胎動

西羽咲 花月

第1話

あたしの世界が暗闇に包まれたのは、幼稚園の年長の頃だったと思う。



集団生活にも随分馴れて、友達もできて、だけど時々はずる休みをしてお母さんに甘えて。



そんな普通の園児だったと記憶している。



「友里ちゃん、落ち着いて聞いてね」



アキちゃん先生がいつもの笑顔を封印してあたしにそう声をかけて来た。



「友里ちゃんは今から、先生と一緒に病院へ行くの」



「どうして?」



幼稚園が終る時間まで、あと2時間はあった。



だって今お弁当を食べ終わったところだったから。



「病院に行くまでに説明するから、ね」



アキちゃん先生に手を引かれ、わけもわからず向かった先で見たものは……生気を失った両親の姿だった。



病院の白いベッドがやけに眩しくて、アキちゃん先生に抱き上げられて見た両親の顔も白くて、夢を見ているような気分だった。



両親がどうして白いお化粧をしているのか、あたしはアキちゃん先生に何度も尋ねたと思う。



だけどアキちゃん先生から帰って来る言葉はどれも理解できないものばかりで……。



「さっさと片付けをしろ!」



そんな罵倒が聞こえてきて、あたしはハッと息を飲んで我に返った。



ここは父方の叔父の家で今夕飯が終った頃だった。



「……はい」



あたしは小さな声で返事をして、キッチンへと立つ。



水道の蛇口をひねると冷たい水が噴き出してきて、顔をしかめた。



あたしの手はひどく荒れていて、いくらハンドクリームを塗っても治らなかった。



「お前は本当に役立たずだね。死んだ洋二さんとそっくり」



叔母はそう言い、あたしをねめつける。



あたしは水量を増やして聞こえないフリをした。



こんなことを言われるのは日常茶飯事だ。



あたしの幸せは幼稚園年長の、あの日に追わってしまったのだから。



「洗い物が終ったら風呂掃除だよ。そのくらい、学校が終ったらしておくもんだろ!」



叔母さんからの罵倒にあたしは頷くしかできなかった。



学校が終わったら勉強をして、洗濯物を取り込んで、夕飯の準備をする。



それだけであっという間に時間は過ぎて行ってしまう。



風呂掃除までする時間はなかった。



けれど、それを言えばまた罵倒されるのが目に見えているので、あたしはひたすら従順になるだけ。



洗い物を終えて風呂掃除をすると、ようやく少しだけ時間ができる。



その間があたしの休憩時間だった。



ちょっとだけテレビを見させてもらい、夏休み中にバイトをして購入したスマホをつつく。



1時間くらい自由な時間を過ごした後は、お風呂に入り、自室に閉じこもるだけ。



あたしの部屋は元々物置部屋として使われていたようで、窓が小さく埃っぽい。



ベッドを置くスペースなんてなくて、フローリングの上に直接マットを引いて寝ていた。



それでも、家のない子たちよりはマシだ。



毎日罵倒はされるけれど、暴力を振るわれているワケじゃない。



夏休みにはバイトをして好きなものを買う事もできる。



学校にだって通っているし、友達もいる。



そう思う事で、自分を納得させていた。



マットに寝転んで大きく息を吸い込むと、埃を吸い込んでしまって咳き込んだ。



この埃っぽさだけはどうにかしてもらいたいけど。



そう思いながらスマホを取り出した。



2年A組のグループラインを表示させると、数人のクラスメートたちが参加していた。



《梓:悪魔が封印されてる山があるって知ってる?》



《夕夏:知ってる! 結構有名な山じゃん?》



《透:悪魔に願い事をすれば叶えてくれるっていう噂の?》



噂好きの3人の会話にあたしは心が柔らかくなっていくのを感じた。



こうして友人たちの会話を見ているだけで、さっきまでのギスギスとした気持ちが消えて行く。



《友里:悪魔って本当にいるの?》



《梓:いるよ! たぶんね笑》



《透:悪魔に願い事をすると子供ができるんだってな》



《友里:子供?》



《透:うん。その子供は一週間くらいで生まれてきて、母親の願いを叶えてくれるらしい》



へぇ、そういう噂なんだ。



思ったよりもオカルト寄りで、背筋が寒くなる。



怖い話は苦手だった。



だけど、友達の会話にはついつい入って行ってしまう。



家に居場所がないのに、学校内でも居場所がなくなってしまったら困る。



「お母ちゃん」



「え?」



不意に聞こえて来た声に反応し、周囲をみまわした。



変わらない部屋が広がっているばかりで、誰の姿もない。



小さな窓から外を確認してみても、大通りには猫1匹も見当たらなかった。



気のせい?



あたしはそう思い、再びマットへ寝転んだのだった。

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