第30話 万緑慈雨・驟雨

 ――― ここはどこだろう。前が見えない、でも何かが追いかけてくる気がする。

 ――― 逃げなきゃ、行かなきゃ

 ――― どこに?


「ったく! 顔がないから予備動作が読みにくいな!」

 大業物の力が発動したせいか、鬼の世界に引きずり込まれていた。おかげで建物にぶつかっても痛みは感じない。前回の大業物は炎が渦巻いていたが、今回は雨が降り続いている。

 バシャバシャと水たまりを踏み鳴らし、馬が駆け抜ける。速度も威力もけた違いで、少しでも掠っただけでイクサの身体はあっけなく地面に叩きつけられる。

「顔だけでも判別できりゃなぁ。あれ、どう考えても不完全だろ」

 大業物だけじゃない、時々修行と称して鬼の世界に潜っていくと感覚が研ぎ澄まされていく。だからこそ、目の前の馬の不完全さに首をかしげる。


 ――― なにか、探しているのか?


 その予感は正しかった。イクサが少しでも殺気を立てれば、すぐさまこちらに襲い掛かってくる。まるで、身を守ろうとせんばかりに。だが、いったんはなれれば何もせず、ふらふらと彷徨うばかりだ。

(駅の方に向かえばすぐに向かってくるな。足止めしてんのか?)

 イクサは是空を鞘に納めると、近くの屋根に跳びあがる。一段高くなった視界の先に馬はいた。馬はおぼつかない足取りで壁にぶつかりながら歩いている。その行先は定まっていないように見えた。歩を進めるとカツカツと地面を探るように蹄でかき、そしてまた歩を進めていく。

「なにか、探してんのか? まさか、頭?」

 そうとしか思えない。

「これ以上面倒を増やされてたまるかよ!」

 八尋が大業物に挑んで勝てるわけがない。立ち位置が逆ならよかったが、八尋は急かされるように駅へと駆けだしていった。

(八尋の奴、どうも焦っている気がするな……)

 単に敵を討つ、そんな単純な話じゃない。あの口ぶりからして、たった一人で戦ってきたんだと思う。けれども、相手はあまりに強く、そして狡猾だった。

(俺は……なにも覚えてない)

 ずっと戦として見てきた。けれど、それ以前は分からない。

(いや、今考えてても意味がない。今はあの駄馬を何とかしないと)

 あの馬より先に頭を探し出し破壊する。そうすれば、先に進めるはずだ。

「けど、どうする?」

 何か手立てが必要だ。闇雲に探して時間を浪費してしまったら、それこそ取り返しのつかないことになってしまう。何か、何かあるはずだ。今まで戦ってきた中で手に入れたものの中にそれはあるはず。

 イクサは目を閉じ、心を一点に集中させる。魄の流れを読み取ることができる力をこの鬼は持っている、と八尋が言っていた。だからこそ、魄の流れをよどみなくすることが鬼の使命なのだと。

 鍛冶師たちによってゆがめられた魄の気配はイクサも何度か目にしている。ならば、見つかるはず。

 雨の音がすぅ、っと消えていく。一点に研ぎ澄まされた感覚が余分な感覚を削ぎ落していく。まるで一振りの刃のように。

 するすると水の流れる音がする。あの馬から流れ出る水の気配がどこかへと続いている。その流れはこの辺りに散らばっていて、まるで蜘蛛の巣の様だ。濁流のように澱んでいてはどこにたどり着くかは分からない。

 もっと、もっと先へ。

「?」

 是空が呼んでいる気がした。目を開き、そしてイクサは息をのんだ。

「是空、なんだ、その光は……」

 是空が淡い光を纏っていた。鈍色の空間では目が覚めるかのような光量に、思わず目を覆った。

「お前、これを何とかできるんだな」

 すぅと息を吐き、そして是空を手にしイクサは空を睨んだ。一度目に映していたからか、目の前には蜘蛛の巣のように広がる澱んだ魄の塊が見えた。視線を下にさげ、それと同時に身も低く、より低く。足に力を込めていく。

「行くぞ、是空!」

 魄の流れに沿い、イクサは激流のようなそれに身を投じた。そして、その流れの中に是空を突き立て、イクサは力を込めた。まるで台風の中にいるようだ、と思った。でも、なぜだか心は高揚していく、これが正解だ、と言わんばかりに是空の光も増していく。

 是空の光は魄の流れに溶け込み、その色を変えていく。その色は白く、どこか清らかさを感じさせる。

 ガシャガシャ、と先程よりも強い蹄の音がする。何かに気づいて馬が跳び込んできたに違いない。この激流からでは姿は見えない。焦っているかのように、探していたものが見つかったかのように、その速度は増していく。

 とうとうと流れる水の流れは巡り巡って、あるもので留まっていた。そう、それこそ―――。


 馬の前足が胴が、鬣が見えたところでイクサは是空を地から引き抜いた。そして、その勢いのまま馬の腹の下に是空を潜り込ませ、力を込める。

「う、おおおお――――っ!!」

 宙に浮いた腹を裂くと、形容しがたいほどの悪臭が鼻を突いた。魄の塊の身体からは血は出ない、代わりに澱んだ魄の慣れ果てた姿がイクサの身体に降り注ぐ。ドロドロとしたそれは泥のようだった。

「これ、あの女の体にあったやつと同じ臭いがするな……」

 べとりとしたその質量は、触れただけで心が蝕まれていくのを感じる。一掬いだけでこれなのだ。あの量はどれだけの重さだっただろう。

「っと、これでうっとうしい邪魔は無くなったな」

 血を叩くような雨はイクサの身体にまとわりついた泥を押し流すと、雨は少しずつ止んでいき、イクサが息を整えるころにはすっかり上がっていた。

「っと、早く八尋の所に……」

 そう足を踏み出す戦の背後で気配がした。

「………嘘、だろ?」

 カツ、カツ、と蹄が黒の空間に響き渡り、ゆっくりとその姿を戦の前に出す。消滅したはずの馬が目の前にいる。しかも、今度は頭を持った状態で、ぎらついた眼でこちらを見ていた。

 

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