「住処を失った後、私たちはここから離れるか、留まるか迷いました。
ここに留まってもいつ崩れるかわからないですからね。それでも穴からは少し離れてるこの辺りなら少しは安心かもしれませんが、崩れる不安に怯えながら暮らすのは懲り懲りだと思いました。それで、ここから出ようと思ったんです」
ワトソンはそこで言葉を切る。
「そとがどういう場所か、聞いてはいたのですが」
「いざここから出ようとした時に、私たちは経験したことのない痛みを感じました。二人とも小指の先に違和感を覚えたのです。歩いていられなくなった私は出るのを諦めよう、と言いましたが、もう一人は脂汗を流しながらも、それでもここは嫌だ、と出ていってしまいました」
ワトソンは深く息を吸って言った。
「もう一人の残した、多分最後のメッセージです。彼は直感に抗ったけれども、やはり直感は正しかったようです。私は外の世界を知りませんが………そうですよね?」
最後の言葉はサチの隣でスマホを覗いて、これも絶句していたミチに向けられた言葉だった。なにがそう、なのか。母町田マチがどのようにここに漂着したのかをぼんやりと知っていて、そしてどのように街に戻っていったか知っているミチは、小さく頷いた。
「お嬢さん。穴が崩れるのにまったく予感のなかった私たちでも、ここを出る時に直感は働きました。お嬢さんもきっと……ここを出る頃には戻っていると思いますよ」
ミチの頷きを見て、ワトソンが静かに言う。
それがサチにとって慰めになったのかどうか。
サチは画面をまだスワイプしている。その掌の中で「たすけて」の文字のループは途切れることなく続いていた。
虫の知らせが知らせない 眞壁 暁大 @afumai
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