第20話夢うつつ

 妊娠六ヶ月。

 お腹が随分と大きくなって歩くのが億劫になった。

 つまり何が言いたいかと言うと、歩くのがダルいってのに、この姿で外に出るなんてあり得ないってこと。

 最近のわたしの日課は、食事が終わるとお気に入りのクッションを置いたソファに陣取り、グレーテルお勧めの物語を片っ端から読んでいた。


 物語の章が終わった時、ふと我に返る。

 そう言えばこの屋敷で雇っている者たちは、一人残らず偽装結婚これの事情を知っている。

 だったら屋敷の中くらい詰め物なしで良くないかしら?

 我ながら冴えてる~と、別室で控えていたイルマを呼んだ。

「お呼びでしょうか奥様」

「着替えたいので手伝ってくれる」

「畏まりました。もしやお出掛けでしょうか?」

 その質問を口にしたイルマの声は少々硬い。

「違うわよ。ちょっと窮屈だからお腹の詰め物を外したいの」

「外す?」

「ええそうよ」

「ところで奥様、ずっと外すのはもちろん駄目ですけど、まさかそう言う意味ではございませんよね?」

「えっ駄目なの? だって屋敷の中なら誰も見ていないわ」

「そう言う問題ではございません。

 偽装結婚だけでもずいぶんと危うい橋を渡っていらっしゃるというのに、さらに偽装妊娠まで。少しくらいの窮屈さは耐えて頂かないと、いざと言う時に不自然な仕草が出てバレてしまいます」

「えーそんなぁ」

「ダメと言ったらダメです。

 そもそも奥様は日頃から行き当たりばったりが過ぎます。いいですか、バレてからでは遅いのです!」

 要らぬことを言ってどうやら虎の尾を踏んだらしい。

 こういう時はさっさと謝るに限る。

「解ったわ。もう言わないから許して」

「ハァ……、こういう時だけ素直なのは昔からですね」



 今日も朝からいつものように、ソファに座って本を読んでいた。

 しかし気を抜くと眠気が襲ってきて欠伸が漏れる。何度目か分からない欠伸を漏らして、少しだけお昼寝をしようかしらとぼんやりと考える。

 朝食直後のこの時間をお昼寝と呼んでよいのかは置いておいて……

 しかしすぐに、いやっと頭を振り本に視線を落とした。

 今回グレーテルに借りた本は長編。

 昨日から読み始めたのだが、やたらと面白くて没頭してしまった。

 夜更けにイルマから『そろそろ寝て頂かないと困ります』と注意を受けたが、あと少しあと少し~と読み進めた結果、すっかり寝不足に。

 そんなに頑張って読んだというのに、物語はまだまだ続いている。


 眠い……、でも続きが……、すぅ……







 本邸の使用人がやってきて先ほど先触れがあったと報告を受けた。

 差出人は弟のハロルドだ。

 エーデルトラウトの様子を見たいという話だ。

 断ってもいいのだが、これはきっと両親の差し金に違いない。

 だとすると、ここらでエーデルトラウトの様子を見せておくのも大事だろうと、了承の返事をするように告げた。


「マルグリット?」

「……うう~ん、なぁに?」

 俺は肩に身を寄せてすっかり微睡んでいたマルグリットを揺すって声を掛けた。マルグリットが身を起こすと程よい重みが無くなり少し寂しさを覚える。

 最近の彼女はとても細かく、そしてよく眠る。産婆の話によればこれは病気ではなく、妊娠中の女性の症状の一つで、お腹の中の子が健やかに育つための大事な行動らしい。


「起こして済まない。ちょっと本邸に行ってくるよ」

「ふぅんお客様?」

「ああ、ハロルドが来るらしい」

「またなの、弟君もまめ・・ねぇ」

 まめ・・か、確かにそうだな……

 ハロルドは俺ではなく、エーデルトラウトに逢いたくていそいそとやってくる。

 そんな弟の気持ちは随分と前から気づいていた。だが俺が幸せになるために、もっとも都合が良かった相手もまた、エーデルトラウトだった。

 幸いなことに、当のエーデルトラウトに特定の相手が無く、おまけに俺たち二人を何とも思っていなかった。だから完全に先に言った者勝ち。

 悪いとは思うが、俺を恨んでくれるなよ。



 俺は土曜の晩っきりの本邸にやって来た。

 こちらの屋敷は敷物からカーテン、それに装飾品に至るまでエーデルトラウトの好みに設えてあり、他人の家感がとても強くて落ち着かない。

「エーデラはどこだ?」

 エーデルトラウトに変わって、彼女付きの近侍が出迎えてきたのでそう問うた。

「奥様はいま眠っておられます」

「もしやまだ起きていないという事か?」

「いいえ昨晩良く眠れなかったようで、朝食を取られた後にお休みになられました」

「そうか。ハロルドが来るのだがな」

「では起こして参ります」

「いいやそれには及ばん。妊娠中は眠るのが女性の仕事だそうだ。

 ならば丁度良いと思わんか?」

「……畏まりました」

 そう言った近侍は顔も口調も不満そのもので、我が儘なエーデルトラウトによく似ているなと思った。



 一〇分も待たないうちにハロルドがやって来た。

「お久しぶりです兄上」

「ああ久しぶりだな、今日はどうした」

「実は父上と母上から義姉上の様子を見てくるように言われてしまいまして……

 えっと義姉上は?」

 そう言えば先触れにそんなようなことが書いてあったなと思い出す。

「部屋にいるぞ、どれ案内させよう」

 控えていた執事に「おい」と合図を出すと、執事はハロルドの前に進み出て恭しく礼を取った。

「ハロルド様、どうぞこちらへ」

「ありがとう。お願いするよ」







 ノックの音が聞こえた気がした。

 続いてイルマと何やら男性の声が聞こえてくる。イルマの声は固く少々険が立っているような?


「えーと本当にごめんね」

「いいえ。ハロルド様ではなくすべては旦那様が悪いのです。ですからお気になさる必要はございません」

「あはは……」


 ハロルド?

 あの子がここに居るはずがない。じゃあこれは夢の続きね。


「少々お待ちください、いま起こしますので」

「あっ待って、妊娠している女性は眠るのも大切なお仕事だそうじゃないか。

 無理に起こさなくていいよ」

「ですが、奥様のこれは……」

「いいんだ。それよりも安心したよ。

 義姉上は少しやせ気味だったけど、すっかり健康そうで何よりだ」

「言われてみれば確かに……

 奥様はずいぶんと太りましたね」

「ちょっ!? 僕っそんな事言って無いよね!?」

 細く冷たい何かが容赦なく頬を突いてくる。


 痛い……、えぇ~これ夢じゃなくない?


「えっと痛がってるし止めた方が……

 ああ~っと、そうだ。はいこれ義姉上に」

「これはこれは大層なお花をありがとうございます。

 奥様に変わってお礼を申し上げます」


 だんだんと頭に掛かった靄が晴れてきたような気がする。

 イルマの気配が遠ざかり、棚の方でガサゴソと音が聞こえている。


 ふわっと頬を優しく覆う感触。

 とても暖かい……

 ぎこちなく動くそれは、わたしの頬を数度撫でて離れていった。




 目が覚めるとソファの脇に置かれた椅子にイルマが座っていた。

 わたしが起きたことに気付いたイルマは裁縫の手を休めて、「おはようございます奥様」と言ってほほ笑んだ。

 そんな彼女の後ろにはいつも通りの花瓶が、しかし花瓶に活けられた花は見覚えが無い色で……

「んん~? もしかして誰か来ていたの」

「ええ先ほどまでハロルド様がいらっしゃいました」

「ええっ!? どうして起こしてくれないよの!」

 涎なんて垂らしてないわよねと、慌てて口元を確認しながらイルマを叱った。

 そして思い出したのは、頬に感じたとても優しい感触。

 でも待って、相手はあのハロルドよ?

 ルーカスじゃあるまいに、彼が眠る女性の頬に無断で手を触れる訳ないじゃない。


「起こそうとは思ったのですが、ハロルド様に止められてしまいましたので私にはどうしようもなく……

 申し訳ございません」

「どうしてハロルドが止めるのよ?」

「眠ることが妊婦のお仕事だと仰ってましたね」

 確かにそうだけどさ……

 そんな訳ないと、しばし二人で顔を見合わせた。


「……今度から起こして」

「はい畏まりました。

 それよりも奥様。久しくお腹に詰め物をして生活されていたので気づくのが遅れましたが、最近の奥様はどうやら運動不足が過ぎるようです。

 少し体を引き締めませんと、遠からず子豚と呼ばれることになるでしょう」

「子豚!? ええっ!? まだそんなに太ってないでしょ!」

「ええいまはまだ・・です。しかしこのままでは近い未来にそうなります」

 鬼のイルマ降臨、アゲイン……

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