# 26. 別れ

 スカダルリヤ通りはレストランやバー、ナイトクラブ、画廊やアートショップなどが建ち並ぶ、ベオグラードの観光名所のひとつである。

 およそ四百メートルある石畳の坂道は、街路樹が青々と茂って真夏の眩しい陽射しを和らげている。木陰にずらりと並んだテラス席の囲いに置かれたプランターは色とりどりの花を咲かせていて、どこを切りとっても絵になる美しさだ。

 ステフがお薦めだと云って連れてきてくれたレストラン『トゥリ・シェシラTri Šešira』は三つの帽子という意味なのだそうで、テラス側の外壁には黒、赤、白の三色の帽子が飾られていた。創業は一八六四年というセルビアの伝統料理やBBQバーベキューが売りの老舗レストランで、夜はジプシーによる演奏もあり、この通りでは一、二を争う人気店だそうだ。

 店内の壁には過去に訪れた著名人の写真パネルがたくさん掛けられていて、そのなかにはジミ・ヘンドリックスも含まれていた。ルカとテディは顔を見合わせて嬉しそうに話し、写真を撮ってなにかメッセージを打っていた。

「ドリューに?」

「うん」

「返事はやっ。あはは、すごく羨ましがってる」

 カイマクという、クロテッドクリームに似た乳脂肪の塊のような濃厚なクリームを、スモークポークにつけながら食べる。二人前だという肉ばかりのグリル料理の盛り合わせはかなりのボリュームがあり、これから飛行機に乗って帰らなければいけないのだからとアルコールを控えたロニーは、思わず冗談半分にやっぱり泊まろうかしらと云って、皆を笑わせた。

「ところで気になってたんだが、テディのその髪はなんだ?」

 テディは右耳の少し上、ちょうど傷のあるあたりを編みこまれ、結ばれていた。「ああ、それね」とロニーが笑みを浮かべながら答える。

「テディったら、シャワー済ませて出てきたら包帯取っちゃってて。髪を洗いたかったのはわかるけど、包帯、うまく巻けなくて。で、いちおう消毒だけしてガーゼをあてて、取れないように髪で止めたの。可愛いでしょ?」

「可愛いというか、違和感のないのがすごいな」

「勘弁してよ。これ、ロニーのなんだけど、初めはなんかハート型の飾りとリボンが付いてたんだぞ。頼むからその飾り取って、ゴムだけにして縛ってくれって頼んだけど」

「付けとけばよかったのに、リボン」

「リボンならルカのほうが似合いそうだけどね、髪型的に」

 そんなふうにたわいも無い会話をしながら、四人は食事を楽しんだ。時間にはまだ余裕があった――ザグレブで皆と合流してからプラハに戻ろうと思っていたのが、ちょうど直行便に空きがあったので先に帰ると、エリーから連絡があったのだ。なら自分たちもビジネスジェットをチャーターなどせずとも、都合の良い便で戻ればいい。そう思ってネットで調べると、直行便ではないが三時台に一本、まだ席が取れる便があった。プラハに着くのが六時台なら充分だと、ロニーはその便を三席押さえた。

 そして、すっかり腹を満たし休憩もして、揃って席を立とうとしたとき。

「――わかった。ごくろう、じゃあ戻ったらまた連絡をくれ」

 ステフはかかってきた電話をとり、短く返事をしてすぐに切った。そしてテディの顔を見て、頷いてみせる。

「当たりだったよ。間違いなく中身は座標の入ったフラッシュメモリだった。あとはその座標を頼りに、荷を海の底から引き上げるだけだ」

 それを聞いて、ふと思いだしたようにルカがテディに向く。

「そういえば、おまえなんでフラッシュメモリなんて持っていったんだ? 俺のバッグに入ってたんだろ? おまえ、人のもの勝手に持っていったりとかしないのに」

「ああ、それは……」

 テディが困ったように笑い、ステフを見た。ステフも笑って、手にしていたスマートフォンを何度かタップし、その画面をルカに向けた。ロニーもなんだろうと気になり、ルカと頭を突き合わせるようにして小さな画面を覗きこむ。

「――え……これ、口紅?」

「俺にも口紅に見えるけど……まさか、これがフラッシュメモリなのか?」

「そうだ。誰が見たって口紅にしか見えないよな。メモリはこの中に仕込まれてた。キャップを開けて回すと、ちゃんと口紅の赤い部分も出てきたそうだぞ」

「へえ……すごいわね。なんだかスパイ映画みたい」

「ああ、なんかありそうだな」

 ルカはしげしげと感心したようにその画像を見つめていたが、ふとなにかに気がついたように「あっ」と声をあげた。

「テディおまえ、これの所為で俺が人妻と浮気したとか思いこんだんだな? 勘弁しろよ! 俺が浮気なんてするわけないじゃないか」

 まったく、おまえじゃあるまいし。と、ルカが余計な一言を付け足し、テディの顔色がすぅっと変わる。まずい、とロニーは咄嗟に「さ! もうそろそろ空港に向かいましょ。みんなにお土産も買いたいし!」と云って、勢いよく立ちあがった。

 ステフがぷっと吹きだし、「じゃあ、行こうか。送るよ」とルカを睨んでいたテディを促す。なにも喋らずさっさとついてこいというように、ロニーはレストランを出た。

 テラスも過ぎて舗道にでるといったん足を止め、振り返る。ルカはテディの表情を窺う様子もなく、自分についてきていた。それを見て、ああ、ルカってまったく悪気はないのね、とロニーは思った。ルカとしては、もう気にしていないからさらりと口にできるのかもしれない。だが、テディはいちいち過去のことを蒸し返され、責められているような気になるのだろう。

 こんな調子で、ちゃんと結婚に漕ぎ着けられるのかしら。なんてことを思いながらロニーは、まだあと少し続くヨーロピアンツアーのあいだくらいはもう喧嘩しないでいてくれと、心のなかで祈った。





 ベオグラード・ニコラ・テスラ空港はそれほど大きくはなく、必要充分な設備だけがあるといった印象の、つづまやかな造りだった。エスカレーターで二階へと上がれば、出国ロビーの他にブランドショップや免税店、セルフサービスのファストフード店、ブックストアなどがあるが、数は多くなくそれほど賑わってもいなかった。

 降り立ったときはテディの無事な姿を確かめるために急いでいて、周囲を見る余裕などなかった。なのでロニーは、ツアーで訪れることのなかったセルビアの名物をなにか買おうと、搭乗時刻までセルビアンハウスという土産物がひととおり揃う雑貨店で時間を潰すことにした。

「――ワイン、ラベルが可愛い! ラキヤってこんなに種類があるのね、全部買いたくなっちゃう……。あ、蜂蜜も有名なのね、ハーブティーと合わせてターニャにどうかしら」

「ロニー、ハーブティーはいいけど、そんなに酒瓶ばっかりどうするんだよ。ちょっと減らせよ」

 ルカに云われ、ロニーはしぶしぶワインを陳列棚に返した。ステフが笑い、「石鹸とかは興味ないか? これ結構、評判がいいんだぞ」と、レトロなパッケージのベビーソープを指す。

「でも石鹸はパリでまとめ買いしちゃったのよね……、えっ、なにこれ、可愛い! 安い!」

 ロニーは目移りするままにあれもこれもと買いこんだが、ルカはアイヴァルAjvarという瓶詰めされたパプリカのペーストとカイマク、テディはヴァニリツァVanilicaというプラムのジャムやヘーゼルナッツクリームをサンドしたクッキーを買っただけだった。あら、それだけ? とルカに云い、ロニーがはしゃぎ過ぎなんだよと返されて、自分が無意識のうちに努めてそう振る舞っていたことに気づく。

 そろそろ搭乗時刻が近づいてきていた。荷物が増えたので手荷物カウンターに行って預けなければならないし、もう向かったほうがいい。ロニーは空港内の時計を見やってそう思い、そして――カートを押してくれているステフを見た。

 無事にテディは戻ってきた。テディを拉致した麻薬密輸組織も一網打尽にしたそうだし、USBフラッシュドライブもみつかった。もう室内を荒らされたり脅迫文のメッセージを残されたり、誰かが銃で撃たれたりすることもない。

 ――だがそれは、ステフとの別れを意味しているのだ。

「さて、じゃあ俺はもうこのへんで」

「いろいろありがとう。テディが無事に今ここにいるのはあんたのおかげだ。本当に感謝してるよ」

「なあに、テディ自身の活躍もでかいんだぞ? 俺は自分の仕事をしただけだ。なあテディ」

「うん……でも、やっぱりありがとう、だよ。俺だけじゃなくって、エミルやロニーもたすけてもらったんだし」

 ルカとテディのふたりがステフとそんなふうに話すのを、ロニーは一歩下がって見ていた。するとステフがこっちを向いて、なにか云いかけるように口を開いた。ロニーはステフの言葉を待たず「本当にありがとう。……じゃ」とだけ云って、くるりと背を向けた。

「ロニー」

 ステフが名前を呼ぶ。だがロニーは聞こえないふりをして、そのままカートを押して歩き始めた。かつかつとヒールの音が響く。音が刻むリズムは走り気味で、後ろからなに慌ててるんだ、待ってよとルカとテディの声がした。

 しかしロニーは立ち止まることも、振り返ることもできなかった。

 ネムリーテジク・スポーツアリーナで発砲する犯人から庇ってくれた、あの背中の広さ。車から振り落とされそうになったとき、受けとめてくれたあの腕の中で感じた安堵感。初めは神出鬼没で怪しくて、繰り返し現れるこのパパラッチはいったいなんなのと思っていた。何度警察に突きだそうと思ったかしれやしない。

 それが、名前もフォトグラファーだというのも嘘で、実はBIAのエージェントで。それを聞いたからというわけではないけれど、いつからか頼もしく思っていて、この人ならきっとなんとかしてくれると信じていて。そう、そして――いつの間にか、こんなに自分のなかで大きな存在になっていたなんて。

 ――何年かぶりで、やっとこんな気持ちになったというのに、国をふたつも隔てたところに帰らなければいけないなんて。

 ロニーはこの空港ががらがらと云っていいほど空いていることに感謝した。おかげで通路の向こう側から歩いてくる人はほとんどおらず、溢れてくる涙でぐしゃぐしゃに濡れたロニーの顔を目にする者は、誰ひとりいなかった。

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