ある心の病

小狸

第1話

 精神科に初めて行ったのは、仕事を辞めて一週間経ってからのことだった。

 若いうちは働き、苦労をして、めいっぱい努力しろ。

 周りの人達はそう言って私をこき使った。

 上司の怒鳴り声などがぐわんぐわんと、家に帰ってお風呂に入っている途中でも、頭に響いて離れてくれなかった。夢の中にも出てきて、夜中に目が覚めることもあった。その時は汗をびっしょりかいていた。

 ――何度言えば分かる。

 ――どうしてできない。

 ――お前の責任だろう。

 ――何が悪いか分かっている?

 同期たちはこんなに怒られてはいなかった。私が立ち止まっている間、次のステップへと進んでいく。いつの間にか、居残りで怒られているのは私だけになってしまった。同期たちの中で、私の悪口が噂されていることを知った。

 物覚えも悪い方だったので、人より必死に、頑張らなくてはならなくなった。

 頑張って。

 頑張って。

 頑張って。

 頑張って。

 頑張って。

 頑張って。

 頑張った。

 頑張ることが、当たり前だったからだ。

 周りの人たちは、当たり前みたいに出来ているから。

 私はがんばりが足りないんだと、ずっと責め続けながら、頑張った。

 そして――こうなった。

 仕事を辞める時、誰も私に話しかけなかった。

 荷物をまとめてデスクから去って、お世話になった方々に「ありがとうございました」と挨拶に回ったけれど、皆素っ気なかった。こちらを向きすらしない人もいた。

 それもそうだろう。

 社会では、仕事ができることが存在価値だ。

 私は無能だった。

 お荷物だった。

 使えない奴だった。

 役に立たなかった。

 だから、いなくなった方が良かったのだ。

 そう思って、涙は堪えた。

 一週間は、本当に何もせずに過ごした。最低限、冷蔵庫と、備蓄してあったレトルトのもの食べて、排泄と、睡眠をして過ごした。生活に必要なものをある程度買い置きしておいて良かったと思った。

 健康で文化的な最低限度の生活、ですらなかった。

 起きて、食べて、歯を磨いて、シャワーを浴びて、時々トイレに行って、寝る。

 ずっと天井だけを見ていた。電気は付けなかった、スマホも、仕事をしている時はほとんど見る暇のなかったアマプラも、見る気にならなかった。

 友達からいくつかLINEが来ていたようで、時々ぴこぴこと画面が点滅した。

 甘えてしまうのが怖くって、そのまま機内モードにした。

 この一週間は、長かったようにも感じるし、短かったようにも感じる。

 もう何にも追われないという安堵と、何もできていないという不安と、これからどうするという不安と。その渦の中でもみくちゃになりながら、ただ呆然と、天井を見て過ごした。

 予約したのは、駅の近くの精神科だった。

 調べてみて初めて、意外とメンタルケアのための病院というのは多くあるのだということを知った。

 問診表を書き込む間、周囲の人とは目を合わせないようにした。

白鳥しらとりさん」

 診察室へ名前を呼ばれて、私は入った。

 五十代くらいの、さっぱりとした女性の先生だった。

 いくつかの問診をし、先生と話をした後、HSPという言葉を知っているか、と訊かれた。

 知らなかった。

 どうやら最近かなり知名度の広がっている言葉であるらしい。

 先生はゆっくりと、説明してくれていた。

 Highly Sensitive Personの略称、生まれつき感受性の強く鋭敏な感覚を持った人――なのだそうだ。そのせいで疲労しやすく、過剰に他者との距離感で悩むことがあり、人に共感しやすく、心の境界線が薄くもろく、情報を深く理解しようと、するのだそうだ。

「白鳥さんは真面目でしょう? 思い詰めていたのね。でも、死んじゃだめよ」

 と、先生は言った。

「…………」

 涙を、ぐっとこらえた。

 その後またいくつかの質疑応答を終えた後、診察は終わったらしい。

 お会計をして、隣にある薬局で一週間分の錠剤を貰い、家に帰った。

 玄関の扉を閉じて、堪えていた涙が、決壊した。

 ぼろぼろと、勝手にあふれてきてしまう。

 気付いたら、いつの間にか靴を脱いで、私はベッドに突っ伏していた。

 思いっきり、赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。

 こんなに泣いたのは、いつぶりだろう。

 辛かったからでもなく、苦しかったからでもない。このタイミングで嫌なことを思い出したからでもない。

 悩みすぎて――何もうまくいかない自分を全否定してきた。

 私が駄目だからだと、私自身の努力が足りていないのだと――ずっと責めて、無理矢理鼓舞して、無理してちゃんとした振りをして生きてきた。そうしなければ、皆と同じ場所にはいられなかったから。

 でも――違った。

 ずっと言葉にできなかったこの苦しさには、ちゃんと名前があった。

 その事実が、私をほんの少しだけ救ってくれた。



(続)

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