近畿の奇跡 〜総一朗とぼくの1ヶ月〜

蛾次郎

第1話 最強の挑戦者

 



 挑戦者のダニエル・バードンJr.がジャブを繰り出しながら、王者、羽沢光樹との距離を縮めるが、羽沢はガードを固めながらリングを所狭しとサークリングし、一向にバードンJr.と打ち合わない。3ラウンドが終了しても未だ羽沢はパンチを一発も出す事無くインターバルに入った。



 現在、琵琶湖の湖上に浮かぶ特設スタジアムで、WBZボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われている。

滋賀県出身の王者、羽沢光樹の凱旋試合として地元の人々からはもちろん、海外のVIP達もプライベートジェットで観戦に来るほど注目されている一戦だが、羽沢の消極的過ぎるスタイルに落胆の空気が漂い、時折ブーイングが聴こえて来た。


赤コーナーで休憩を取る羽沢に、セコンドの田原総一朗が指示を送る。

「良いですよ。4ラウンドもしっかりと顔面を守ってサークリングしまくってください。相手が無理矢理迫って来たら、とにかく逃げてください」

羽沢は含んだ水を吐き出すと、荒い息で田原に話す。

「君ねえ、こんなつまんない試合続けてたらお客さん帰っちゃうよ?あのねえ、次から海外の富裕層が日本の興行はつまらない!もう来ない!ってなったら外貨の獲得なんて出来っこないよ?良いのそれで?どう?」

グローブでバンバン自分の膝を叩きながら問題提起する羽沢に対し、田原が冷静に答える。

「よく聞いてください。5ラウンドまでは、このスタイルで大丈夫です。今は逃げ続けてラウンドを稼ぐ事に集中してください。客の早く攻撃しろという同調圧力に流されて下手に前に出ると…」

田原が説得している途中でインターバル終了のブザーが鳴った。

「分かった!じゃあ4ラウンド終了後にトレーナーの話を聞きます!はい、じゃあ一旦試合!」

そういうと羽沢はイスから立ち上がり、軽くステップを踏みながら、第4ラウンドに向かった。


開始早々、羽沢はアドバイス通り素早いサークリングでバードンJr.を寄せ付けない。

バードンJr.も呆れたように首を横に振りながら強めのステップで距離を縮める。

「もっとアゴ引いて脇締めて!ガード忘れないように!」

田原が羽沢に強めの声で指示を送る。



ダニエル・バードンJr.。20歳。

アマチュア時代に400戦無敗400KOという恐ろしい実績を抱え、半年前にプロデビュー。

このタイトルマッチに辿り着くまでの試合数わずか5戦。

いずれもランカー相手に1ラウンドKO勝ちという期待通りの結果で、世界中のボクシングファンから注目の的になっている。


2メートル125kgという規格外の体格から繰り出されるバードンJr.のパンチは「白鯨がブッ飛ぶアッパー」「大地を割る拳」「アフリカ象にボクシングを教えて勝てるかどうか」と評されるほどの破壊力があり、182cm 95kgの羽沢では1発喰らえばKO必至の相手である。


ただしアマチュア時代から1ラウンドで決着がついてしまう事から、どのくらいスタミナがあるのかは未知数だった。

そのため、田原総一朗トレーナーの作戦は、羽沢が1発もパンチを貰う事なく逃げ続け、それを追うバードンJr.のスタミナが切れて来た所でジワジワと接近し、低い体勢でボディを当てては逃げ当てては逃げのヒット&アウェイ戦法を計画していた。それ以外、羽沢に勝算は無いと踏んでいた。


4ラウンドが終盤に差し掛かった頃、羽沢を追いかけるバードンJr.の背中からじんわりと汗が滲み、少し肩で息をし始めているのが分かった。

「ちょっとだけ勝機が見えて来た…」

田原が呟く。それと共に、あの時アクシデントが無ければ…という思いが駆け巡り始めた。



そのアクシデントは、試合の1ヶ月前に起こった。


____________________


 

 羽沢がプロボクサーとしてヘビー級チャンピオンになれたのは、設立してまだ4年目の新興団体であり、選手層がひたすら薄いWBZに属している面が大きかった。

軽量級は、この4年でかなり層が厚くなって来たものの、ヘビー級となると羽沢を入れてわずか8名の選手しかおらず、技量も街の喧嘩屋程度、いや、そこそこ強い喧嘩屋に負ける可能性が高い選手もいるくらいのレベルだった。

そのためファイトマネーもプロとは名ばかりの額しか出ない。

そんな3流団体にまさかあのバードンJr.がデビューするとは思いもしなかった。


羽沢は街の用心棒レベルの対戦相手と激闘を積み重ねた末、30歳で念願のタイトルを勝ち取った。

このまま有終の美を飾り、防衛戦をせずに引退し、第二の人生である「女性も気軽に入れるフィットネスを兼ねたボクシングジム」経営の道に進む腹積りだった。


しかし、鳴り物入りでデビューし、颯の如くランキング1位になったバードンJr.という最高の選手と一戦交えたいという格闘家としての本能が沸々と湧き上がり、羽沢自らバードンJr.を初防衛戦の相手として指名したのである。


この無謀といえる決断には、羽沢を育てた堂島雄三トレーナーを始め、後援会、ジムの仲間達、親兄弟など、身内という身内全てに猛反対された。

王者とはいえ羽沢とバードンJr.の実力差は、あまりにも次元が違う。一歩間違えずとも命に関わる危険性が高い。

羽沢自身も周りの過剰なまでの反応に戸惑ったが、最終的に「己より強き者と闘いたい」という思いがより強くなっていった。


その決意を周りに伝えると、それならば羽沢の故郷、滋賀で開催しようと後援会長が多額の資金を捻出。

地元のシンボルである琵琶湖のド真ん中に2000人収容の特設ステージを作り、バードンJr.とその陣営を招聘するための飛行機代やジム、宿泊施設、観光代、そしてファイトマネーの3割を負担する事で、バードンJr.の次戦をアメリカで開催しようとしていたWBZのコミッションもタイトルマッチを羽沢のホームで行う事を承諾した。



これだけお膳立てされて呆気ない秒殺で負けるわけにはいかない。

しかし玉砕覚悟で打ち合う実力は無い。

しかし勝たなければならない。

羽沢は、自らの決意で生じた重圧に苦しみながら、今まで以上の過酷なトレーニングを敢行した。


しかし、そのトレーニング中、思わぬ事態が羽沢を襲ったのだった。



(つづく)

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