# 20. 危険な誘惑

 部屋にいるのは、また自分と見張り役の男のふたりだけになった。男はベッドに腰掛け、暇そうにスマートフォンを弄りながらビールを飲んでいる。

 酒には強くなく、ビールもあまり好まないテディだが、このときばかりは男の飲んでいるビールを美味そうだと感じた。口のなかも喉もからからだった。水かなにかくれと云うのは気が進まなかったのだ。なにを飲まされるかわかったものじゃない、ぎりぎりまで我慢しよう。と、そう思っていたのだが――さすがに、そろそろ限界だった。

 しょうがない。倒れてしまったりするほうがよほど不安だ。テディは「なあ」と男に声をかけた。

「俺にもなにか飲ませてよ。喉が渇いて死にそうだ」

「ああ? ……そうか、そうだな。忘れてた」

 男はそう云い、ぐいとビールを一息に呷ると瓶をベッド脇のテーブルに置いた。

 この男はもともと気がいいのか、それともちょっと頭が足りないのか、普通はありえないのじゃないかと思うほど頼み事をすんなり聞いてくれるので、こっちが面食らってしまう。ひょっとしたらこんな犯罪組織の一員として働いているのも、まともな仕事場でうまくやれなかったりした所為なのかもしれない。昔、夜の街を彷徨いていたときに垣間見たことがあるが、ある種の生きづらさを抱えている人間にとって、法から外れたところにある群れが受け皿になったりすることはあるのだ。

 男は立ちあがり、ドアを開けて部屋を出た。廊下に誰かいるような気配は感じなかった。みしみしと床の鳴る音が遠ざかっていき、そしてまたすぐに戻ってきた。隣室かどこかに仲間がいて、そこに飲み食いするものを置いているのかもしれない。

 部屋に入ってきた男の手には、アクアヴィヴァのボトルが握られていた。ぎりっとキャップを開ける音に安堵する。薬かなにかを入れたりはされていないようだ。

 男はボトルをテディの口に当て、傾けた。ごくごくと喉を鳴らし、テディは貪るように水を飲んだ。飲みきれず溢れた水が、顎から胸許を濡らす。ふぅとボトルから口を離し、本心から「ありがとう」と云うと、男がボトルを持ち替え親指でテディの濡れた口許を拭った。

 テディは男の顔を見上げた。小首を傾げる。男の手に頬を預けるかたちになる。テディは男の目をじっと見つめたまま、その大きく乾いた手に頬を擦り寄せた。

「なにしてる?」

「別に、なにも」

 答えながら、テディは手に唇を寄せ、そして親指を噛んだ。へへっと男が声にだして笑う。

「欲情してるのか? この状況で。ファックしてほしいのか」

「さあ……怖いよ、すごく。でも、こういうシチュエーションってなかなかないよね」

 男はテディを見下ろし、髪を掻きあげた。

「興奮するってか?」

「っていうか、本能なのかもね。生き物としての。なにかで読んだよ、生命の危機を感じると、動物は発情するんだってさ」

「子孫を残すためにか? そこから喰みだしてる生き物にとっちゃ、意味のない本能だな」

「まったくね。……でも、死ぬ前に愉しみたいっていうのは、意味がなくもないんじゃない?」

 男はなにか考えこんでいるように、暫し黙ってテディを見つめていたが、やがて云った。

「……うまいこと云って、ロープを解かせたいだけなんだろう。その手には乗らん」

「こんな椅子に縛られて、ずっと同じ姿勢でいるのがつらいんだよ。手は縛ったままでいいし、なんならベッドに繋いでおけばいいじゃない。そしたら俺は腰が伸ばせるし、あんたは俺を好きにできるよ?」

「ベッドに縛りつけて、好きに嬲れってか。そういう趣味があったのか?」

 舌舐めずりして自分を見つめる男に、テディはさらに一言付け足した。

「ベッドに縛られたことならあるよ。でも、そういう趣味ってほどじゃないけど……。まあ、遊びでね。それに……実を云うと、あんた、けっこう好みなんだ」

 男は手に持っていたテディの飲みさしの水を飲み、ボトルを後ろに放った。そしてテディの傍で屈みこみ、ロープを解き始めた。解いたロープをぐいと引き、テディを立たせるとベッドのほうへと背中を押す。

「あんまり乱暴にしないで」

「もう遅ぇよ、この淫乱が」

 背中側で拘束されていた両手首が離れた。肩が楽になりほっと息を吐くと、男がぐいと右腕を引っ張った。メタルフレームのベッドの脚に右手を繋ぐつもりらしい。ベッドに倒され、自分に跨った男にテディは「逃げたりしないから、あんまりきつくしないでよ」と云ってみた。男は「ほんとに注文の多い奴だな!」と呆れたようにテディを見たが、きゅっとロープを結ぶと「このくらいでどうだ」と訊いてきた。

 なんとなく笑いそうになるのを堪らえ、テディは「うん、いいよ」と頷いた。そして男が左手をベッドの反対側に引っ張ろうとすると、力を込めて抵抗した。

「おい、おとなしく――」

「右手だけで充分でしょ? ……ねえ、もう早く……」

 そう云って、シャツ越しに男の胸に手を這わせる。すると男は堰が切れたようにテディに覆いかぶさってきた。頭を抱えるように髪を撫でられ、首筋に吸いつかれる。テディは性急にジーンズの前を開けようとしている男の下で、自由な左手を頭の上にやり、ヘッドボードに触れた。

 男はテディのシャツを捲りあげ、脇腹から胸へと舌を這わせている。テディは擽ったさに身を捩りながら、躰ごと左側へじりじりとずれていった。そうしてちらりと視界に入ったそれに向かって、テディは懸命に手を伸ばした。指先が触れる。もう少し。あとちょっと――と、微かに手が触れたとき、それがことっと音をたてた。

 男が顔をあげる。しまった、と唇を噛み、自分の上で四つん這いになっている男と目が合うと、テディは咄嗟に思いきり脚を振りあげ、男の急所に膝をヒットさせた。

「~~っ!!」

 男が両手で股間を押さえ、前につんのめる。躰の下から抜けだし、テディはヘッドボードに背をつけた。声にならない叫びを漏らしている男を見ながら、テーブルに置かれていたビールの空き瓶を逆手に引っ掴む。

「……っ、この性悪が! ぶっ殺してや――」

「ごめん」

 痛みに悶える様子に顔を顰め、詫びの言葉を口にしながら瓶を男の頭目掛けて振り下ろす。ごっ、と鈍い音がして男はうつ伏せに倒れこみ、そのまま動かなくなった。

 テディはベッドから降りると急いで右手のロープを解き、そして倒れている男の様子を見た。――大丈夫。死んではいない。さっと乱れた服を直し、ドアを細く開けて部屋の外を窺う。廊下はしんとしていたが、耳を澄ますと向かい側の開け放されたドアの奥から、何人かの話し声が耳に届いた。幸い、そっちとは逆の方向に階下したへと下りられる階段があった。テディは足音をたてぬよう、そろそろと階段のほうへ向かった。履いているのはゴム底のスニーカーだが、この廃墟のような建物の床が軋むとまずい。

 身を低くして階段まで辿り着くと、テディは一か八か手摺に腰掛け、滑り降りることにした。歩くよりこのほうが音がしない気がしたし、ずっと早い。そうして埃を舞いあげながらすぅーっと下へ向かい始めると、思ったとおり階段や床が軋む音は気にしなくても済んだ。一階ぶん下りるごとにいったん手摺から降り、くるりと向きを変えて繰り返す。

 よし、もうじき外に出られる――そうほっとし、テディは最後の階段を過ぎ一階に辿り着いた。そして足を下ろしたとき――ぱきん、という音が響いた。はっとして見た足許には、元は窓に嵌まっていたのであろうガラスが何枚か重ねて積まれていた。聞こえてしまっただろうかと手摺の間から上を見ると、微かにぎし、と床が軋む音が聞こえてきた。

 まずい。テディは隙間から外の光が差しこんでいる大きな扉に近づき、急いで外に出ようとした。が、その扉は開かなかった。何故、どうしてと焦りノブを押したり引いたりして、がたがたと音をたてる。その音に混じって聞こえる足音がだんだんと近づく。早く、早く逃げないと――と、テディはようやく扉の下に噛ませてある木の楔に気がついた。

 くそ、と毒づきながらそれを外すと、今度こそ扉が内側に開いた。転がるように外に出て、テディは駆けだそうとし――ふと目に入ったそれに、つい足を止めた。

 入り組んだ細いみち。青々と茂る街路樹と、あちこち壁の剥がれた建物のあいだに空き地があった。そこには元々あった建物に使われていたのであろう煉瓦やモルタルの塊が集められ、積みあげられていた。

 その光景をテディは子供の頃、TVのニュースで視た憶えがあった。思わず辺りを見まわす。真上から燦々と陽が降り注いでいるのにどこか灰色を強く感じる街は、バスルームの窓から見えたように落書きだらけだった。ラテン文字ではなく、キリル文字。テディが一度視たきりのニュースを憶えていたのは、が変わり果て、ショックを受けたからだ。

「ここは――」

 ざっと砂を踏む音がした。テディははっと我に返ったが、後ろを向く間もなく背後から羽交い締めにされた。逃れようともがくが力ではまったく敵わず、もうひとりが眼の前に現れたと思った途端に腹をもろに殴られた。拳が内臓に喰いこみ、さっき飲んだ水が逆流する。ぐふっと声にならない声を漏らすと、もう一発鳩尾みぞおちの辺りにパンチを喰らった。

 呼吸ができない。テディは強烈な痛みと苦しさに躰を折り、がくりと膝から崩れ落ちると、そのまま意識を手放した。

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