紫陽花の咲く頃

鏡りへい

紫陽花の咲く頃

 朝方降った雨の名残で、墓地に植えられた紫陽花の葉は艶々と緑に輝いていた。

 線香をあげてしばらく手を合わせた後、やっと立ち上がって振り返った僕に君のお母さんが言う。

「ありがとう。もうこれで十年目だから――一緒に来るのは最後にしましょう。生きてる人間は前を向かなきゃだものね」

 柔らかく寂しげで、でも明るい言い方だった。お父さんも同じように口を添える。

「君ももう三〇になるんだもんな。そろそろ自分の家庭を作らないと。優香のことは忘れて」

「――はい」

 僕は頷くしかなかった。僕だけが笑っていない。

 帰りの車内でも交互に言う。

「秋山くんは本当にいい男だな。十年も一途に一人の女を思い続けるなんて。世の中浮気な奴も多いのに、大したもんだよな。優香は生きてる間も死んでからも幸せだったよ」

「本当そう思うわ。秋山くんがうちの息子になってくれないのは残念だけど、ちゃんと生きてるお嬢さんと幸せになってくれなきゃ。神様に怒られちゃうわよ、私たちと、優香が」

 君のご両親が気を遣ってくれているのはわかる。でも僕には適当な相づちで聞き流すことしかできなかった。

 言われた通り、もう墓参りには来ないだろう。墓参りなんて実際、どうでもいい。君はどこにもいない。それがすべてだ。

 十年なんて年月に何の意味もない。長くも短くもなければ区切りでもない。

 僕は人生の伴侶となるべき人を亡くした。

 僕の人生はそういう人生なんだ。それだけだ。残りの人生は、君がいないという人生をただ生きる。

 君がいないからって、他の人を代わりにするなんて――そんなことはできない。


 翌日、朝の通勤列車の窓から僕は見慣れた景色を見ていた。雨上がりの朝。ぼんやりした灰色の雲の切れ間から筋状の光が差している。

 ――ん?

 ふと、その光が一点を指しているように感じられた。なぜだろう、そこだけが他よりも眩しく輝いているように見える。

 そこは、街中にぽつんとある森のような場所。

 あれは――神社だ。

 会社から歩いて一〇分ほどだろう。電車から見るたび気になってはいたが、駅とは反対方向なので行ったことがない。

 これからは墓参りをする代わりに、あそこの神様にでも君の幸せを祈ろうか。


 いつも通りの時刻に駅に着いて会社に向かう。ところが、いつも通りでないのは会社の方だった。

 勤め先が入るビルの前に消防車とパトカーが数台停まっていた。それを囲むようにスーツ姿の人たちが大勢、困ったような、あるいは楽しそうな表情で屯している。僕は知り合い数人が固まっているのを見つけて声をかけた。

「おはようございます。どうしたんですか」

「ああ、秋山さん。なんか、小火ぼやがあったみたいですよ」

「小火?」

 そう言われても、外壁には焦げた跡なども見えない。大した被害はないように思える。それでも内部や反対側は大変なことになっているのだろうか。

 じきに慌てた様子の上司がやってきて、今日は業務にならないから臨時で休みだと伝えられた――。


 どうせなら会社に着く前にわかればよかったのに、とぼやきつつ、同僚たちは突然の休暇に嬉しそうな顔をして各自散って行った。女性の一人は、この時間ではまだお店がやってない、と不満そうだった。

 確かに、買い物に行くならもうしばらくは駅前のファストフードなどで時間を潰さないとだろう。

 だいたいにして仕事用のスーツ姿だから、このまま遊びに行くというのは気が引ける。とりあえず一旦、家に帰ろうか。

 そう思ったところで何かに襟首を掴まれるような感覚を覚えた。どこか――僕には行くところがあるような。

 ――神社。

 思い出して振り返る。そうだ、せっかくだし、行ってみよう。


「……優香が幸せでありますように」

 拝殿の賽銭箱の前で手を合わせ、小さく声に出して祈る。

 今、君が幸せでありますように――。

 僕たちは違う世界にいて会うことはできないけれど、僕はいつもそれを願っている。

 ひょっとして君も同じことを願っていたりして――?

 さて帰ろうかと踵を返したとき、細い脇道があるのに気がついた。

 きっと別の社に続く道なんだろう。両側に木が茂っていてハイキングコースのようだ。

 時間はある。散歩がてらそちらにも行ってみることにした。

 距離にして一〇〇メートルほどだろうか、くねって先が見通せない小道を進んだ。地面には石畳も何もなく、所々木の根や石が飛び出している。いくらか上り坂だ。

 ――本当にハイキングみたいだな。

 この距離なら昼休みに来るのも難しくない。気分転換にちょうどいいかも――。

 そんなことを考える僕の目に予想外の光景が飛び込んできた。道の先にあったのは注連縄のついた大きな木と、その根本に俯せで倒れている男性の姿だった。

 ――まさか、死体?

「うわ、うわ」

 僕は一瞬でパニックになった。

 思わず後ずさりした瞬間、革靴が木の根にぶつかってバランスを崩した。坂道なのと地面が湿っているのとで滑る。大げさに両手を振りつつ尻餅をついた。

 それで正気に戻った。逃げようとした弱気を振り払って、男性に近づく。

「あのぅ……大丈夫ですか?」

「う……」

 微かに声が聞こえた。肘も動いた。起きようとしている。

「しっかりしてください」

 生きている人なら怖くない。むしろ助けなければ。傍らに膝を突いて起き上がるのを手伝う。

 きっと近くの人で、散歩に来て転んだのだろう。白髪頭と服装からして、おじいさんのようだ。

「ああ……ありがとう」

 動かせる関節をゆっくり動かして四つん這いのような体勢になったおじいさんがこちらに顔を向けた。その顔を見た瞬間、僕は思いっきり叫んだ。

 額から血が流れていたのだ。

「血……血!」

 再度パニックになる。駄目なのだ、血は。怪我の程度なんてわからない。とにかく血は怖い。

 おじいさんは僕の悲鳴にぎょっとした顔をする。その顔は所々泥に汚れ、口の端には泥と血が混じっていた。唇も少し切っているようだ。

 怖がってる場合じゃない、落ち着いて助けないと。

 胸に手を当てて、はーはーと深呼吸する。

「……大丈夫ですか、お父さん、立てますか」

「うン……」

 おじいさんはどうにか自力で立ち上がろうとした。途中で顔をしかめて悔しそうな声を上げる。

「ありゃー、足が駄目じゃ。歩けん」

「そんな、えっと、じゃあ……どうしよう、どうしよう、僕一人じゃ……あ、救急車!」

 思いついてスマホを取り出そうとする。しかし手元に鞄がない。どこに行ったのかと見回すと、少し離れたところに転がっていた。先ほど尻餅をついたときに投げ出していたらしい。

「ちょっと待ってくださいね、すぐに……」

 僕は手についた汚れをスーツで拭って鞄を拾い上げた。鞄も汚れてはいたものの中は無事だ。

「スマホ、スマホ……」

 そのときだった。

「おじいちゃん!」

 大きな声だった。驚いて見ると、小道を走ってくる若い女性がいた。

 おお、とおじいさんも返事をする。よかった、ご家族だ。胸を撫で下ろす。これでとりあえず自分の役目は終わった……。

 しかしその女性は、おじいさんに駆け寄る前に僕を見て急停止した。目を見開いて大きな声を出す。

「何、あんた!」

「え?」

 何を問われたのかと一瞬考え、すぐにパニックになる。この状況、僕が加害者だと疑われている。

「ち、ち、違います、僕は助けようとしただけで、あのあの、きゅ、救急車、今、呼ぼうと――」

 手に持ったスマホを指さして必死に弁明する。

 突然女性が笑い出した。あっはっはと豪快な笑い声だった。

「違うよ、泥だらけだから驚いたの。――おじいちゃん、助けようとしてくれたんでしょ? ありがと。さっきの悲鳴聞こえたよ」

 行っておじいさんのもとに向かう。女性はどこが痛いのかを聞いた後、おじいさんの前に背中を向けてしゃがみこんだ。それにすがりつくおじいさん。

「あ、あ、負ぶうんだったら、僕が……」

 わたわたと駆け寄る僕に、さっさと背負って歩き出した女性が言う。

「いいよ。あんた革靴だし、危ないでしょ。小さいし」

 最後の一言で軽く傷つく。確かに僕は男性としてはかなり小柄だ。対しておじいさんは痩せているけれど長身で、この女性は僕より少し大きいくらいだった。

「ごめん、ついてきてくれる? うち、すぐそこだから」

「あ、はい」

「汚れ、落ちなかったら弁償するよ」

「え? ――あ、いい、いいですよ、別にこんなの。そんなに高いものじゃないし、僕が勝手にやったことだし」

「何でよ。うちのせいじゃない。弁償くらいするよ」

「いいですよ! ほんとに安物なんで、気にしないでください! 気にされると、却って困ります!」

 両手を体の前で振って必死に遠慮する。それを見て女性はまたあっはっはと豪快に笑った。

「いい人だね、あんた」


 ――君は祝福してくれるかな。

 これが、僕と妻との出会いだったんだ。

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