時間の矢

高山小石

懐かしい未来

 私が初めて「懐かしい未来」という言葉を知ったのは、「ぼくの地球を守って」(日渡早紀著の漫画)だったか、新居昭乃のCDアルバムタイトルだったか。


 「『懐かしい』のに『未来』なんて矛盾してる」と当時は思った。

 

 時間は一方向にしか進まない、それが当然だと幼い頃の私は疑ってもいなかった。

 でも、多くの人が「虫の知らせがあった」「予感がした」などを感じている。


 それはどこから来るんだろう?


 私がハッキリ覚えているのは、まだ高校生だった頃、ワゴンセールで見かけた見知らぬCDを「買わなくちゃ!」と思ったことだ。


 それも普通の音楽CDならともかく、なんで読んだこともない漫画のCDを買いたいと感じるのか自分でもわからなくて、買わなかった。


 大学生になって、友達から借りた漫画を読んでハマり、自分でも買い集めるようになって、当時の既刊が載っているページにうつっていたCDのジャケットが、昔どうしてか欲しくてたまらなかったそのCDで、驚いた。


 今さらながら聞きたくて探したものの、すでに昔に出たCDだったのと、マイナーなため、いまだに見つけられていない。

 あぁあの時、わけがわからなくても買っておけば良かった、と後悔している。


 反対に、新作アニメの録画をチェックしている時に、遅れて始まるアニメがあって、なぜか気になって録画したら、毎週かぶりつきで見るくらいにハマったアニメになったこともある。


 この、「理由はわからないけど気になる」のは、どこから来るんだろう?


 独身時代、中華街でウィンドチャイム(金属の棒が複数ぶらさがっていて揺らすと音がなる)の音を聞いて、涙がこぼれたことがある。


 普通に考えれば、それまでの人生のどこかで、そのウィンドチャイムの音を聞いた過去があって、懐かしく感じたのだろうと思うところなのだが、覚えている限り、私はそのウィンドチャイムの音を聞いたことがないのだ。


 そんなことがあったことを忘れたくらい年月が過ぎて、自分に赤ちゃんが産まれた頃、あたたかな気持ちのいい昼間、眠る子どものもとに、あのウィンドチャイムの音がかすかに聞こえてきた。


 もちろん自分の家にウィンドチャイムはない。

 窓の外を見ても、見える場所には見当たらない。

 だから最初、空耳か、幻聴かと思った。

 

 でもそのウィンドチャイムは、まるで幸福な時間の象徴であるかのように、時折、心地よい音を響かせてくれた。


 空耳や幻聴でもいい。

 私にとってその音は、満ち足りた生活そのものでもあった。


 それが、ちょっと離れた家の物干し竿に吊してあるのに気づいたのは、台風の日だった。

 悲鳴のようなウィンドチャイムの音に、ようやく音の出所を突き止めて、ほっとしたようなガッカリしたような気持ちになった。


 台風の後、そのウィンドチャイムは外されてしまったようで、もう、その音を聞くことはない。


 もしかしたら、いつか中華街で涙が出たのは、あの幸福な時間を思い出したからなのかもしれない。

 「懐かしい未来」という言葉にストンと納得がいった。


 未来の自分の気持ちが、過去の自分に影響を与えていて、それがいわゆる「第六感」となっているのなら、きっといつかの私は、今より、より良い方向に進めるだろう。


 今の私は、それが真実第六感なのか、ただのこだわりなのか、見極められないでいるけれども。


 そう考えると楽しい。

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時間の矢 高山小石 @takayama_koishi

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