彼方なるハッピーエンド
ゆあん
第1話 連載おわっちゃうってマ?
「え、終わっちゃうって、本当に?」
思いがけず飛び出した大声に、狭いオフィスの全員が振り向いた。恥ずかしさのあまりできあがったばかりの社内報で口元を隠すと、対面の席に積み上がった書籍の山から、ひょいと課長が顔を出した。
「作家さんの意向だって。えっと、なんつったっけ、人事の……あ、そう、山岸さん。もう書くの辞めるって、そういう話」
「辞めるって、なんで? あんなに面白かったのに」
「そこまでは知らん」
落胆と不満の視線から逃げるように、再び課長が書籍の山へと姿を消した。代わりに、エロかわいいと社内でも有名な美人主任が、あたしの背中を
「
「あたし、あれだけが楽しみでこの仕事がんばってたのにぃ」
「そっかそっか、残念だったねぇ。はい、あーん」
美人主任が差し出してくれたチョコレートを口に頬張りながら、大好きな連載が終了するという悲しさも一緒に飲み込むことにする。
ここは銀丸商事株式会社の広報部。社内外における情報流通の要である。
銀丸は東証一部上場の一流商社で、抱える営業部隊は数千人規模、取り扱う商品の種類は万を超える。そんな巨大企業における課題は、情報統制と共有だということで、その打開策として打ち出されたのが、創刊三十年を迎える社内報「まる銀」である。その名誉ある編集を主な業務としているのが、広報部社内広報課、通称新聞部。それがあたし、
とはいえ、今どきSNS全盛時代。紙媒体の社内報は情報共有対策としてはほとんど焼け石に水、コストの無駄だ、とやり玉にあがることはしょっちゅうである。そんなことはとうに分っていて、サラリーウーマンとしてたんたんと業務に勤しむ毎日である。
そんな日々を少しでも楽しいものにしてくれていたのが、『美食探偵たるねこ日記』で、あたしは刷り上がった社内報でこれを読むのを何よりも楽しみにしていたのだが、今月号のどこにも掲載されていないことに気づき、課長に声をかけたのが発端った。
「毎回、スイーツのセンスがいいのよねぇ」
美人主任がおしゃれなカップを口元に運びながら言う。中身は最近流行りのフルーツが浮かんだデカフェだ。女子力。
「そうなんですよ。先月紹介された
「エンドレスで食べられるよね、あれ」
「はい、なんなら酒のツマミでも。ハイボールがイケます」
「わかるわかる」
主任と女子トークに咲いた華は、課長の小さな「うげ」という呻きでしぼんだ。課長は甘いものが苦手で、匂いだけで食欲が減退するらしい。
「でも、本当なんで辞めちゃうんだろ」
クソ真面目な事務連絡やら社論が並んだ社内報の中でも、小説というスタイルで長期連載されている『美食探偵たるねこ日記』は異色の存在であり、さらに地味に人気がある。主人公である飼い猫の「たるねこ」が、失恋続きで悲しむご主人さまを元気づけるために、美味しいスイーツをリサーチするべく店に忍び込む――というお話で、一体そのどこに探偵要素があるのかという野暮なツッコミはさておき、ポイントは登場するスイーツたちだ。実在する店舗と商品が題材になっていて、そのどれもが美味しく、外さない。話題の有名店から知る人ぞ知る隠れた名店まで、ジャンルも和菓子から洋菓子まで多岐に渡る。先月で五七七回を迎え、それだけのスイーツを紹介したと考えると、その功績たるや。驚きなのは、それが一介の社員によって続けられているということだ。
だが、あたしが好きなのは何もスイーツだけではない。
「じゃあ、たるねこはご主人さまを幸せにしてあげられないのかなぁ」
「なにそれ?」
こぼれたつぶやきに、主任が食いつく。
「あれには設定があるんですよ。美味しいスイーツ一個で悲しい記憶が一個忘れられる、だから七七七種類目のスイーツを食べられたとき、ご主人さまは本当に幸せになるんだー、っていう」
「へぇ、そんな設定があったのね。ロマンチック」
「でしょう? 献身的ですよね。そんな彼氏、ほしーなー」
『たるねこ』の掲載ページを取りまとめるのは編集長である課長の仕事だ。たるねこの世界観にドハマリしているあたしは、それを一番に読める課長を恨めしく思ったりもするのだが。
「七七七って。無茶だろそんな数」
その当人が、いよいよ口の中が甘くなってきたのか、青ざめながらつぶやく。課長は誤字脱字のチェックだけしてザラっと載せるだけというタイプだと知ってはいたものの、あたしのテンションもだだ下がりである。
「だからあんたはモテないのよ」
その課長に、主任が鼻を鳴らしながら言った。
「あーあ、私もそれくらい尽くされてみたーい」
その言葉に、課長のタイピング音が強くなった。
主任は上長である課長に対し、しかし遠慮がない。この二人、同期だというが、ときに並々ならぬ過去を醸し出すときがある。入社数年のあたしでも興味本位では首を突っ込めない空気がある。
「でもまぁ、誰もハッピーエンドを知らないっていうのは、少し寂しいね」
主任がカップの底を見つめながら言う。ただでさえ見目麗しい主任だが、こういう瞬間の雰囲気は女のあたしでもドキドキする。その言葉の宛先を測るすべはないが、ますます加速する課長のブラインドタッチが、タン! と一際大きな音を立てたのを最後に鳴り止んだ。と、同時に。
「そんなに気になるなら、直接聞いてみたらどうだ」
課長はコーヒーカップを差し出しながら言った。コーヒーやお茶の準備は、末席であるあたしの仕事である。いいんですか、と明るくなるあたしに向かって、めんどくさそうに「早くしろ」と言わんばかりに手を払うので、渋々コーヒーを注ぐ。
「一応仕事だからな。編集部として、辞退の理由を伺いに行くのは、まぁナシじゃあないだろう」
「課長は聞いてくれないんですか」
「聞けるか。こっちは仕事でも、あっちは趣味だ。これで最後にします、と言われたら、はいそーですか、以外にあるか。この手の話は役職者が出てくとややこしいんだよ」
自分なら若手だから無問題、ということだろうか。
「しつこい、と思われりしないですかね」
「まぁするだろうな。だが、一読者としてファンなんです、っていうことなら、嫌な気もしないだろう。担当編集新人です、しかもファンです。二つ合わせて、アリよりのアリ、って感じだ」
「アリよりのアリ、って」
「あ?」
「なんでもないです、はいコーヒー」
「ん」
課長はたまに突拍子もなく若者言葉を使うときがあり、あたしは結構ツボっている。さっきの口実も、課長なりに自分のために用意してくれた優しさだと気づかないわけではないが、飛び出てきた単語のほうが気になってそれどころじゃなかったりする。こういうことは以前から割とあり、きっと損するタイプなんだろうなぁとあたしは分析している。他の人はどう思っているのかと主任の方を見れば、美人の笑顔圧で返された。
「じゃあ、さっそく行ってきていいですか?」
「ああ、邪魔すんなよ、あと空気読んでいけ。向こうも暇じゃない」
「はーい」
退室際、こっそりと部屋を覗き込むと、主任にチョコレートを投げ込まれた課長が頭を掻いていた。よくわからない大人の世界だ。
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