モッコウ

 待つ者のいないアパートの玄関ドアを開け、キッチンが併設された短い廊下を渡り、唯一の住空間である洋室の六畳という微妙な広さの部屋に入るなり、幕田間はリモコンを操作してテレビをつけた。静まり返っていた空間に、突如として芸能人の下卑た笑いが響く。


 築三十八年の軽量鉄骨造。駅から徒歩十分などとうたってはいるが、実際に歩くと十五分はかかる。近くにコンビニがあるのだけが救いで、相場の平均と比較しても家賃六万三千円は安いとは言えない。


 キッチンへ行って冷蔵庫から缶ビールを取り出す。その場でプルタブを起こして缶を傾ける。強い炭酸が食道を刺激しながら胃へと落ちていき、ほどよい苦みに目を瞑って喉越しを堪能する。ゲップを盛大に吐き出し、もう一口含んでから部屋へと戻り、ベッドのマットレスのヘタってへこんだ部分に腰を下ろした。


 見るともなくテレビを眺めていた幕田間は、格闘家あがりの屈強な男性芸能人とギャル風の女性芸能人が映ったのを見て、先ほど電車内で騒いでいたカップルのことを思い浮かべた。


 あんな男にすら彼女がいるというのに、それにひきかえ俺は……などとひがみともつかない悲観的な感情が湧き上がる。大学在学中に付き合っていた女性とは、就職したあたりから行き違いが多くなり、会う回数が減るにつれてメールや電話でのやりとりも減少し、決定的な別れ話をしたわけでもないのに気づいたら連絡がつかなくなっていた。


 蟹流もそうだが、あのカップルの男にしても、最近の男というものはああも女のすることに干渉したがるものなのだろうか。自分が付き合っていた頃の相手への接し方を思い出そうとしたがうまくいかない。不快感を与えるほどの口出しはしていなかったように思う。


「もー、やめてくださいよー。それギャグハラだからー」


 聞き慣れない単語を耳にして思考が中断され、テレビへと意識を向ける。ギャル風の女性芸能人が大写しになっており、彼女の言ったセリフがそのままテロップとして表示されている。


「ギャグハラ? いや、何それ⁉︎」


 格闘家あがりの男性芸能人が幕田間の心情を代弁するように言った。


「え? つまんないギャグで無理やり笑わせようとすること」


 ギャルの発言に観客と他の芸能人たちから笑いが起こる。


「なんでもハラスメントつければ良いと思うなよッ!」


 悲愴な表情を浮かべたお笑い芸人が叫び、スタジオがさらに沸いた。


 かたわらに置いたスマホを手に取って『ハラスメント』と検索窓に打ち込む。場所も状況も違うのに、今日だけで二回も耳にしている。会社での出来事が印象的だったせいかもしれないが、やたらと耳につく。


 電車内のカップルの女も『ネクハラ』などと言っていたのを思い出す。あの会話から推し測るに『ネックレス・ハラスメント』の略語だろう。無論、そんな言葉があるかどうかは知らない。


【ハラスメント】嫌がらせを意味する言葉で、相手を不快な気持ちにさせる発言、および行為を指す。発言者・行為者に、相手に不快感を与える意思があるかどうかは関係がなく、相手が不快な気持ちになればハラスメントとなる可能性がある。


 意味自体はなんとなく理解していたつもりでも、こうして改めて確認してみると程度は関係ないらしいとわかる。嶋々のリアクションは少しばかり大袈裟だとも思っていたが、この定義に照らすとそうではないようだ。なかば聞き流していた式遊の忠告も重みが違ってくる。


 ついでに『ネクハラ』で検索をかけてみると、『ネックレス・ハラスメント』と『根暗ハラスメント』のふたつがヒットした。それぞれの意味を調べたところ、前者は女性にネックレスをつけることを強要することとあり、後者は内向的な人間をバカにする嫌がらせのこと(パーハラ/パーソナル・ハラスメントともいう)とあった。


 続けてパーハラを調べる。


【パーソナル・ハラスメント(パーハラ)】個人の外見・性格・趣味などをバカにする嫌がらせのこと。


 おそらく嶋々の件はこれに該当するのだろう。蟹流としては嶋々のメイクをバカにするどころかアドバイスしたつもりであったのに、彼女自身は侮辱と受け取ったのだから。


 生きづらい世の中になったな、と幕田間は考えを巡らせる。さっきのお笑い芸人の言葉ではないが、なんでもハラスメントにされたら堪らない。人が何をコンプレックスとし、何に対して不快に思うかなど、それこそ個々人で様々だろう。


 もちろん、明らかに相手を不快にさせる発言や行為は別としても、蟹流のように良かれと思って言ったことが裏目に出る場合もあるわけで、そうなってくるとちょっとした雑談にさえも気を張っていなくてはならない。何気ない一言が誰かにとっての地雷である可能性は充分にある。


 誰しもが気分良く過ごせる世界。そうあるべきだし、そうなって欲しいという考えもわかる。互いが互いを思いやり、相手の立場になって配慮のある発言や行動を心がける。


 少し想像してみたが、なぜか皆が終始笑顔でいる様子が思い浮かび、なんだか気持ち悪くなってしまった。どこかいかがわしい宗教じみた風情もある。


 所詮は他人同士なのだから、関わり合っていくうえで多少なりとも摩擦や軋轢あつれきが生じるのは普通であり、致し方ないことではないのか。それとも、そういったことを普通と思ってしまう自分が間違っているのだろうか。


 残りのビールを飲み干した幕田間は、考えるのをやめて二本目の缶を冷蔵庫へ取りに向かった。

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