第5話 「カニバル・ハンニバル」05

 そういったかと思うと月乃はクラウディオの顔に手をかざした。背後でまた硝子の砕ける音と狂ったケダモノの咆吼が聞こえる。それにかき消されることなく、月乃は音が二重になったような、形容しがたい呪文を口にした。

 月乃の腕の中で、本のページが激しくめくれる。

『火と闘志が生みしもの。豊穣により育まれしもの。からだに秘めたる呪いにて、不変と為すもの』

 閃光がクラウディオを貫く。

『降りたまえ、コカトリス』

 月乃の声に従い、光がクラウディオのからだを包む。

 ざわり、とクラウディオのからだが内側からふくらむような感覚に襲われた。脈打つように流れ続けていた血がとまり、肩甲骨部分が変形しているのがわかる。脚もより太く、大きく変質していく。脚鱗に覆われた脚には堅く鋭い鉤爪と距が生えていた。

 喉から込み上がる呼気には苦みがある。それが毒だということを察したのはクラウディオの直感だった。

 湧き上がる異質な力に動じるより先に、硝子の砕ける音と同時に殺気が背後に迫る。

 月乃のからだを押しやり振り返った時、クラウディオの視界はゆっくりと世界をうつして。

 そして、一瞬だった。

 犬もどきの顔には大きな傷が出来ている。

 クラウディオのすさまじい蹴りが、犬もどきの顔面にぶち込まれたのだ。しかも顔面に鉤爪の轍を走らせその肉を抉る容赦のなさに犬もどきは情けない鳴き声を上げる。

 クラウディオはその力のすさまじさに驚くよりも先に、立て続けに蹴りを入れていった。

 薙ぎ払い、突き、叩き斬る。

 すさまじい威力と速さをもってそれは繰り出されていた。

 瞬きする間に行われる圧倒的で一方的な蹂躙。人外のスピードを持って銃弾をも防いだ毛皮をズタズタに切り裂いてゆく。

 犬もどきは慟哭とも咆吼ともつかない叫びを上げ、今や圧倒的な破壊の権化となったクラウディオに牙を突き立てようと喰らいつかんとする。しかしクラウディオは鋭い眼光を放ち、車輪のような高速回転を持ってそれをねじ伏せた。

 犬もどきの骨が折れた感触。磨かれた床を破壊し、めり込む音は不協和音を生み出す。

 さらに空中からの踏みつけるような蹴りが犬もどきに降り注ぎ、床も犬もどきも酷い音を立てて壊れてゆく。クラウディオはたしかな手応えを持ってその顎を、四肢を、全身の骨をへし折ったのだ。

 クラウディオは丈夫な毛皮袋に包まれたミンチと成り果てたそれの前に立つ。

 クラウディオは胸を大きくふくらませ、空気をため込んだ。「ジャック・ポット」の中で、一瞬小さな風が起こる。

 そしてそれは発せられた。

 ごう、と地と天を揺さぶる龍の咆吼。それが犬もどきに向けて放たれたのだ。

 店内はその衝撃波であちこちが破壊され、吹き飛ぶ。そしてその咆吼を浴びた犬もどきは石へと変化するが、秒も持たずにクラウディオの蹴りが叩き込まれ、砕けて砂になる。

 クラウディオの咆吼の余韻が消え去り、沈黙が支配した。

 ようやくすべてが静止したとき犬もどきだったものが砂になり、そこにローレンの頭から生えた本が落ちていた。妖しげな光を放つこともなく、ただ静かに砂の山に鎮座している。

 破壊の限りを尽くされた「ジャック・ポット」の天井は穴が空き、一番暗い夜が横たわっていた。

 遠くでサイレンと人の声が聞こえてようやく脅威は去り、終わったのだとクラウディオは悟る。

 体中の血液を沸騰させていた闘争心は凪ぎ、はっとして店内を見渡した。あまりにも激しい戦闘であったため、「ジャック・ポット」はほぼ廃墟といってよいレベルにまで破壊されている。

 クラウディオは月乃を探す。月乃が退避したことは確認していない。

 店内にまだいるのではと思い、キョロキョロと周囲を見れば、破壊された扉の破片と瓦礫の山がゴトリと動く。

 そこから少しだけ埃を被ったらしい月乃が、服をはたきながら現れた。無事であるらしい彼女の姿を見たとき、思わず気が抜けた。当の月乃はというとキョロキョロと何かを探すように荒れた店内を見渡す。そして怪物の砂山に鎮座する本の元に満面の笑みを浮かべて駆けよった。

 拾い上げたその本を見、表紙を確認する。途端彼女の表情は今まで浮かべていた底の見えない笑顔ではなく、だらしない満面の笑みをになっていた。

「ああああ! やっぱり『脳食いの書』でしたか! 脳みそ取り出すなんて悪趣味具合が絶対そうだと思いましたの!!」

 本を掲げてくるくるとおもちゃのバレリーナのように回る彼女に、クラウディオはぽかん、と口を開いてしまった。一体全体なんなのだ、と。

 少なくともクラウディオが把握できているのは、「カニバル・ハンニバル」の事件はあの本が引き起こしたものであること。月乃という女が不思議な力を持ってして自分に力を与えたこと。そしてそれでもって化け物を倒したということ。

 あまりにも理解が追いつかなかった。

 呆然としながら自分を見ていたクラウディオに気付いた月乃が、回転を止めてクラウディオに駆けよってくる。

 彼女が持っていた本を開き、またあの二重に音が聞こえる言葉を唱えた。

『返却』

 変質していたクラウディオのからだは元に戻り、ケガは消えていた。しかし着ていた服はボロボロで、ブーツも革の一部を残して消え去り、素足だ。途端、一気に体力を持って行かれた感覚に陥る。

 からだの痛みはないが立っていることが難しいくらいに疲れ、勢いよく膝をついた。月乃はクラウディオの前にしゃがみ、視線を合わせる。その顔は無邪気な少女のようでありながら、珍品を見つけた蒐集家のそれだった。

「お疲れ様でした。初めてでコカトリスをあそこまで使いこなすなんて本当にすてき」

「……お前は何者で、アレは何だったんだ?」

「月乃です。クラウディオさん」

 クラウディオの鼻先にツン、と指を当てる月乃にクラウディオは息をつまらせた。どう見てもか弱く見える彼女に底知れない深淵の気配を嗅ぎ取る。

 気圧されたわけではない。

 しかしそれでも彼女の言うことをきかなければならない空気に、クラウディオは名前を呼び、もう一度尋ねた。

「月乃、アレは一体なんだったんだ」

「あなたが戦ったアレは『魔道書』というモノです。魔術師の執念、妄執、欲望……そういったものです」

「魔道、書……?」

「『魔道書』は超常的な力を持っていて、ひとに害を為すこともありますの」

 「あなたもご覧になったでしょう?」と楽しそうに彼女が「魔道書」と言ったモノをクラウディオの前に差し出しす。

 彼女の口から飛び出た単語はあまりにも非現実的すぎて脳の回路がこんがらがる。そんなクラウディオの様子もよく理解しているらしい彼女は、笑みを浮かべたまま説明を続けた。

「わたくしはそんな『魔道書』の確保・蒐集・管理をやっております『司書』ですの」

 荒唐無稽。

 しかし自分に襲いかかったものと破壊されきった「ジャック・ポット」は真実でしかない。現実に入り込んだファンタジーに折り合いを付けきれないクラウディオの混乱を見透かす月乃は頬に手を当て笑みを作る。

「ねえ、クラウディオさん」

「なんだ……」

 翡翠の目を三日月に細め、チェシャ猫のような顔をした月乃は心地よい声で奏でた。

「わたくしに買われません? あなたのようにお強い方、大歓迎ですの」

 夜が明け、白み始めた空と朝日。明るく廃墟と化した「ジャック・ポット」に差し込む光を背に、月乃は誘う。

 一種の宗教画を思わせる美しく神聖に見えたであろうそのシーンで、クラウディオは口を開いた。


「……お前は何を言っているんだ」


 その眉間にはしわが寄っていて、月乃はそれを人差し指でグリグリとほぐす。

 クラウディオは彼女に対し、あまりにも強烈な「縁」を作ってしまったことを思い知ることになる。

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