幸福な食卓の「空白」

アトランティア市の空が、どす黒い紫色に染まり始めていた。

日没——ナイが予告した「ゲーム」のタイムリミットが迫っている。

SGMAの転送ゲートを潜り抜け、遼司たちが降り立ったのは、第1層でも屈指の高級住宅街「サザンクロス団地」の最上層エリアだった。

「……静かすぎるな」

遼司は、手入れの行き届いた廊下を見渡して呟いた。

ここには、生活の匂いがない。夕食の支度をする音も、子供の笑い声も、テレビの音さえもしない。ただ、空調の低い唸り声だけが、無機質に響いている。

「局長。このエリアの情動データ、やはり異常です」

通信機から佐伯の声が届く。彼の声には、珍しく焦燥が含まれていた。

『通常、これだけの世帯があれば、様々な感情のさざ波が観測されるはずです。しかし、この最上階フロアだけ、情動数値が完全に「フラット(平坦)」です。まるで、誰も生きていないかのような』

「生きていない? ……いや、違う」

早乙女星が、廊下の突き当たりにある「3301号室」の扉を睨みつけた。

「そこに『在る』のに『無い』。これは、存在そのものが空洞化している気配です。神の視点で見ても、あまりに不自然な『完璧な静寂』……」

遼司は、3301号室のインターホンに指をかけた。

表札には「天王寺(てんのうじ)」とある。

事前のデータでは、父、母、そして10歳の娘の三人家族。この地区の模範的な家庭とされている。

ピンポーン。

電子音が響く。

間髪入れず、スピーカーから男の穏やかな声が応答した。

『はい。どちら様でしょうか?』

「阿武隈探偵事務所だ。少し、お届け物(話)があってね」

『ああ、探偵さんですか。お待ちしていました。どうぞ、鍵は開いています』

警戒する様子も、怪しむ様子もない。あまりにスムーズすぎる対応に、遼司は眉をひそめた。

「……八千代、星。警戒レベル最大だ。これは、今までの『暴走』とは質が違う」

重厚な防音ドアを開けると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。

広々としたリビングダイニング。

クリスタルのシャンデリアが煌めき、テーブルには豪華なフルコースの料理が並んでいる。

父、母、娘。三人は席につき、優雅にナイフとフォークを動かしていた。

「ようこそ、いらっしゃいました」

父親が立ち上がり、完璧な笑顔で遼司たちを迎えた。

身なりは整い、髪一筋の乱れもない。隣の母親も、娘も、まるでカタログから抜け出したような美しい笑みを浮かべている。

「ちょうど、夕食の時間だったんです。皆さんもご一緒にいかがですか?」

「……いや、遠慮しておく」

遼司は、部屋の中に足を踏み入れながら、ディテクターを起動した。

数値は——『ERROR(計測不能)』。

いや、違う。エラーではない。

数値が、ピクリとも動いていないのだ。

「お父さん、このお肉、とっても美味しいわ」

娘が鈴のような声で言う。

「そうかい? それは良かった。お母さんの料理は世界一だからね」

「まあ、お父さんったら。貴方が一生懸命働いてくれるおかげよ。私たちは世界一幸せね」

会話は完璧だ。

幸福な家庭そのものだ。

だが、遼司の「郵便局員の勘」が、警鐘を鳴らし続けていた。

(こいつらの言葉には……『宛先』がない)

誰かに伝えたいという熱量がない。ただ、あらかじめプログラムされた台詞を、空中に向かって吐き出しているだけだ。

まるで、壊れたレコードのように。

「美味しいわ」「幸せね」「ありがとう」「完璧だ」

繰り返される肯定の言葉。

その裏で、彼らの魂魄(データ)は、恐ろしい速度で摩耗していた。

「……おい、あんたたち」

遼司は、食卓の前に立った。

「その料理、味がするのか?」

父親は、キョトンとした顔で遼司を見た。

「味? もちろんですとも。最高に美味しいですよ。ねえ、みんな?」

「ええ、最高よ」

「最高だわ」

三人は声を揃えて答えた。

しかし、遼司には見えていた。

彼らが口に運んでいるステーキ。それは、高解像度のテクスチャが貼られているだけで、中身は真っ黒な「ノイズの塊(楔)」だということを。

「八千代、お前にはどう見える」

遼司が問うと、八千代は青ざめた顔で口元を押さえていた。

「局長……あの方たち、食べていません。ただ……『咀嚼するフリ』をして、ノイズを体内に取り込んでいます。自分の中身を、黒い砂で埋め尽くそうとしている……!」

そう。これが、ナイが仕掛けた「第1のターゲット」の正体。

情動の暴走でも、歪みでもない。

「情動の放棄(アパシー)」。

彼らは「完璧な家族」を演じるために、邪魔な「感情」をすべて捨て去ったのだ。

怒りも、悲しみも、そして本当の喜びさえもノイズと見なし、ただ「幸福な記号」として振る舞うことだけを選んだ。

その結果、彼らの魂は空洞になり、そこへナイの楔が入り込んだ。

「失礼ですが」

父親が、笑顔のままナイフを置いた。

「私たちの食事を邪魔しないでいただけますか? 私たちは、誰にも迷惑をかけていない。ただ、完璧で、静かで、幸福な時間を過ごしているだけなんです」

「幸福、か」

遼司は、霊子銃(レイシガン)を抜いた。

「中身のない封筒を、いくら綺麗に飾り立てても、そいつは手紙とは呼ばない。ただの『ゴミ』だ」

「ゴミ……?」

父親の笑顔が、ピタリと止まった。

その瞬間、リビングの空気が凍りついた。

「私たちが……ゴミだと?」

父親の顔が、ノイズのように激しくブレた。

「私たちは完璧だ! 誰も傷つけず、誰からも傷つけられず! 理想的な家族を構築した! それを……それを否定する者は!」

ガガガガガッ!

父親の口が、顎の骨が外れるほど大きく開いた。

そこから溢れ出したのは、言葉ではない。

耳をつんざくような、**「無音の絶叫(ホワイトノイズ)」**だった。

『排除! 排除! 我が家の完璧さを乱す異物は、排除します!』

父親の身体が膨れ上がり、黒いスーツを突き破って、巨大な「白い石膏像」のような異形へと変貌していく。

のっぺらぼうの顔に、裂けた口だけがある怪物。

母親と娘も同様に、美しいドレスを引き裂いて、白い異形へと変わった。

「局長! 来ます!」

星が前に出て、日本刀を構える。

「こいつら、中身がない分、外殻が異常に硬い! 物理攻撃が通じるかどうか!」

「物理がダメなら、情念でこじ開けるまでだ!」

遼司は霊子銃のシリンダーを回した。

「こいつらは、自分たちが空っぽであることを認めるのが怖いんだ。だから『完璧』という殻に閉じこもった」

白き虚無の家族が、食卓をひっくり返して襲いかかってくる。

それは、SAGA SAGA(この世界)で最も悲しい、空虚な怪物たちだった。

「八千代、星! 俺が『宛先』を書き込んでやる! こいつらが捨てた『人間臭さ』をな!」

日没まで、あとわずか。

最後の「仕分け」が始まった。

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