わすれな荘201号室、四畳半風呂付きオマケ憑き

くらんく

201号室の場合

 俺に第六感などというものはない。

 したがって幽霊などこれまで見たことがない。

 つまり俺の目の前にいるは幽霊などではない。


「いつまで目を閉じてるんだ~。諦めろ~」


 第六感とは何か。

 それは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚以外の、するどく物事の本質をつかむ心の働き。

 

 即ち聴覚へと働きかけるこの甘ったるい声、あるいは幻聴を以てして俺に第六感があるとは言えないはずだ。


 第六感がないという事はどういうことか。

 つまりオバケの存在を認識することはできないという事だ。


「水道代がもったいないぞ~」


 そうだ、今はシャワー中だった。

 幻聴が水道光熱費を心配するとは驚きだ。

 いや、俺の思考が反射的に一人暮らしに適応しようとしているのかもしれない。


 俺の大学生活、初めての一人暮らし。

 不安なことは沢山あるがこれから少しずつ経験を積もう。

 そして大学を卒業するころには自立した人間になっているはずだ。


「聞こえてるんだろ~。分かってるぞ~」


 なおも聞こえる幻聴。

 俺は5分近くこうしてシャワーを浴びて目を瞑っている。

 ユニットバスの浴槽に蓋をしていて本当に良かった。

 もうすでに膝近くまでお湯が溜まってきている。

 

「あれ?もしかして聞こえてないのかな?」


 五分前に現れた幻聴の正体は若い女だった。

 はっきりとした姿は分からないが、瞳が綺麗な女だった。



 



 五分前。

 シャンプーを泡立てながら視線を感じた俺は目を開いた。

 すると文字通り目の前にはいたのだ。

 

 唇が触れ合うかと思う程の距離。

 異なる世界からこちらを覗き見るような女の視線と交差した。


 瞬間、俺は目を閉じた。

 興奮と恐怖に支配されたとっさの判断だった。

 

「痛っ、シャンプーが目に入った」


 他に誰がいるでもない浴室でわざとらしく声を出した。

 他に誰もいない。

 絶対にいない。


「ごめん!大丈夫?」


 その時はじめて幻聴が聞こえてきた。

 幻覚、そして幻聴ときた。

 これは相当まずい。 


 更にまずいことがある。

 不覚にもその幻聴のとろける様な声にときめいてしまったのだ。


 頭の中には女の顔が浮かんでくる。

 いや、顔というにはあまりにも近すぎた。

 女の瞳が忘れられない。


 声が聞こえる度にその瞳がフラッシュバックする。

 それがまた、恐ろしくもあり嬉しくもあった。


「ね~、聞いてるの~?」


 はっきり言ってオバケや幽霊などは苦手だ。

 存在自体が怖くて仕方がない。

 だから俺は理系になった。

 科学的に説明できないものはない。

 即ちオバケなどいないと言えるからである。


 だが、現状はどうだろう。

 目の前には幻覚、耳元からは幻聴。

 今改めて目を見開いた時、その光景に俺は冷静さを保っていられるだろうか。


 否だ。

 恐らく俺は恐怖に耐えることができないだろう。

 ならばどうするべきか。


 答えは一つ。

 

 慣れる。

 ゆっくりと時間をかけてこの状況に慣れる。

 そして耐性を得た後にこの現象を科学的に解明すれ良い。

 

 まずはじっくりと観察をするのだ。

 怖いから目は開かないが、残りの五感をフルに使って。

 ゆっくりでいい。

 時間はたっぷりある。

 俺の尊敬する松木安太郎がよく言っている言葉だ。

 彼のポジティブな言動には何度も救われてきた。

 ほら、今だって彼のことを考えるだけで少し気が楽になってきた。


「私のこと見えたでしょ?」


「――ッ!」


 それから俺は動けなくなった。






 この5分間での考えをまとめよう。

 

 まず、前提としてこの世にはオバケなどいない。

 ここは断固として譲れない。

 ここが揺らいだら俺の気が気でなくなる。


 では分かったこと。 

 は見ることができ、聞くことができる。

 美しい瞳の、甘く優しい声の女だ。


 には触れない。

 何度か手を伸ばしてみたが空を切るばかりだった。


 は物をすり抜ける。

 伸ばした手が何度か壁にぶつかったことからそう判断できる。


 これらの点を考慮した結果、導き出した仮説は2つ。


 は幻覚、幻聴である。

 または、は物をすり抜ける特殊能力を持った人間である。


 このどちらなのかを判別する方法がある。

 簡単な質問をすればいい。

 俺が知らない事実を確認するだけだ。


 例えば今は何時か。

 俺は現在の時刻を知らない。

 が幻覚であれば当然わからないだろう。


 だが俺とは別の存在なのだとしたらどうだ。

 時計を見て答えればいいだけだ。

 たったそれだけでどちらなのかが判別できる。


 よし、それじゃあ質問しよう。

 今すぐ?

 いや、そんな急ぐ用でもないし……。

 あと少ししてからでもいいかな。

 うん、そうしよう。

 別に全然怖いからとかじゃないけど。

 なんか、気が乗らないというか何というか。

 

 「おじゃましました~」


 マジ!?

 出ていった!?

 いやー、残念だなー。

 あとちょっとで質問しようと思ったのになー。

 真相は闇の中だ。

 本当に残念。

 貴重な研究データだったのに。


 そして5分ぶりに目を開けた。


「はい、騙された~!」


 目の前には満面の笑みを向ける女がいた。

 降りかかる雫は彼女をとらえることができずにそのまま俺を濡らす。

 その雫、一粒一粒が鮮明に見える。

 全てがスローモーションだった。


 俺は驚きのあまり足を滑らせ、後方へとバランスを崩す。

 楽しそうな女の顔が驚きの表情へと変わっていく。

 ゆっくりと天井を仰ぎ見ながらその時が終わるのを感じ取っていた。


 これが第六感というやつなのだろうか。

 俺はこのあと、後頭部を浴槽の縁にぶつけて死ぬ。

 それだけが超感覚的に分かっていた。






「いや~、びっくりしたよ~」


「こっちのセリフですよ、脅かしたりして」


「それはゴメンって~。助けてあげたから許して~」


 俺に第六感などというものはなかった。

 後頭部をぶつけて間抜けに死ぬことも無かったし、オバケを見ることも無かった。

 そして彼女もまたオバケなどではないし、幻覚でもなかった。


 彼女の名前は雫という。

 物をすり抜ける特殊能力を持った人間である。

 彼女が咄嗟に俺を抱き上げたため、俺は後頭部を強打せずに済んだ。


 言わば彼女が命の恩人なわけだが、彼女のせいで俺が死にかけたとも言える。

 感謝すべきか怒るべきか、俺は判断しかねている状態だ。


 それでも彼女に目を見て謝罪されてしまえば、許さざるを得なかった。

 それほどの美貌の持ち主であったことは確かだ。


 彼女は202号室の住人で、俺と同じ大学生らしい。

 すり抜ける能力に目覚めたばかりで元に戻らなくなっていたそうだ。

 

 俺が倒れた時、咄嗟に手を伸ばしたことで再び物に触れることができた。

 彼女はそう説明していた。


 一先ずオバケじゃなくて良かった。

 オバケなどという非化学的なものでなくて本当に良かった。


「ありがとう。お礼に今度食事にでも行きませんか」

 

「いいの~?やった~!」


 人生初のデートの誘いには成功したようだ。

 それにしても、名前を聞くよりも先に裸を見られた女性とデートに行くとは思わなかった。

 冷静に考えると気恥しい気がしてくる。


 それじゃあ後日また連絡します、と彼女に告げる。

 彼女は追い出された様子に文句の一つも付けることなく返事をした。

 そして手を振りながら隣の部屋への壁をすり抜けていった。


 じっくりと見たが本当に壁をすり抜けていた。

 もしかしたらこの能力の方が非科学的なものかもしれない。


 だが、もうそんなことなどどうでもいい。

 彼女がオバケじゃなかった。

 それすらもどうでもいい。


 彼女の眩しい笑顔が忘れられない。

 俺は彼女とデートをするんだ。

 心の中は充足感と期待感でいっぱいだった。


 大学生になって華々しいデビューを飾った。

 そしてこれからはバラ色のキャンパスライフだ。


 その夜、202号室のチャイムを鳴らした。

 デートの日取りを決めるためだ。

 連絡先を知らないからこうする他なかった。


 しばらくして返事が聞こえ、玄関へと近づく足音がした。

 唾液を飲み込んだ時、ガチャリとドアが開かれた。

 

 扉の向こうにいるのは見知らぬ小柄な女性だった。


「えっ?あ、あの、雫さんはいますか?」


 彼女は首を傾げて呟いた。


「誰ですか、それ」


 全身の毛穴から嫌な汗が噴き出した。

  

 ああ、またシャワーを浴びなきゃ。

 そしたら、また。


 

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