キッカケ
社がある古びた雑居ビルに入り、四階の汚い通路をオフィスに向かって歩いていたところ、突如として女性の怒気を含んだ大声が響き渡り、幕田間と式遊は足を止めて思わず顔を見合わせた。
「今のは……」
幕田間の呟きに式遊は眉間に皺を寄せただけで、何も言わずに早足で再び歩きだした。通路奥のドアへと向かうあいだにも何度か怒声が上がる。上司のあとを追いながら幕田間は「何かあったんですかね?」とその背に声をかけた。
「知らんよ。どうせまたゴキブリでも出て、
手垢にまみれたドアノブを捻ってオフィスに入ると、嶋々のデスクを囲むように数人が集まっているのが目に入った。わずか二十二名しかいない社員のほとんどが出払っており、小さなオフィスが普段よりも広く感じられる。
「どうした?」
式遊の声に社員たちが振り返る。ドアから一番近いところに立っている
「嶋々さんもそう感情的にならないで、少しは落ち着いて話を」
「うるさいッ!」
「嶋々。何があったのか話してくれないか?」式遊は嶋々のデスクに近づいて背後から声をかけ、「なんなら二人だけで別室で話を聞こう」と付け足した。
嶋々はデスクの上に乗せている両手で握り拳を作り、俯いたままどこか一点を見つめていた。怒りを抑えようとしているのか、彼女の両肩が小刻みに震えている。
「わたしは……わたしだって努力してるんです……仕事も……仕事だけじゃなくプライベートだって……なのに、それなのに!」
ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた嶋々だったが、口に出しているうちに感情が
「きみの働きぶりが素晴らしいのは承知している」式遊は穏やかな口調でそう言ってから社員の顔を見回し、「当事者は誰だ」と訊ねた。それからわずかに視線を逸らした蟹流を見咎め、「蟹流。説明できるな」と彼を見据えた。
「いや僕は……その、別に何も……」
「ここでは言いにくいのか? 皆の前で言いにくいことを嶋々に言ったのか?」
「ち、違います!」蟹流は声を上げて式遊へ顔を向けたが、目が合うなり再び視線を逸らし「嶋々さんを怒らせるようなことは何も……そんなつもりは……」と口ごもった。
「誤解だと言うのなら何も問題はないだろう」言ってから式遊は気遣うように嶋々を見やり、「わかった。三人で別室で話そう。他の者は業務に戻れ」と三人で連れ立ってオフィスを出ていった。
「なぁ、何があったんだ?」
社員たちがそれぞれのデスクに戻ったあと、幕田間は隣席の九尾に小声で話しかけた。幕田間と同期で年齢も同じ二十六歳の九尾は、ヘアワックスで固めた七三分けに黒縁メガネといった
「んん? あぁ……」
九尾が気の抜けた返事をする。忙しくキーボードを叩いてはいるものの、彼の見つめるパソコンのディスプレイに映っているのは、草原らしき場所で巨大なモンスターを相手に剣で斬りかかる鎧を着た戦士の姿だった。
「ハラスメントだとか言ってたけど、蟹流は何をやらかしたんだ? まさかセクハラってことはないよな?」
「セクハラ……あぁ……」
幕田間は言葉の続きを待っていたが九尾が答える様子はない。画面内では戦士が先ほどよりも激しく剣撃を繰り返しており、それに合わせて九尾もカチャカチャと大きな音を立ててキーを叩いている。
「おいおいおい、よりにもよってセクハラって……マジかよ。蟹流って俺らの二つ三つ下だよな? たしか嶋々さんが四十過ぎだから……それじゃアイツ自分の倍」幕田間は言葉を切って周囲を見回し、さらに声を落とすと「アイツ自分の倍近い歳の女に手を出したってことかよ」と自分の言葉に驚きつつ先を続けた。
「倍近い手を……あぁ……」
「蟹流ってそういう趣味だったのか……いや、別に人の趣味や好みをあれこれ批判するつもりはないし、嶋々さんがどうってわけでもないんだけど。ただちょっと意外っつうか」
「あッ! ……んだよ、シィット!」
言い訳がましくブツブツと呟いていた幕田間は、九尾の声で視線を上げた。ディスプレイには色を失った世界を背景に『YOU DIED』の赤文字が並んでいる。
「そんなわけねぇだろー」
半ば呆れたような間延びした声を発した九尾に、幕田間が「そんなわけないも何も、主人公が死んだんだから、んなこと言ったって仕方ないだろ」と言うと、「エヴァドリの話じゃねぇよ」という聞き慣れない単語が返ってきた。
「エバドリ? そのゲームの名前か?」
「エヴァネセント・ドリームス。略してエヴァドリ」言ってから九尾はようやく幕田間の顔を見た。「セクハラなんかじゃねぇよ。あんなの。嶋々さんの反応が過剰なんだよ」
「詳しく」
九尾は軽く溜息を吐くと、再びディスプレイへと顔を戻し、倒れたままの戦士を見つめながら面倒臭そうに話しだした。
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