俺の胃もたれお疲れ様飯

東妻 蛍

第1話

「はい、今日の撮影終了です! お疲れ様でした」

「お先失礼しまーす」

「あ、ちょっと向井さん!」

 ADの言葉にも足を止めることなく、俺はスタジオを後にした。こういう時はボロが出ないうちにとっとと帰るにかぎる。本当に俺が必要であれば、また連絡が来るだろう。

 俺は最近売り出し中の「アイドル」というやつだ。別になりたくてなったわけではない。地元の友人と東京に遊びに来ていた際にスカウトされ、周りに乗せられてあれよあれよという間にデビューしていた。唯一の救いと言えるのは、スカウトが詐欺ではなく本物であった点だけであろう。

 今日の撮影も疲れた。家に帰って、いや寝るには早いな。何をしようか。そんなことをとりとめもなく考えながら駅までの道のりを歩く。すると、ふと周囲のざわめきに気がついた。

「ねえ、あれ誠司じゃない?」

「え、嘘! 本物じゃん!」

 しまった。油断した。女子高生たちに声を掛けられるよりも早く、つい先ほどまでロケをしていたレストランの方にきびすを返す。とにかくここから離れたかった。ため息をつきながらタクシー配車アプリを立ち上げる。畜生、余計な出費だ。

 無事にタクシーに乗りこみ、ため息をもうひとつ。事務所からセレブ系アイドルとして売り出された俺は、会社から「なるべくイメージを崩すような行動をしないように」と釘を刺されている。だったら電車を使うか何かしないと行けないような場所にアイドルを1人で行かせるんじゃないよと言いたい。しかしまだまだ素人に毛が生えた程度の俺に専属でマネージャーをつけるなんてうちの事務所の規模では難しいこともよく分かっているので文句は言えないのだが。

 ちらりと前を見ると、運転手がなにやら言いたげにソワソワしているのが目に入った。ばれているのか判断がつかないが、声を掛けられては厄介だ。俺はスマホを見るふりをしてやり過ごすことに決めた。

「すみません。そこ右に曲がったところのコンビニで降ります」

「もう薄暗いですし、危ないですよ。大丈夫ですか?」

 運転手の言う通り確かに薄暗いが、歩けない暗さではない。ここのあたりはそう治安の悪い土地ではないので、体格のいい俺が危ない目に遭うこともまあないだろう。それよりも顔バレしているかもしれない状態で自宅を教えてしまうことの方が怖いのだ。

「大丈夫です。欲しいものもあるので」

 渋々といった表情の運転手を言いくるめてコンビニで降車した。そして少し後悔する。欲しいものがあるなんて言ってしまったが、セレブ系アイドルはコンビニで買い物をするのだろうか。まあ便利だしそういうこともあるか。そう自分を納得させ、コンビニに足を踏み入れた。

 入店して後悔をもうひとつ。店内に誰もいない。たった1人の客である俺に向けられる店員の視線が痛い。適当に時間を潰してから退店しようと思っていたのだが、何か買わずにはいられない雰囲気になってしまった。そうは言っても「欲しいものがある」というのはタクシーを降りるための方便だったわけで、特に欲しいものなどありはしない。いや、正確には確かに何かが必要だった覚えもあるのだが、今思い出せない。まあどうせ飲むし、炭酸水でも買って帰ろう。そう思って、炭酸水を手にレジに向かった。129円。決して高くはないのだが、給料日までの日数を考えるとちょっと痛い。会計を済ませて、店員の「ありがとうございましたー」の声を背に退店する。そしてふと思う。あの店員のテンションだったら別に何も買わなくてもよかったんじゃないか。

 仕事が終わったのは15時過ぎだったが、家に着いたのは18時を回った頃だった。なんだかどっと疲れた気がする。無駄に気を回しすぎてしまった。そんなことを思いながら炭酸水の蓋を開ける。プシュッという音が耳に心地よい。

「さて、どうするか……」

 夕飯を取って、シャワーでも浴びて。とにかくとっとと寝てしまいたい。明日も朝一から撮影があるのだ。とにかくこの疲れを癒やさなければ。

 しかし、今日のロケはレストランでの食リポだったのだ。結構な量をつい先ほどまで食べていたので、それほどお腹は空いていない。いや、むしろ胃もたれしているくらいだ。

「なんで肉に肉を巻こうなんて考えるんだ……」

 セレブ系で売っている俺のためなのか、食リポで食べさせてもらう食事は高級食材を使った物が多い。普段食べられないものばかりなので嬉しいのだが、食べ慣れていない物なので胃に優しくないときもある。今日のフォアグラを松阪牛で巻いた物は、確かに美味しかった。でも、一体どんな発想なんだ。

 なんでもいいから、胃に優しい物を少し食べて、胃薬飲んで、早く休もう。空きっ腹では薬が飲めない。そんなことを考えながら、冷蔵庫をあける。

「……うわぁ」

 思わず声が出る。ほとんど何も入っていない。まともにすぐ食べられそうなのは豆腐だけだ。そうか、俺が本当に欲しかった物は食材だったんだな……。まあ食材を買うのであればコンビニよりもスーパーマーケットに行きたかったんだが。もう豆腐だけ温めて食べるか? いや、待て。冷凍庫には何かあるんじゃないか。そうだ、ご飯を冷凍していたはずだ。とりあえずたべるものはある 。喜ばしい気持ちで冷凍庫に手をかけた。

 冷凍庫を開けると、ご飯の他に見覚えのないものが入っていた。記憶をたぐり寄せると、冷凍ホウレンソウは確かデビューしたてのストレスからか貧血気味だったときに買ったような思い出がよみがえってきた。でも、この白い氷のようなものがたくさん入ったジップロックは何だ? 手に取ると、紙がひらりと落ちた。ますます疑問が湧いてくる。俺は紙と食べ物を一緒に冷凍した記憶はない。メモを見ると、幼い頃からよく見知った文字が目に入った。

「風邪には大根おろしがよく効くからね。小分けにしておきます 母」

 そうか、3ヶ月ほど前のデビューしてすぐの時期、俺がよく体調を崩していた頃に田舎から出てきてくれた母さんに看病してもらったことがあった。その時に母さんが冷凍していってくれたんだろう。でもそれを俺に言っていかないのはどうなのだ。そもそも3ヶ月前の大根おろしは、冷凍されているとはいえ食べられるのか。

「……加熱すればいけるだろ」

 俺は考えるのを止めた。小分けにされているものの、これ以上この大根おろしを冷凍庫に置いておくことはためらわれる。今日はこれを全部入れて、ホウレンソウと豆腐も入れて、スープを作ってご飯ぶち込んで。それを夕飯としてしまおう。

 思いついたからにはさっさと行動してしまうに限る。鍋に水を入れて火に掛ける。沸騰するまでの間に豆腐をさいの目に切っておく。今日切る物といえばこれだけだ。そうしているうちに湯が沸いてしまった。とりあえず顆粒だしを……。あっ!

「顆粒だしがねえ!」

 そうだ、コンビニで何かが欲しいと思っていたが、それが顆粒だしだったのだ。顆粒だしがないと味が決まらない。冷蔵庫には他に出汁に使えそうなものもない。どうしよう。これから湯豆腐に変えてしまうか。でも俺の気分はもう大根おろしをたっぷり使ったスープ飯なのだ。頭をかかえながら棚をガサゴソと漁っていると、ふと見覚えのない木箱が目に入った。何が入っているのだろうと蓋を開けると、中には鰹節の小袋が入っていた。

「……あ、直也の結婚式の引き出物か」

 地元の友人の結婚式の引き出物としてもらったような記憶がある。思い出せてよかったと思いながらもう一度箱に戻そうとして、はたと気がつく。鰹節で出汁ってとれなかったか。小学生の時の家庭科の授業でやったような気がするんだけれども。鰹節をばーっと鍋に入れて、布を使って漉したりとかした覚えがある。まあうちには漉し器なんてないんだが。なんとか使えないだろうか。

 何かないか。先ほどからずっと探し物をしている気がする。ぐつぐつと沸騰している鍋の音が俺を焦りを加速させる。食器棚の奥まで探していると、母からもらったものの一度も使ったことがない急須が出てきた。急須……茶こしが入っているな。あれに鰹節入れて、お茶みたいに出汁も出せないもんだろうか。まあものは試しだ。失敗しても後悔するのは俺だけしかいない。というか、この鰹節もとっとと使ってしまいたい。同級生が結婚するような年齢になっているという事実を直視したくない。

 茶葉代わりに鰹節を入れ、先ほどまで沸かしていたお湯を急須に注ぎ入れる。ドキドキと見守っていると、ふわりと料亭のようないい香りが漂ってきた。これは成功なんじゃないか。鍋に急須からすべての鰹出汁(仮)を注ぎ入れて味見をする。

「……出汁だこれ!」

 どうやら成功したらしい。少しあっさりとしている気もするが、まあそこは醤油でなんとかカバーできるだろう。出汁に豆腐と冷凍ホウレンソウ、そしてたっぷりの大根おろしをぶちこみ、醤油を回し入れる。ついでに冷蔵庫に眠っていたショウガチューブも絞り入れた。大根湯にはショウガが入っていたような覚えがある。きっと万病に効くぞ。

 最後に冷凍ご飯をぶち込んで、一煮立ちさせたら完成だ。簡単なThe男飯といったようなスープご飯が完成した。スープご飯というとおしゃれに聞こえるが、単に冷凍ご飯を解凍するのがめんどくさかったからとしか言い様がない。

 食べる前に料理の写真を撮る。食事は仕事の時以外は基本的に記録を取るようにしている。備忘録代わりというのもあるが、プライベートなSNSアカウントにアップすることで両親にちゃんと俺が東京で生活できている姿を見せて安心させるという意味もある。ただ、今はとりあえず目の前の食事に集中する。SNSには後で上げればいいや。

「いただきます」

 誰に言うわけでもないのに、習慣で食事の前の挨拶はしてしまう。親戚からはよく「ご両親の教育がよかったのね」と褒められたものだ。こういう姿をみせたからか、事務所には「英才教育を受けたスーパーセレブ系アイドル」みたいな売り出し方をされてしまったのだ。実際の俺は小市民に過ぎないのに。まあいい、それよりも飯だ。

「うーん、思ったより全然いける」

 やばい物は入れていないので当たり前だが、優しい味がしてめちゃくちゃうまい。これに長いものすりおろしたやつ入れたらもっと体によさそうだなーなどと考えながら完食する。うまかった。食事を取った後に胃薬を飲むつもりだったが、大根おろしが思っていたよりも胃に優しくて、胃薬は必要なさそうだった。ならば後はシャワーを浴びて寝るだけだ。……いや、シャワーはもう明日の朝でいいから、とにかく眠い。疲れた。もうまぶたが重くてこれ以上動けそうにない。そんなことを思いながら色々なことを全て諦め、ベッドにダイブした。一日くらいなんとかなるだろ。俺はまだ若い……はず。

 ああでも寝る前に、SNSに今日の食事だけ上げておかなければ。母さんが心配してしまう。そんなことを思いながら、ほぼほぼ動かない体にむち打つ。そして投稿の完了画面を寝ぼけなまこで見守り、ようやく眠りについた。

 翌朝、朝一の仕事に間に合わせるために慌てて準備をする。昨日のうちにしておけよ、なんて昨晩の自分に悪態をつきながら急いでシャワーを浴びた。その間スマホがやけにピロンピロンと音を立てていたが、それどころじゃないので無視して身だしなみを整えた。よし、出かけられる。と安心したのもつかの間。部屋に着信音が鳴り響く。これはマネージャーからの着信の時の音だ。まあ準備もできたし、出られるな。そう判断して通話ボタンを押すと、マネージャーの浦川さんの焦ったような大声が鼓膜に突き刺さる。

「待って、浦川さん。何言ってるか聞こえないんですけど」

「誠司くん! あなた昨日SNSのサービス間違えたでしょう! 公式アカウントの方に料理の写真載ってるんだけど!」

 ようやく聞き取れた単語に、俺の血の気がサーッと引いていく音が聞こえた。備忘録用のSNSと公式のSNSアカウントを間違えた? あの庶民飯が、公式アカウントに載った? 嘘だろ、嘘だと言ってくれ。

「私がプライベートアカウントと間違えたことにしようとしたんだけど、スープに誠司君の姿が反射して写りこんでるもんだから言い訳ができなくて」

 失礼ではあるが、浦川さんの言葉はほぼほぼ頭に入ってこなかった。あれだけ頑張ってイメージを崩さないようにしていたのに、昨日眠気に負けた一回のミスで全てを失うのか?

「まあ幸いにして、好意的な意見もあるからそんなには気に病まなくていいけど、事務所も誠司君の売り方を考えないといけないね」

 それは、俺の売り出しを止めると言うことだろうか。他のタレントに力を入れると言うことなのだろうか。どんどんと悪い想像ばかりが膨らんでいく。

 元々成りたくてなったわけではないが、これでも俺はこの仕事が気に入っているのだ。だからイメージを崩さないようにずっと努力してきたのに。絶望にうちひしがれる俺の耳に、浦川さんの優しい声が入ってくる。

「そもそもうちみたいな弱小事務所でセレブ売りするのが間違ってたのよ。変なイメージ付けないで、地道にやっていきましょうよ。誠司君はちゃんと現場であいさつもするし、細かいところ気がつくし、ちゃんと実力で仕事とれ始めてるんだから」

「浦川さん……」

 浦川さんの言葉が本当のことなのか、今の気が動転した俺では判断がつかない。しかし、そう言ってくれる人がいるというのはありがたいことだ。俺の姿勢を評価してくれる人がいるというのは何事にも代えがたい。元々、地道にコツコツとやるのが俺の長所だと、中学校の成績表にも書かれたことがある。そうだ、ちゃんとこれからも頑張っていけばいいんだ。ファン層は変わるかもしれないが、むしろ「向井誠司」をちゃんと応援してくれる人を大事にしていけるかもしれない。よし、やるしかない。

「浦川さん、俺、なんでもします。頑張りますから」

「まあ今日の仕事をがんばりましょう。SNSの火消しはそんなに気にしなくていいわ。とりあえずこの公式アカウントは私がフル管理するから、告知だけに使っていきましょう」

「はい! とにかくやれることをやります!」

「それでこそ、誠司君よ!」

 セレブ系アイドルを止めた俺が、ご当地自慢番組や親孝行系の番組で人気が出たのは、それから1年ほどたった頃のことだった。自分を偽らなくてよくなった俺は体調を崩すこともなくなり、順風満帆な日々を過ごしている。

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