第8話 「司書の仕事」03

 ティーカップを空にして、月乃は再び口を開く。

「『魔道書』には二種類有りまして……まあ、あまり細かいことはまだ説明してもわからないと思うので、それはあとにしましょう」

 月乃がソファから立ち上がり、クラウディオを招く。

 後をついて行けば、月乃は廊下に飾られた絵画の前に立った。油絵らしいそれは豪奢な額に飾られ、扉が描かれていた。扉にはフクロウの飾りが施されている。

 クラウディオよりも大きな絵画である。

 まじまじと見ていると、月乃はその扉に手を伸ばした。するとどうしたことだろう。カチャ、と音を立てて扉が開いたのだ。

 しかも月乃の腕は絵画の中に入っている。驚くクラウディオの様子に満足そうにして、月乃は絵画の扉を開き、そこへ入っていく。月乃は扉を開いたその先で手招きをしてクラウディオを呼んだ。

 錯視やよくできた作り物ではない。本当にキャンバスの中に月乃がいるのだ。

 ああだこうだ考えるよりも、クラウディオは思いきって絵画に向かって踏み出す。

 薄い膜を通り抜けたような感覚がすると、クラウディオは月乃と同じ場所にいた。

「こちらです」

 目の前に広がっていたのは大量の「魔道書」が収められた棚。そして様々な道具が収められた棚と作業机だった。

「……ッ」

 クラウディオは息を呑む。

 個人所蔵の書庫と考えてもなかなかの蔵書量である。しかしここにあるのがすべて「魔道書」であるなら、なんと恐ろしい場所だろう。

「すべて……『魔道書』、なのか?」

「ええ、そうです」

「危険は無いのか?」

 クラウディオの問いかけに、月乃はフフ、と笑い一冊の「魔道書」を手に取り、裏表紙を指さした。

「今はわたくしの支配下にあるので、ただの本と同じ状態です」

 深海を切り取ったようなその本の裏表紙にはサインらしきものが刻まれている。これによって「魔道書」を支配している、ということらしい。

「きちんとお見せしますね?」

 月乃が道具棚に納められた古い大きな金貨を一枚取り出す。

 手に取った「魔道書」が開き、月乃はあの時の、音が二重になった形容しがたい呪文を唱える。

『在りし日は富であったもの、裏切りと誘惑を冠するもの、母なる海にて暴虐を成すもの。力を示したまえ。大海魔クラーケン』

 月乃が金のコインを放ると、光がコインを包む。

 クラウディオは息を呑んだ。

 目の前に現れたのは巨大な触手。吸盤を持ち、ぬらぬらと動くそれは何度か揺らめいた後、クラウディオに向かってのびてきた。

 手に向かってまとわりついてきたそれを反射的に払いのけようとするが吸盤が張り付いて剥がれない。

 クラウディオは腕力にものをいわせて引き剥がそうとするが、それはかなわない。ギチ、という音をさせそれはクラウディオの腕に絡みつく。

「こんな風に、触媒に力を降ろすことができるんです」

 月乃の様子から攻撃の意志がないことはわかるが、あまり気持のいいものではない。顔をしかめ、黙っていると触手はクラウディオのからだを這い、顔にまで触れてきた。

「昨日はあなたを触媒にして、コカトリスの力を使いました。『魔道書』そのものを触媒にすることも出来るんですが、それだと少々使い勝手が悪いんです」

 ずるりとからだを触手でなで回し、クラウディオの表情が歪んだところで月乃は手をかざし、『返却』と唱えた。

 触手が瞬時に消え失せ、古い金貨に戻り、月乃の手の中に納まった。

 クラウディオはからだに粘液などはついていなかったものの、不快感から袖で触手が這い回っていた辺りをぬぐう。

 少しばかり月乃を睨みつけたが、彼女は相変わらず笑みをたたえたままだった。

「……『魔道書』が人よりも強いなら、俺は必要ないんじゃないか?」

 純然たる疑問だった。

 月乃の話では「カニバル・ハンニバル」に対し、本来なら自分は要らなかったわけであるし、クラウディオは命も危うかった。あくまで己は人間の範疇での強さしかないとクラウディオは言った。

「『魔道書』はたしかに強いし、わたくしはそれを使うことができます。でも完璧じゃない、何もかも出来るわけではないんです」

 月乃はクラウディオの手を取る。警戒したわけではないが、クラウディオはかすかに手が跳ねた。

 その小さな手は、無骨なクラウディオの手をなぞる。

「奮える力があっても結局わたくしひとり分。コカトリスをそのからだに降ろして力を施行出来るだけの素質があるあなたがいれば、とても助かりますの」

 「なかなかいませんよ? 一眠りしたくらいで回復している人なんて」と、言う月乃はそのままクラウディオの手を自分の首に持っていく。

「それにほら、あなたの片手でわたくしの首は簡単に折れるでしょう? 人外の力がなければ、わたくしはあっという間に殺されてしまう」

 首の細さと脈打つ感触、そして薄い皮膚。このまま力を込めれば簡単に彼女の呼吸を奪い、宙吊りに出来るだろう。

 クラウディオはその感覚にぞっとしてしまう。

 黙するクラウディオに、月乃はゆっくり手をはずしてその目を見つめた。

「『魔道書』無しの状況下であなたはとても強い。さらに『魔道書』の力を使える素質があるあなたはとってもとっても強い。だからあなたに助手になって欲しい、と言うことです」

 要するに思考できる触媒が欲しいということではないか、という考えにクラウディオは至ったが、それは黙っておいた。

 ついでにぼやくように月乃は言う。

「わたくし自身に力を降ろすことは出来なくはないんですが……あまり体力がある方ではないので」

「……まあ、だろうな」

 月乃のからだはクラウディオの半分の幅くらいしかなさそうに見える。彼女のつむじを見下ろしながら、肯定した。

 話も一段落した頃、部屋の外から鐘の音がかすかに聞こえる。

 正午を報せる音だ。

 この異質な空間にも街の鐘の音は届くらしい。

 クラウディオはいつもであれば眠っている時間であるが、起きていれば空腹になる。月乃はクラウディオを見て、部屋の外を指さした。

「ひとまずご飯、食べましょうか」

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