第2話 夏休み合宿その1
咲江の大学の軽音楽部では、夏休みの8月お盆前に、大学のセミナーハウスを借りて、3泊4日の合宿を行うことになっている。
基本的には昼間は各バンドで練習して、夜は各バンドの発表会になっている。
大学のセミナーハウスと言っても、箱根にある結構立派な宿舎で、他の音楽系サークルも利用できるよう、広い防音施設の整ったスタジオルームも完備されている他、箱根の観光名所を割引で利用出来る券が受付に常備されている。
そのため合宿最終日には、ユネッサンという水着で入れる温泉施設で遊ぶというのが、軽音楽部の合宿の定番だった。
(えーっ、伊藤先輩にアタシの水着姿見られちゃうんだ、どうしよう…)
咲江が合宿説明会の後、1人で顔を真っ赤にさせてモジモジしていたら、グリーンズのリーダー、4年生の大谷が咲江に声を掛けてきた。
「どうしたの?サキちゃん」
咲江は、すっかりサークルに馴染み、女子からは学年問わずサキちゃんと呼ばれるようになっていた。
「あっ、大谷先輩。あの~、合宿最後の日のユネッサンって…」
「ユネッサンのこと?もうね、帰りたくなくなるくらい面白くて楽しい所だよ!サキちゃんはまだ行ったことなかった?いい機会だから、合宿を利用して、みんなで楽しもうよ!」
大谷はそう言うと、そのまま立ち去って行った。行動はバンドごと?自由?水着はどんなのを着たらいいの?等々、尋ねたい疑問を抱えたままになってしまった。
その合宿までの夏休み中は、各バンド単位で練習日を決めることが出来る。
咲江の所属するグリーンズは週に1回、月曜日に夜の発表会のためのバンド練習をすることにし、それ以外の練習日は担当楽器ごとで自由に決めてよいことになった。
大学生ともなれば、アルバイトの都合もあったり、あるいは県外から来ていたら実家に帰るという場合もあるだろうから、という理由とのことだ。
特別な理由があれば、その週1の合奏日も事前に届けておけば休んでも大丈夫らしい。
「サキちゃんは、サックスの練習日は何曜日が良いとか、希望ある?」
伊藤が聞いてきた。
「ハッ!す、すいません、ちょっと頭が違うことを考えてまして…」
「ハハッ、サキちゃんらしいな。じゃあもう一回。月曜が全体練習だから、俺とサキちゃんでサックスの練習をコツコツとしていかなきゃいけないけど、サキちゃんが都合の悪い曜日とか、ある?」
伊藤も、男子の中で唯一咲江のことをいつの間にかサキちゃんと呼ぶようになっていた。
「アタシは特にバイトもしてないし、家も地元だし、都合の悪い曜日はないですよ」
「そっか、じゃあ俺の都合で練習日程決めちゃってもいいかな?」
「はいっ、お任せいたします!アタシは伊藤先輩の召使いですから!」
「またまたサキちゃんってば、一言一言が楽しいんだから」
伊藤は微笑みながら言った。そんな伊藤の笑顔を見ると、咲江は伊藤に
「好きだ」
と言われた場面を思い出し、ポーッとなってしまう。伊藤は咲江の喋り方が好きだと言っただけなのに。
「じゃあ合宿まで、基本的に2日に1回、午後に練習しようか?俺、夜のバイトを掛け持ちしてるから、午後早めがいいんだけど、いいかな?」
「も、もちろんですっ!」
「あと、実は引っ越しが正式に決まったから、その準備で休まなきゃいけないこともあるんだ。その時はご自宅に電話してもいいかな?」
「でっ、電話ですか?うわっ、き、緊張しちゃいますぅ…」
咲江は俄に恥ずかしそうにしていたが、伊藤は気付かずに話し続けた。
「じゃあ、水曜、金曜、日曜の…大体昼の1時頃から5時くらいまで練習しようね」
「分かりました!とっ、ところで、いっ、伊藤先輩は、あの、その、どんなアルバイトをされておられるのでありますか?」
「あー、まだそこまではサキちゃんに言ってなかったね。木曜から日曜までは居酒屋でアルバイトしてるんだ。そして火曜日は、家庭教師してるんだよ」
「ひゃー、伊藤先輩、凄過ぎますっ!ますます尊敬しちゃうじゃないですか!」
咲江は目を輝かせて、伊藤のことを見た。
「そ、尊敬だなんて、照れるなぁ…」
伊藤はちょっと顔を赤くして、頭を掻いた。
「俺、秋から一人暮らししなきゃいけないからお金が掛かるじゃん?少しでも親の負担を減らしたいから、アパートの家賃と光熱水費くらいは自分で稼がなきゃ、と思ってね。居酒屋でバイトしてるから、食事も賄いとかもらえて節約出来るし、自炊する料理も働きながら覚えられるんだよ」
「先輩、なんてカッコいいんですか!先輩と結婚する女の子は幸せになりますね」
咲江は目をハートにしたような状態で話していた。
「けっ、結婚?そんなこと考えたこともないよ、まだ。サキちゃんは、結婚とか意識してるの?」
「あうっ、そ、そ、そうですね、あのぉ…。女として生まれたからには、究極の幸せは、素敵な旦那様と結婚して温かい家庭を築き、子供も2人か3人はほしいです」
咲江は顔が火照っていくのを自分でも感じていた。
「サキちゃん、偉いよ!今の女子大生、特に1年生でそこまで将来のことを考えてる子はなかなかいないから。今が楽しければいい、そんな女子ばかりじゃない?周りの女の子って」
「えっ、そ、そうですね、合コンに行きたいだとか、彼氏がほしいとか、そんな話はよく聞きます」
「サキちゃんは誰か好きな人はいるの?」
「キャー、アタシですか?」
咲江は顔を真っ赤にしてしまった。
「いやいや、答えたくなかったら、無理にとは言わないよ。でもこの時期、誰か好きな異性がいるってことは、健全だと思うし、結婚願望が強いサキちゃんならもう誰か将来を見据えた好きな人とか、彼氏がいるのかな?と思ってね」
咲江はその瞬間、伊藤先輩が大好きです!と言いたくなったが、グッと飲み込んだ。もしかしたら伊藤に彼女がいたり、別に好きな女子がいるかもしれないし…。
中学高校と失恋ばかりだった咲江は、2人でサックスの練習をしている内に伊藤のことが好きになった今も、拙速に告白してはならない、確実に伊藤も咲江のことを気に入ってくれたと確信が持てるまでは、告白しないようにと決めていた。
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4-1「箱根にて」
3泊4日の箱根セミナーハウスでの合宿は、8月のお盆直前に実施された。
合宿までの夏休み期間中、伊藤と咲江はサックスの練習をしていたが、伊藤から見た咲江は、グングンとサックスが上達していくのが分かるほど、練習熱心だった。
咲江は、合宿中に少しでも伊藤に認めてもらいたい、その一心で練習に励んでいた面が大きい。
ただ告白することまでは、考えていなかった。
まだまだ伊藤のことを知りたいし、咲江のことももっと伊藤に知ってもらいたかった。
今の段階では、ちょっと楽しい女の子としか思われてないだろうな、という咲江自身の分析があったからである。
伊藤はと言うと、これまた高校時代の恋愛経験が邪魔して、ちょっとオクテ気味なところがあった。
2年生の時にバレー部の女子の先輩と初めてのキスを交わし、1年ほど付き合ったが、先輩が合格した大学名も告げずに引っ越してしまい、連絡も取れなくなって自然消滅してしまったのだ。
そのトラウマが伊藤には残っている。
だから元気で明るい咲江みたいな女の子が彼女なら…という思いを持ち始めているものの、勇気が出ない状態なのであった。
さて箱根合宿は、楽器は軽トラを2台借りて、免許証を持っている部員が運転して、それで運搬することとし、他の部員は小田急で移動することになった。
豪華な特急、ロマンスカー…に追い抜かれる度に、みんなして「いつかはロマンスカー」が合言葉になっていた。
箱根セミナーハウスは、箱根湯本からバスで20分ほどの小涌谷にあり、他にも企業の保養所とか、観光ホテルが林立した一角にあった。
寝室は2人部屋となっていたが、規模の大きいサークルが利用してもよいように、部屋数が沢山あったため、軽音楽部のような中規模のサークルでは、ほぼ個室として使える。
もっとも同時に他のサークルの合宿が重なっていたら寝室を譲り合わねばならないが、今回は事前の調整が上手くいったのか、軽音楽部の合宿期間中は他のサークルは全く利用予定が入っていない。
お盆直前にしたのも功を奏したのかもしれない。
風呂も流石に箱根だけあって、各部屋にも風呂があり、温泉の出る大浴場も別途備わっている。
「す、すごい…」
咲江はセミナーハウスに到着した時から、感動していた。
同じグリーンズの1年生の友達、丸山千恵も咲江に、軽音楽部入って良かったね~と声を掛けていた。
「はい、皆さん!一旦玄関前に集まって下さい」
軽音楽部の代表、山本功が話し始めた。
咲江は山本の顔をほとんど知らない。別のバンドなこともあるが、練習ではすれ違ってばかりだったからだ。
「今日から3泊4日、セミナーハウスにお世話になりながら、皆さんの技術向上と親睦を深めてもらいたいと思います。夜の発表会は、事前に各リーダーにクジを引いてもらっています」
ここでどよめきが起きた。既にバンド別に夜の発表順番が決まっているなんて!ということだろう。
咲江は伊藤の斜め後ろに立って、話を聞いていた。
「まずいきなりですが、今夜、演奏してもらうバンドは…」
みんな固唾を飲んで耳を傾けている。
「グリーンズです!」
えーっ、参ったー、マジかー、そんな声が飛び交っている。リーダーの大谷は、みんなに対して手を合わせていた。
その後も、明日の夜、明後日の夜と発表のバンド名が読み上げられたが、グリーンズのみんなはもう既に、どうしよう…という会話で一杯だった。
伊藤も参ったなーと呟きながら、ふと斜め後ろにいた咲江を見た。
「サキちゃん、俺の後ろに隠れてたの?」
「えへへ、すいません」
「俺たち、トップバッターだよ。どうしようか?」
「いや、初日にとっとと課題を終わらせてしまえば、後は気楽に過ごせるじゃないですか!前向きにいきましょうよ、伊藤先輩」
「まっ、まあ、そうだよね。初日に課題を終わらせておけば、明日以降は自由練習になるしね。」
そこへ大谷がやって来て、グリーンズの今日の予定を説明し始めた。
「みんな、アタシのくじ運が悪くてごめんね!でも初日に面倒な宿題を終わらせておけば、残りは気楽に合宿に参加できると思って、前向きに許してね」
伊藤は、咲江が同じようなことを先に言っていたことに、軽く驚いた。
「ということで今日は午後から、発表曲の練習を食堂のステージで行います。それで、1年生のみんなは初めてだから知らないと思うけど、夕ご飯は、私たちの演奏が終わって、他の部員の感想を一通り聞いた後に、全員で食べます。ただしお風呂は、夜の発表会に当たってないバンドメンバーは夕方5時から7時まで、夜の発表会のメンバーは、7時まで練習して、7時から本番、そのあと夕ご飯を食べて、ご飯後にお風呂になります。これはね、多分あたしの想像だけど、演奏して緊張から解放されて、お疲れさん!みたいな意味で、お風呂の時間が別々になってるんだと思います。だから逆に言えば、ご飯の後はお風呂入り放題です。でも!男子は女子の風呂を覗かないように!」
最後は笑いが起きた。
咲江も伊藤に、
「先輩、アタシのお風呂の時、覗いちゃダメですよ」
と言って、からかっていた。
ただ咲江が驚いたのは、こんな時は
「お前の裸なんか誰が見るかよ!」
とワザと悪態をつく男子がほとんどだが、伊藤は
「大丈夫。逆にサキちゃんがお風呂に入っている時は、俺は入らないようにするか、万一被ったとしても、覗くような奴がいないように見張ってるから」
と答えたことだ。
(伊藤先輩、なんてカッコいいの…)
ますます咲江の中で、伊藤に対する好感度が上がった。
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4-2「初日夜」
合宿初日の夜の演奏に、グリーンズが選んだ曲は、「イン・ザ・ムード」と「茶色の小瓶」の2曲だった。
どちらもグレン・ミラー作曲の、ジャズ入門的な曲だった。
咲江は本番直前まで何度も繰り返された通しの練習では、ほぼ練習の成果を出せたのだが、本番ではとてつもなく緊張してしまい、頭が真っ白になった。肝心な所で音が出なかったり、汗で指が滑って指が動かなかったりして、練習が100点なら本番は10点位の出来だと思った。
2曲演奏して、他のバンドからはブラボーの声も飛んだが、咲江はあまりの出来の悪さに、いつものどんな時も前向きな気持ちが吹っ飛び、その場から逃げ出したくなっていた。
伊藤も、隣の咲江の異変に気が付いていた。
「はい、合宿初日の夜を飾る、グリーンズの演奏でした!皆さん、お疲れ様でした。明日と明後日のバンドも、グリーンズに負けないような演奏、期待してますよ。じゃあグリーンズの皆さんは楽器を片付けて、一緒に夕飯を食べましょう」
部長の山本がそう言うと、グリーンズは片付けに入った。
伊藤は咲江の動きを気にしていたが、ちょっと目を離したスキに、サックスを持ったまま姿を消していた。
(やっぱり…。サキちゃん、何処行くんだよ)
咲江が姿を消したとしても、行き先はせいぜいで咲江の寝室だろう。
伊藤はサックスを食堂の椅子に置いて、咲江を追い掛けた。
「伊藤、どうした?」
グリーンズの伊藤の同期、徳田が思わず声を掛けた。
「ちょっと後輩がな、詳しくはまた後で」
伊藤は女子の寝室がある3階へと駆け上がった。
すると、サックスを持ったままトボトボ歩いている咲江らしき後ろ姿が見えた。
「サキちゃん!」
咲江は伊藤の声に、ハッと立ち止まり、伊藤の方を振り返った。
「せ、先輩…」
その場で立ちすくむ咲江に、伊藤は駆け寄った。
「サキちゃん、どうして?何も逃げなくても…」
「先輩、アタシは本番で全然吹けなかった…。あんなに練習したのに…。皆さんに申し訳なくて、恥ずかしくて…」
伊藤は咲江の目を見つめた。咲江も伊藤に見つめられ、目を逸らせなくなった。見る見るうちに咲江の目には涙が溢れてきた。
「せっ、先輩に、一生懸命、教えて頂いたのに、全然吹けなくて、先輩の足を引っ張っちゃって、悔しかったです!」
咲江は涙を堪えながら喋っていたが、遂にワーンと声を上げて泣いてしまった。
伊藤はこんな時、どうして接してやれば良いのか、あまり処方箋が豊富では無い。
だがそのままにしておけるはずもなく、そっと咲江の肩を抱き寄せた。
「え?せ、先輩…」
咲江は伊藤を見上げた。
「俺もさ、恋愛偏差値が低いから、こんな時に気の利いた言葉がスムーズに出てこないんだけど…」
「…はい」
「サキちゃん、俺も去年の合宿では、初めての演奏、本番でド緊張して、途中から楽譜が分からなくなって、最後は楽器持って吹いてる真似しか出来なかったんだ」
「えっ、先輩が、ですか?」
「そう。それでやっぱり悔しくってさ。練習の時は結構吹けてたのに。初めて、同じサークルの仲間の前とはいえ、本番の怖さってのを知ったよ。それで落ち込んでたら、去年4年生で、俺の指導をしてくれた先輩が、『緊張したよね。でも最初はみんなそうだよ。アタシだって偉そうにしてるけど、1年の時は酷かったんだから。同じ失敗しないようにすれば良いだけだよ。気にしないで頑張って!』って声を掛けてくれてね。それ以降も全然変わらない明るさで俺に接してくれて、お陰で俺もすぐ立ち直れたんだ。だから俺もサキちゃんに、同じようなことを言うね。最初だから、もう気にしない!もう終わったこと!次の本番で頑張ろうぜ!」
「うぅっ、伊藤先輩…」
咲江は、伊藤の肩に顔を埋め、泣いた。
「いいよ。サキちゃんの気が済むまで、俺の肩で泣きな」
咲江は今は、本番で失敗した悔しさより、なんて素敵な先輩と知り合えたんだろうと、感激して泣いていた。
「落ち着いたら、夕飯食べようよ。俺とサキちゃんの席、取ってあるから」
「はい、ありがとうございます。実は…お腹が空いてるのも事実でして…」
「ハハッ、素直でよろしい。じゃ、サックス片付けておいで。一緒に夕飯食べよう。待ってるから」
伊藤はそう言うと、食堂へ向かった。咲江は伊藤の後ろ姿に向かって、コッソリと
「伊藤先輩、本気で好きになって良いですか?」
と、問い掛けては、自分で勝手に照れていた。
<次回へ続く>
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