ソウグウ

「あれ? 幕田間拓真?」


 駅を出てすぐの大通りを渡り、それぞれの職場へと向かうのであろう雑踏のなか、オフィスのある雑居ビルまであと数分というところで名前を呼ばれた。少し行き過ぎてから立ち止まって振り返ると、サングラスをかけた男がこちらを見ていた。派手な柄モノのシャツ姿は、スーツだらけの群衆のなかでは完全に浮いている。


「やっぱ幕田間拓真だよな? なんだよ、久しぶりじゃん」


 見た目だけなら怪しげな勧誘の類であると判断し、足など止めずに無視して歩き去っていた。フルネームを知っているのだから知人なのだろう。しかし、いまいち誰なのかピンとこない。


「えっと……誰だったかな?」


「誰だったかなって、おまえ、俺だよ。園楚崎そのそざき。高校卒業してからまだ十年も経ってないってのに、忘れるかフツー? 薄情なやつだな」


 名前を聞いてぼんやりと思い出した園楚崎の顔と、目の前にいる男の特徴が一致しない。記憶違いや園楚崎違いでなければ、学生時代の彼は地味で目立たず、クラスでも特に印象に残るようなタイプではなかった。それに気軽に言葉を交わす仲でもなかったと思う。


「いや、サングラスしてるし……なんかこう、昔の印象と違うっていうか」


「ああ」園楚崎はサングラスを外し、「ほら、俺だろ?」と白い歯を見せ「そりゃあ八年も経てば印象も変わるのは当然だろ」と数秒前とは矛盾したようなことを言った。


「まぁ、そう……だな」


「だろ? にしても、マジで久しぶりだなー、幕田間拓真。てかスーツなんか着て、これから仕事か?」


「ああ……じゃあ、そういうことだから」


 よく憶えていない旧友と盛り上がりそうな話題などないし、何より出社前に話し込むわけにもいかない。踵を返して立ち去ろうとすると、「待てって。ちょっとぐらい昔話に付き合ってくれてもいいだろ?」と肩を掴まれた。


「悪いけど、そんな時間はないんだ。仕事があるから」幕田間は向き直って断言した。


「そう固いこと言うなよ。ちょっとばかり遅れますって、電話一本いれりゃ済む話だろ、な? 幕田間拓真」


 幕田間は園楚崎の執拗さに、良からぬ勧誘でも始まるのではないかと身構えた。やはり立ち止まらずに歩き去っておくべきだったかもしれない。ここへきて後悔の念がふつふつと湧き上がってきた。


「なぁ園楚崎。さっきからどうして何度もフルネームで呼ぶんだ?」


 気になっていた疑問をぶつけてみる。人心掌握のひとつに、相手の名前を何度も呼び、さも親しい関係であるかのように錯覚させるというのがあった気がする。


「え? そりゃあ語呂が良いからだ」


 思わぬ返答に幕田間は眉間に皺を寄せた。


「それに、おまえの名前って上から読んでも下から読んでも同じだろ? だからなんだか面白くってさ。なんだよ、そんな顔して。怒ったのか?」


 マクタマタクマ。自分の名前が回文になっていることを揶揄からかわれた経験は何度もある。今さら怒るようなことではない。が、これ以上くだらない話で時間を無駄にするのも不本意だ。誤解を利用し、こちらが怒っていると思わせれば、園楚崎も退いてくれるのではないか。


「俺の名前をバカにしてんのか?」


「え、そんなつもりは……」


「いい加減にしないとネムハラで訴えるぞ」咄嗟に思いついた言葉を口にしてみる。


「ちが……じょ、冗談だよ、冗談。冗談に決まってんだろー。おまえも冗談……だよな? 訴えるとか、そんな……な? なぁ?」


 幕田間が黙ったまま見据えていると、園楚崎は「あー、あれだ、あの……俺も急いでるんだったわ。そう……そうそう、うん。引き止めて悪かったな、まく……幕田間。仕事がんばれよ、じゃあな」と早口で言って人混みに消えていった。


 取り残された幕田間は、想像以上の効果に唖然となり、しばらくその場に立ち尽くしていた。過去に訴えられ、酷い目に遭った経験でもあるのだろうか。だとしたら、園楚崎のトラウマ的な部分を突いてしまったのかもしれない。軽く脅すだけのつもりだったのに、なんだかとてつもなく悪いことをしたような気分になってきた。


 ふと我に返って腕時計に目を落とす。業務開始の時間まで五分を切っている。幕田間はオフィスへと向かって慌てて歩き出した。




 エレベーターなどという気の利いたものがないため、いつものように階段で四階まで上がってきた幕田間は、何やらオフィスのほうが騒がしいのに気がついた。朝一でクレームが入り、その対応に追われて皆が右往左往している場面が思い浮かぶ。


 オフィスのドアの前に立つと、なかから「一体どうなっているんだ」「まずはきちんと事実確認をしないと」「フェイクなんじゃないか」などと、困惑と疑念の入り混じった声が漏れ聞こえてきた。


「おはようございます……」


 幕田間の挨拶に反応する者は一人もおらず、どういうわけか皆一様にスマホの画面を見つめては、舌打ちをしたり顔をしかめたりして不服そうに何事かを呟いている。その様子を不思議に思いながらも、自分の席まで行って腰を下ろした幕田間は、隣のデスクへ首を伸ばして囁くような小声で九尾に話しかけた。


「なぁ、何があったんだ?」


 九尾もスマホを見つめてはいるが、こいつは皆と違ってゲームに夢中なのだろう。どうせまた生返事があるだけだと高をくくっていると、「おまえ、ニュース見てねぇのかよ。続報でてんぞ」と意外な言葉が返ってきた。


「続報って何のだよ? デカイ事故でもあったのか? まさかゲームの話じゃないだろうな」


 スマホから目線を上げ、顔をゆっくりと幕田間のほうへ向けた九尾は「現実の話だ。とりま、ニュースサイト開け」と真剣な表情で言った。

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