滅びの予感

登美川ステファニイ

滅びの予感

※戦争に関する悲惨な描写が含まれます。


 戦争が始まってから三か月ほどが経った。

 町は見通しが良くなった。でもそれは物理的なことで、ほとんど全てが破壊されて何もなくなったからだ。人もいない。このあたりに生きて残っているのは、もう僕達だけのようだった。

 瓦礫の上に黒い柱が見える。それは煙ではなくて、死体にたかる蠅だ。三か月の間に気温が上がって、最初はいなかった蠅がわくようになったのだ。街の中には煙と死の臭いが漂う。

 頭上を飛行機が通り過ぎ、運が悪ければ爆弾が落ちてくる。遠くから聞こえる飛行機の唸り声は、最初は怖かったが、今ではもう怖くなくなっていた。

 慣れたという事もある。だがそれ以上にイドゥニアのおかげだ。イドゥニアの第六感が、僕達を救ってくれたのだ。

「走れ、カリュカ。あの瓦礫の陰に行くんだ」

「分かった」

 イドゥニアは唐突に言い、そして走り出した。前方五十メートルほど先に見えるビルの柱の残骸の事らしい。走るとリュックの中で缶詰が踊り背中を打つ。靴底のはがれかけたブーツがパカパカと間の抜けた音を出す。それでも僕達は走り、コンクリートの柱と柱の隙間へとしゃがみ込む。

「二十秒後だ。口を開けて耳をふさげ」

「分かった」

 その指示もいつもの事だ。爆発が起きると衝撃波で鼓膜が破れる。耳をふさぐのはもちろん、口も開けて衝撃を体外へ逃がせるようにしておく必要があるのだ。

 僕は頭の中で二十秒を数える。一、二……十九、二――。

 波打つような音が聞こえ、そして衝撃波が一気に通り抜ける。爆発の轟音が遅れて聞こえ、台風の中に放り出されたかのような狂騒に包まれる。全身が揺れ、細かな石の破片が弾丸のようにすっ飛んでいく。そして、吹き戻し。今度は逆の方向に空気が吸い込まれるように強い風が吹く。そして、やがて音と衝撃は収まった。

 僕は口に入った石の破片を吐き出し、イドゥニアを見る。彼も僕の方を見ていて、僕らは顔を見合わせる。

「熱気化爆弾だ。もっと近かったら危なかったな」

 ほっとした様子でイドゥニアが言った。

「またお前の予知に救われたな……一体どうなってるんだ」

 イドゥニアは少し困ったような顔をして答えた。

「……第六感だよ。何となく、分かるのさ」

「何となく、ね。百発着中の爆撃予測だぜ。お前がいなかったら、俺はとっくに死んでいる」

「お互い様さ。一人では、俺も生き延びられなかっただろう」

 町の風景はまた少し変わっていた。瓦礫が爆風でなぎ倒され、また少し平坦に近づいている。蠅の群れは姿を消していたが、そのうちまたどこからか集まってくるだろう。

 隠れていたコンクリートの柱に手で触れる。もしこいつが爆風で倒れていれば、二人ともぺしゃんこだ。しかしイドゥニアの第六感にそういう心配はいらない。爆撃や爆発を事前に察知し、必ず生き延びる事のできる場所を探し当てるのだ。


 二か月前、空爆が始まった最初の頃に、僕とイドゥニアはキャンプに行っていた。東部で戦争が起きていたのは知っていたが、一か月経っても決着はつかず、戦線は膠着し両軍とも消耗しながら戦い続けていた。

 その時はまだ、戦火は僕達の住む西部にまでは届いていなかった。国全体が戦時体制ではあったが、まだ十五歳の僕らは徴兵の対象でもなく、どこか対岸の火事と思っていた。

 それが、急に国全土が空爆の対象になったのだ。もちろん空軍は迎撃したが、物量の前に敗れたのだ。ほとんどの爆撃機は予定通りに僕達の国を破壊した。主要都市、工場、空港。そう言った場所が狙われ、そしてほとんど無差別に人口密集地への爆撃が行われた。

 僕達は星空を眺めながら、山の向こうで街が燃えている光景を目にした。空が赤く染まる。夜空に迎撃用機関砲の曳光弾が尾を引き、時折空中で爆発が起こっていた。そして目には見えないが、無数の爆弾が街に投下されたのだ。

 それはまるで……冗談のようだった。僕達の町が燃えている。多くの人が、恐らく死んでいるのだ。こんな真夜中に、何の前触れもなく空爆が起こったのだから。

 そして僕達は街に戻ったが、僕の家もイドゥニアの家も吹き飛んでいて、家族の姿もなかった。避難所にはたくさんの人がいたが、その中から家族を探し出すことはできなかった。

 僕達は西を目指した。多くの人がそうするように、西側の国境を越えて避難するのだ。二百キロ以上の距離があったが、行くしかなかった。それも徒歩でだ。崩れたスーパーの瓦礫や死体の下から食べ物や飲み物を探し出し、僕達は進んだ。

 逃げる最中にも爆撃が起こった。何千人もいたはずの避難者達は数百人になり、生き残った人達もみな死人のような顔で歩き続けた。

 そして頭上を飛行機が飛んだある日、イドゥニアが叫んだのだ。

「行こう、あのビルの中へ! 逃げるんだ!」

 疲れ切った僕はイドゥニアの言葉を朦朧として聞いていた。腕を引かれるままに歩き、足をもつれさせながら走り出した。

 逃げたってどうなるんだ? 隠れたって死ぬんだ。どこにいても、死ぬときは死ぬ。無慈悲な確率が僕達を包囲している。死と、死と、死だ。死が傍らに立ち、僕達の道行きを支えていたのだ。死に向かわせるために。

 爆撃が始まった。他国へ逃げようとする者を皆殺しにするための空爆。僕達はその音を崩れかけたビルの中で聞いていた。衝撃はここまで届く。地面も、壁も、何もかもが震え、地獄にでも放り込まれた気分だった。死にたい。僕は何度もそう思った。いっそ死ねばこの恐怖や苦しみからも解放される。でも、死にたくなんてなかった。だから薄暗いビルの瓦礫の中で、僕は涙を流しながら爆撃に耐えていた。

 やがて音が収まり、イドゥニアが立ち上がる。

「やった……やっと、生き残ることができた……」

 イドゥニアは僕に手を差し伸べた。

「行こう……生きるんだ。俺とお前、二人で……」

 それがイドゥニアの第六感の始まりだった。それから何度も僕は彼の第六感に救われ、そしてようやく国境付近にまで辿り着いたのだ。


 瓦礫をよじ登り、十メートルほどの高さから地平線を見る。約十キロ先に国境がある。順調にいけば二、三時間だが、順調にいく見込みはなかった。

 すでにこの道路は地雷で歩けない状態になっている。だから行くなら瓦礫の上を通っていくしかない。そして国境付近は爆撃を受けやすい地点でもあった。何万人もの避難者が国境を目前に殺されている。僕達が歩いている数時間の間に空爆が行われる可能性は低いが、零ではなかった。

 それでもイドゥニアの第六感があれば大丈夫だろう。そう思っていたのだが、ここ数日のイドゥニアは様子がおかしかった。国境に近づくほどに表情が険しくなっていく。何かを恐れるような、思いつめた顔をしているのだ。

 その理由を聞いても何も答えてはくれない。僕は不審に思いながらも、イドゥニアと歩き続けた。

 そしてようやくここまで辿り着いたのだが、イドゥニアの顔色は優れないままだった。もうすぐ国境だというのに……少しも嬉しくないようだった。

「行こうか……」

 僕は瓦礫から降りて声をかけた。

「ああ」

 力のない返事だった。そして僕達は歩き出した。

 瓦礫の上を進むのは時間がかかったが、それでも一歩ずつ国境に近づいていく。夕方には辿り着けるだろう。僕は二か月の長い旅がようやく終わるのだと、まだ辿り着いてもいないのに気が抜けてしまっていた。

 後方から低い唸りが聞こえた。まさかと思って振り向くと、敵の爆撃機だった。それも今までになく数が多い。二十機以上だ。

「くそ……もう少しだってのに……」

 僕はイドゥニアを見る。

「来やがったぞ。今度はどこに隠れればいいんだ?!」

 僕が聞くと、イドゥニアは唐突に涙を流し始めた。

「おい、何泣いてんだよ! 早く隠れないと!」

「駄目なんだ……」

「何?! 何が駄目なんだよ!」

「何度繰り返してもここで死ぬんだ。隠れる場所なんかない。全部崩れて、吹き飛んで、安全な場所なんかどこにもなかった……百回以上繰り返しても、答えは見つからなかったんだ……」

 イドゥニアは膝をついて顔を手で覆った。

「俺達はここで死んでしまうんだよ!」

「何……何言ってるんだ! おい、なあ! 第六感はどうしたんだよ!」

 僕が何を言ってもイドゥニアは取り乱して会話の出来る状態ではなかった。そうこうしている間にも爆撃機は近づいてくる。それに、もう爆弾を落とし始めた。

「逃げるぞ!」

 僕はイドゥニアの腕を引く。すると踏ん張った足元が崩れ、僕達は地面に吸い込まれるように瓦礫と共に落下していった。


 目覚めると、イドゥニアが空を眺めて座っていた。僕が起きたのに気付き、手を差し伸べてくる。

「ようやく生き残ることができた……お前のおかげだ、カリュカ」

「一体何が起きた?」

 僕はイドゥニアに引っ張られながら起き上がる。

「この家の下に地下室があったんだ。それが崩れて、そこに落ちた。おかげで爆撃から逃れることができた。何度やっても俺だけじゃわからなかった……お前が、諦めなかったからだ」

「そうか……まあ、良かった」

 何度も? 爆撃の前にも何度繰り返しても死ぬと言っていた。まるでやり直したかのようだ。イドゥニアも……疲れているのだろう。

「行こうぜ、あと少しだ」

「ああ、行こう」

 僕達は二時間かけて国境に辿り着いた。国境にある橋は爆撃で壊されていたが、幸い水深が浅いので渡河することができた。向こう側には国境警備隊と、避難者を支援するボランティア達がいた。

 僕は彼らから抱擁を受け、そして泣いた。嬉しかったのではない。悲しかったのだ。多くの人が、ここに辿り着けずに死んでしまった。

 まだ戦争は終わらない。失われた日常が戻るのはいつだろうか。それでも今だけは、イドゥニアと生きている喜びを分かち合おうと思った。

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