黒の群体生物

AtNamlissen

発端

梅花

冬の終わり、梅の花が満開を迎えた2月19日。


金に染めた僕の髪は漆黒に色を変え、僕は超能力者になった。






 ◇


朝、部屋の扉を開けて廊下に出る。赤黒く錆びた床は一歩ごとに軋み、キイキイと音を立てる。

冷たい空気の中で、朝の日差しだけがかすかに僕を温める。


錆びて塗料の剝がれかけた手すりに掴まりながら、慎重に降りなければバランスを崩してしまいそうなほど急な階段を降りる。


アパートのコンクリート塀に空いた細い隙間は、アパートを建てたときには裏口として使う予定だったものらしいが、アパートの2階の住人はたいてい、階段から近いこの隙間を通って外に出る。


車1台がやっと通れるほどの幅しかない道路を、西に向かって進む。


このアパートに住み始めた頃、入り組んだ住宅街はコンクリート塀で作られた天然の迷路のように感じられた。

今では通学のために使っている最寄り駅まで、迷いなく辿り着く。


代り映えしない一軒家と庭と塀の中、3度、細い道を曲がると車の頻繁に走る上下二車線の車道がある。


住宅街の入り口から駅までは一つも横断歩道がない。

道の向かい側にある駅に行くために、毎朝多くのサラリーマンや学生が、行き交う車の隙間を縫って車道を渡る。


黄色い看板に大きな赤い字で書かれた「横断禁止!」の文字も、通勤通学に急ぐ通行人に対しては意味を為さない。


180センチメートルを超える長身の高校生。若々しいサラリーマンとOLの夫婦。利発そうな小学生の二人組。普段と同じ見慣れた面々が、真剣な顔で、車が途切れる瞬間を待っている。


南北に延びる道路の向こうは、西である。


朝日は東からしだいに上り、もちろん、西から上るものではない。

今日の天気は快晴。空を見上げると、上空まで容易に見通すことが出来る。頭上には、薄く靄が掛かったように灰色な青空。


僕につられて、隣の高校生も空を見上げる。そして太陽の代わりに輝く一つの大きな天体を目にする。


「あれ、何すかね。」


長身の高校生。肌の良く焼けた体育会系の高校生が、僕に話しかける。


「な。」


僕は、高校生に同意するように短く言葉を吐く。そして、ことさらに強く輝く天体の光が、僕の網膜を焼き尽くすような痛みを感じる。





今週末にはさぞ綺麗な梅が咲いているだろうと思っていた。大学の最寄り駅から歩いて5分ほど、平日は毎日、昼食のコンビニ弁当を食べるために訪れている公園には幹の捻じ曲がり、皮もボロボロな古い梅が3本立っている。


満開の梅の下、僕は起き上がる。視力1.5の視界に細かく散りばめられた紅白の梅の花のなかで、その中心を大きく妨害するように表示される「!」のアイコンを手で触れる。



          ====================


中野さとる 様


見事抽選に選ばれた運の良いあなたへ、私のコレクションから「黒」を差し上げます。どうか有効にお使い下さい。


                     別世界の神的存在より

          ====================



呆然としていた数10秒の間に、目の前に表示されていたメッセージは消えて視界の左下の梅花のアイコンに消える。

左腕に付けた時計を見ると、時計の針は12:42を差している。今日、出席する予定だった一限と二限の講義は既に終わっている。


何か非日常な経験をしていることだけが察せられる。

僕は「黒」なるものを貰ったらしい。そして、視界には不快にならないほどの透明度で梅のアイコンが表示されるようになった。


梅花の紋は受験時代、合格を願った神社の紋章を思い出すが、多分それとは関係ないだろう。視界にあるアイコンに指を近づけると、アイコンが反応して視界を覆うほど大きいウィンドウを開く。


          ===================


「黒」


・説明書


・設定


・閉じる




          ===================



半透明なウィンドウに表示されたのはこの4行だけで、ウィンドウの大きさに対して明らかに情報量が少ない。

「説明書」を指でクリックすると、僕が想像していた、用途や使用上の注意が書かれた電気製品の説明書ではなく、「黒」についての概要から黒の経歴、黒について書かれた書物の紹介、参考文献などが一緒くたに説明された文字通りの「説明書」がウィンドウの詰まるほどに目一杯、表示された。


文章を読むことは決して嫌いではないが、僕の持っている古いカフカの変身のように、紙面一杯に書かれた文章を読むと、激しい運動をした後に似た消耗を感じる。


視界の中で指を下から上に素早く動かすことによって、文章はウィンドウの高さの12、3倍ほど続く。



時刻は15:21。3回寝たが、一通り、説明書は読み終えた。「黒」のことも概ね理解したように感じている。


涼やかになったこの時間、子どもが遊んでいる中で「黒」を試すのは危険かもしれないから、場所を変える。


試すなら家がいいだろう。閉所ならば「黒」の能力は制御しやすい。



大学の最寄り駅から家の最寄り駅までは乗り換えなしの3駅10分。僕の家は大学に通うために一年前の春に引っ越してきたアパートだ。


住宅街の中に建てられた30年物のぼろぼろのアパート、その204号室に僕は住んでいる。

帰宅して玄関から2メートルほど歩くと、畳張りの居間がある。六畳一間、風呂無しの部屋である。

窓からは強い西日が入り、未だに涼しい2月の夕方の空気を温める。窓の上に設置されたロール状の遮光カーテンを閉じて、今から僕がやろうとしていることを外から見られないようにする。


二階建ての一軒家が増えている中、アパートを囲む家々はどれも二階建てで、カーテンを閉じなければ僕の行動はベランダで洗濯物を取り込む主婦方に筒抜けになってしまう危険がある。



まずは小さい声で「黒」と呟く。僕の体内に隠れた「黒」が外に出ようとするが、それを抑えるような理性の働きで、「黒」は外に出ることが出来ない。

次に、理性を抑える。「説明書」によると、理性を抑えるためには感情を発露させることが有効らしい。


例えば、大声で笑う。怖い顔をしながら壁を殴りつける。泣く。感情を露わにしたかのような行動は脳に作用し、感情そのものを生み出すことで理性を抑える。


壁の薄いアパートの一室で壁を殴りつけたり大声を出すことは憚られる。僕の思いつく選択肢は、泣くことしかない。



泣くことは容易ではないが、泣いている人の動画は検索すればすぐに出てくる。適当な動画を選んで再生し、カメラの前で長髪の男性が顔を押さえて泣いている動画を参考にしながらすすり泣くような声を練習すること数十度。

暫くの時間が経ち、偶然、僕の口から迫真の「すすり泣く声」が出た瞬間、肩が一瞬跳ね上がり、同時に涙袋が痙攣する感覚を覚える。


「黒よ」


震える声で「黒」を呼び出す。理性の抵抗は殆ど無く、「黒」は僕の全身の皮膚に空いた無数の細かい隙間から、煙のように細かい粒子として吹き出す。


「黒は一種の『虫』である。塵のように細かく、宿主に忠実な群体である。」


というのが「説明書」の第一文だ。


僕の体からあふれ出した「黒」は、1秒も経たないうちにアパートの狭い部屋に充満する。


ここから、僕は理性を働かせて「黒」を制御しなければならない。


「黒」と長く付き合っている人であれば、「黒」を制御するのには言葉は要らない。「黒」は人と以心伝心の出来る物質であるらしい。しかし、僕はまだ「黒」を見知って長くない。だから、言葉を使わなければ「黒」は動いてくれない。


「球状になって。」


そう言うと、「黒」は僕の目の前で巨大な球になる。上面は部屋の天井に触れるほどに高く、下面は畳に触れるほどに低い。球体の下を覗き込むと、すれすれではあるが畳には触れていない。光を反射しない黒の球は、一方向から見ると平面の円のように見えるが、他の方向から見ても同様に黒い円として見えたから、確かに球体なのだろうと判断した。


「戻って。」


そう言うと、球体の「黒」は僕を包み込むように広がり、覆い隠し、僕の体の中に吸い込まれていった。



_______________________________________________


「黒」#000000


無限に増加し、自由な形に結合する群体生物。光を反射しない表皮を持つため、「黒」は、悪魔の化身や暗闇の具現として別世界で畏れられた。宿主との親和性が高く、感情の発露をトリガーにして、宿主の外に出る。

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