第4節 ピトが見ている
放課後のチャイムが鳴った。
校内放送の短いメロディが終わると同時に、教室の空気が少しだけゆるむ。
椅子を引く音、机を動かす音、部活の話題があちこちで飛び交い始める。
廊下からも、別のクラスの笑い声や、運動部の掛け声が混ざって流れ込んできていた。
志倉凪沙は、自分の席に座ったまま、ゆっくりとペンケースのチャックを閉めた。
今日の授業は、全部終わった。
ただ、すぐに帰る気にはなれなかった。
机の上には、まだノートと教科書が広がっている。
それを見下ろしながら、凪沙は小さく息をついた。
「……世界史、全然頭に入らないな」
自分にだけ聞こえるくらいの声量でつぶやく。
ノートの端には、年号と出来事が並んでいた。
赤ペンで大事なところに線を引いてはいるが、頭の中にはうまく残っていない。
前の席の生徒が立ち上がり、椅子を引く音がした。
「じゃ、部活行ってくる」
「おつかれー」
そんな会話と一緒に、何人かが教室を出ていく。
部活動に入っている生徒は、放課後の行き先が決まっている。
体育館やグラウンドへ向かう足音が、廊下で交差していた。
凪沙は、部活に入っていない。
入ろうと思ったことがまったく無いわけではないが、そこまで強くやりたいこともなかった。
その代わり、放課後はだいたい、少しだけ残ってノートを整理するか、そのまままっすぐ家に帰るかのどちらかだ。
今日は、ノート整理の方を選んだ。
鞄から新しい付箋を取り出し、覚えておきたいところに貼っていく。
ページを一枚めくったとき、教室の窓から風が入った。
カーテンがふわりと揺れ、机の上のプリントが少しだけめくれる。
紙が擦れる小さな音。
風はすぐに弱まり、カーテンも元の位置に戻った。
そのとき。
凪沙の視界の端で、白っぽい、丸い何かが、すっと動いた。
「……ん?」
顔を上げて、そちらを向く。
教室の後ろ側。
窓際と壁のあいだの、狭い通路。
さっき、何かがそこを横切ったように見えた。
白に、少しだけ青が混ざったような、小さな丸いもの。
人ではない。
動物の姿でもない。
ただ、「丸いもの」としか言えない形が、ほんの一瞬、視界の端を通り過ぎた気がした。
だが、視線を向けたときには、そこには誰もいなかった。
窓から差し込む夕方の光と、壁に貼られたポスター。
それから、床の上に落ちている消しゴムがひとつ。
それだけだ。
「……あれ?」
凪沙は、席を立って、その場所まで数歩歩いてみた。
窓際の机と机のあいだは、掃除のときにホコリがたまりやすい。
だから、たまに誰かが掃き掃除をさぼると、埃っぽくなる。
今は、それほど汚れてはいない。
床に落ちているのは、誰かの消しゴムと、小さく丸まった紙くずだけだった。
窓は、少しだけ開いていた。
外の空気が、かすかに流れ込んでくる。
遠くの道路を走る車の音が、薄く聞こえた。
「気のせい……かな」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
もう一度、床を見渡してみる。
白くて丸いものは、どこにもない。
机の下にも、イスの影にも、似たようなものは見当たらなかった。
消しゴムを拾い上げてみる。
それは、よくある市販の消しゴムで、白い四角い形をしている。
さっき見えた「丸いもの」とは、やはり違う。
それを机の上に置き、誰のものかはわからないまま、とりあえず前の方の教師用机の端に移動させた。
そうしているあいだにも、教室からは人が減っていく。
運動部に入っている生徒はほとんど出て行き、教室に残っているのは、自習をする数人と、友達としゃべり続けている数人だけになった。
窓の外の空は、昼よりも少しだけ色が濃くなってきている。
夕方と夜のあいだの、境目の時間。
ネオンも街灯も、まだ本格的には光り始めていない。
ただ、太陽が少しだけ傾いて、影が長く伸びる時間帯だった。
自分の席に戻りながら、凪沙は首を軽く回した。
肩に少しだけ疲れが残っている。
今日は体育もあったし、英語の小テストもあった。
体も頭も、ほどほどに消耗している。
「寝不足かな……」
つぶやいて、自分の頬を指で軽くつまむ。
昨夜は、寝る前にスマホを触りすぎた。
テスト勉強をしないといけないと思いつつ、動画サイトやまとめサイトをだらだらと見てしまい、気づけば寝る時間が遅くなっていた。
その自覚はある。
だから、見間違いくらいあってもおかしくない。
視界の端で何かが動いたように見えたのも、きっとそのせいだろう。
そういう結論にしてしまえば、簡単だった。
机に戻り、ノートの続きを片付ける。
教科書とノートを重ねて、科目ごとにまとめて鞄へ入れていく。
シャープペンの芯が少なくなっていることに気づき、「買わなきゃ」と心の中でメモしておく。
そんなことをしていると、前の方からクラスメイトの声が聞こえた。
「ねえ、まだ残ってるの?」
顔を上げると、クラスの数人が、鞄を持ったままこちらを見ていた。
「ちょっとノートまとめてただけ。もう帰る」
「そっか。あんまり遅くならないようにねー」
「うん」
軽く返事をして、彼らが教室を出て行くのを見送る。
ドアが閉まり、足音が遠ざかる。
さっきまでのざわざわが、少しずつ薄くなっていく。
やがて、教室はほとんど静かになった。
残っているのは、窓の外から入る風の音と、隣の教室から漏れてくる笑い声くらいだ。
廊下の向こうで、部活動の集合を呼びかける声も聞こえる。
そうした音を、ぼんやりと背景として聞きながら、凪沙は最後のページに付箋を貼った。
「よし……」
小さく言って、ペンケースを鞄にしまう。
机の中を覗いて、忘れ物がないかを確認する。
ハンカチ、ティッシュ、前に配られたプリント。
全部入っている。
椅子から立ち上がり、背伸びを一度。
肩のあたりのこわばりが、少しだけほぐれる。
その瞬間、また、視界の端で何かが動いた。
今度は、机の上の方。
教科書の上を、白くて丸いものがすっと横切ったように見えた。
「……っ」
素早く顔を向ける。
だが、そこには何もない。
教科書の表紙と、消しゴムと、ボールペン。
さっきの付箋。
それから、自分の筆記の跡しかない。
白いものの痕跡すら見当たらない。
「さすがに、今のは見間違いじゃない気がするんだけど」
そうは思うが、証拠は何も残っていない。
写真を撮るほどの余裕も、そもそもそんな発想も、今はない。
ただ、「二回続けて」という事実だけが、頭の片隅に引っかかった。
床と机。
二度とも、「白っぽい丸いもの」が動いた気がした。
でも、そのもの自体は確認できていない。
猫や犬なら、鳴き声や足音がする。
人なら、気配がもっとはっきり伝わってくる。
今のそれは、そういうものとは少し違っていた。
音もなく、気配も薄く、ただ「通り過ぎた感じ」だけが残る。
「……疲れてるだけ」
自分で自分にそう言い聞かせる。
それ以上深く考えると、帰るタイミングを逃しそうだった。
時計を見る。
短針と長針の位置からすると、そろそろ下校時間が近い。
あまり遅くなると、先生に声をかけられる。
そうなる前に、教室を出る方がいい。
鞄の肩ひもを手にかけながら、窓の方に視線を向けた。
外の空は、少し赤みが混ざり始めている。
校庭では、運動部の生徒たちが走っていた。
掛け声と、ボールの跳ねる音。
夕方の運動部の音は、どこの学校でもだいたい同じだ。
それを一瞬だけ眺めてから、窓の鍵を閉める。
自分の席の周りをもう一度見渡し、忘れ物がないことを確認する。
そして、教室の扉へ歩き出した。
その背中の、少し後ろ。
さっきまで机の上で動いた「白っぽくて丸いもの」は、音も立てずにその後をついていった。
その存在に、凪沙はまだ気づいていない。
ドアノブに手をかけ、教室を出る。
廊下は、夕方の光でうっすらと明るい。
西側の窓から差し込む光が床に長く伸び、ところどころに人影を作っていた。
その足元を、白と群青が混ざった小さな丸い影が、ゆっくりと横切っていく。
だが、その影もまた、誰の目にも止まらなかった。
廊下を歩く足音が、一定のリズムで続いていく。
志倉凪沙は、鞄を肩にかけて、いつもの下校ルートをたどっていた。
教室から階段までは、何度も通った道だ。
壁には、文化祭のポスターや、部活動の勧誘チラシがまだ貼ってある。
季節外れになりかけているものもあるが、そのままになっている。
階段を下りるとき、足元の段差を一段ずつ確認する。
今日はそれほど急いでいない。
転びそうになるほど走る理由もない。
だから、一歩ずつ、落ち着いて降りていく。
その数歩あとを、白と群青が混ざった小さな丸いものが、ふわりとついて下りていた。
手すりにも、壁にも触れない。
重さがないのか、足音もまったくしない。
ただ、凪沙の後ろから、常に同じ距離を保つように位置を変えながら動いている。
その存在に気づく者は、誰もいない。
上の階から降りてきた生徒が、凪沙の横をすれ違っていく。
「バイバーイ」
「また明日ー」
そんな声が飛び交う中でも、白い丸いものはぶつかることなく、すっと流れるように避けていた。
相手の動きを見ているかのように、位置を少しだけ変える。
それでも、顔つきや表情というものはない。
二つの小さな光の点が、丸い本体の中に浮いているだけだ。
それが、何を考えているのかは、外からは分からない。
昇降口に着くと、靴箱の前に人が少しだけ残っていた。
上履きからローファーに履き替えている生徒たち。
部活用のシューズに履き替える生徒もいる。
靴箱を開ける金属音や、床に靴が当たる音が、昇降口の中で反響していた。
凪沙は、自分の番号が書かれた靴箱の前まで行く。
扉を開けると、中にはいつものローファーが、きちんと揃えて置いてあった。
それを取り出し、しゃがんで上履きを脱ぐ。
靴下に少しほこりが付いているのが気になって、指で払う。
その一連の動作も、いつも通りだった。
上履きを靴箱に入れ、ローファーに足を通す。
立ち上がって、かかとをトントンと床に合わせた。
そのすぐ横で、白い丸いものが、靴箱の列の上をすーっと移動していく。
靴箱の上板から、ほんの少しだけ浮いている。
人間の肩の高さくらいの位置だ。
他の生徒が、ローファーを取り出して扉を勢いよく閉めても、その動きに巻き込まれることはない。
扉が通り過ぎる直前に、わずかに位置をずらして避けている。
触れそうで、触れない距離。
誰かの肩がぶつかりそうになれば、その瞬間にはすでに別の位置へ移動している。
昇降口のガラス戸を開けると、外の空気が正面から入ってきた。
少しひんやりしているが、冷え込むほどではない。
夕方のにおいが混ざった風が、前髪を揺らす。
校舎を出ると、校門までの道がまっすぐ伸びていた。
両側には、低い植え込み。
その向こうに、自転車置き場がある。
自転車で通っている生徒たちは、もう何人かが帰っていったあとらしく、空いているスペースが目立っていた。
凪沙は徒歩通学だ。
だから、自転車置き場には寄らず、まっすぐ校門の方へ歩いていく。
足元のアスファルトは、日中に受けた熱を少しだけ残している。
それでも、昼ほど暑くはない。
日差しは弱まり始めており、照り返しも少ない。
門の近くで、どこかの部活の顧問が、生徒に声をかけているのが見えた。
「忘れ物ないか、ちゃんと確認して帰れよー」
「はーい」
そういうやり取りを横目で見ながら、凪沙は校門を抜けた。
学校の敷地を出ると、すぐに住宅街が始まる。
近くのコンビニや、小さな公園。
電柱には、地域のお知らせの紙が貼られている。
歩道を歩く人の数は、それほど多くない。
仕事帰りの大人には、まだ少し時間が早い。
小学生たちは、もうほとんど家に帰っている。
通学路を歩いているのは、同じ高校の生徒か、近くの中学校の生徒くらいだった。
信号のある交差点に近づくと、車の音が少しだけ大きくなった。
昼間よりは少ないが、途切れることはない。
赤信号のタイミングで、凪沙は横断歩道の手前で立ち止まった。
白線のすぐ前で、鞄を持ち直し、何気なく空を見上げる。
夕方の空は、まだあまり色が変わっていない。
西の方がほんの少しだけ明るい。
その向こうで、遠くの方にうっすらと、灰色の煙が立ち上っているのが見えた。
「……また、どこかで火事?」
小さな声でつぶやく。
学校の近くではない。
もっと遠く。
駅の向こうか、そのまた向こうあたり。
煙の位置ははっきりしない。
昨日のニュースで、「火災」の話を聞いたことを思い出す。
ただ、そのときも、場所や詳細にはあまり興味を持たなかった。
自分の生活に直接関係があるわけではないと、無意識のうちに判断していた。
今日のこの煙も、同じようなものだろうと感じる。
自分の家や学校が燃えているわけではない。
だから、「大変だ」と強く思うところまではいかない。
同時に、「誰かが大変なことになっているのかもしれない」という感覚も、うっすらと胸の中に残る。
ニュースの中の出来事と、自分の生活の境界は、いつも曖昧だ。
空を見上げる凪沙の肩の少し上。
白と群青の丸いものが、静かに浮かんでいた。
その二つの小さな光の点は、遠くの煙の方角を見ているようにも見える。
だが、その視線が、何を意識しているのかは、やはり外からは分からない。
横断歩道の信号が、青に変わった。
電子音が鳴り始め、渡っていいことを知らせる。
凪沙は、意識を空から足元に戻し、歩き出した。
車が止まり、人が歩き出す。
その流れの中で、白い丸いものも、一緒に横断歩道を渡っていく。
歩行者用信号のポールや、車のボディには触れない。
あくまで、人の少し上、体から半歩離れた位置を進む。
誰も、その存在を視界にとらえない。
誰かと肩がぶつかることもない。
道路を渡り終えると、また住宅街の道に戻る。
コンビニの前を通り過ぎるとき、凪沙は少しだけ足を止めた。
自動ドアが開閉する音と、店内のBGMが外まで漏れてくる。
レジ付近には、雑誌とお菓子が並んでいるのが見えた。
ドリンクコーナーのところには、ペットボトルのお茶やジュースがぎっしりと並んでいる。
「……寄ってく?」
自分に問いかけるような声。
喉が乾いていないわけではない。
でも、今すぐ何かを買うほどでもない。
財布の中身を思い出して、今日の小遣いの残りを計算する。
明日、友達とコンビニに寄る約束があることを思い出し、「今日はやめとこう」と心の中で決めた。
「やっぱ、いいや」
そう言って、コンビニの前を通り過ぎる。
自動ドアが開く感触だけを背中に受けながら、足を前に運んだ。
コンビニの看板の上。
白い丸いものが、看板と同じ高さまで一瞬上昇し、すぐにまた凪沙の横あたりの高さまで降りてくる。
コンビニの中で買い物をしている客たちは、その上下の動きにまったく反応しない。
視線はスマホか商品に向いている。
歩道を少し歩くと、小さな公園が見えてきた。
ブランコと滑り台がひとつずつ。
砂場は、遊ぶ子どもがいないときは、ただの四角い枠にしか見えない。
今は、数人の子どもたちが遊んでいる。
保護者らしき大人がベンチに座り、見守っている。
凪沙は、公園の前を通り過ぎる。
ブランコの揺れる音が、かすかに耳に届いた。
その音を聞きながら、なんとなく空を見上げる。
さっき見た煙は、少しだけ形が変わっていた。
広がりながら、薄くなっている。
もう数分もしたら、夕方の光の中に紛れてしまうだろう。
「最近、変な夢見るんだよね」
公園の前を通り過ぎながら、ふいに、そんな言葉が口から出た。
誰かに向けたわけではない。
ただ、頭の中に残っている感覚が、言葉になっただけだ。
隣を歩いている人はいない。
いるのは、歩道と道路と、公園と、自分だけだ。
それなのに、なぜか声に出してしまった。
夢の内容を思い出そうとする。
明確な形は、あまり残っていない。
ただ、「知らない場所」という印象だけがある。
どこかの建物の屋上のような、高い場所。
周りには、見たことのないラインや記号が光っている。
誰かが呼ぶような声も、うっすらと聞こえた気がする。
けれど、その声が何を言っていたのかまでは思い出せない。
目を覚ましたあとには、いつも「変な夢を見た」という感覚だけが残る。
胸のあたりに、言葉にしづらい重さが少しだけ残る。
それでいて、「怖かった」というほどでもない。
ただ、「落ち着かない」という感じだ。
「……ちゃんと寝てないだけかな」
自分で自分にそう言って、納得させようとする。
夜更かししてスマホを触っていれば、変な夢を見るくらいは普通だ。
そう思い込めば、夢と現実をわざわざつなげる必要はない。
公園の入口の少し上。
白と群青の丸いものが、凪沙の少し前に回り込んでいた。
今度は、凪沙の顔の高さより少し上。
距離は、手を伸ばせばぎりぎり届くかどうかというくらい。
二つの小さな光の点が、まっすぐ凪沙の方を向いている。
それでも、凪沙の瞳は、その存在を捉えない。
彼女の視線は、少し先の信号や、コンビニの看板や、公園の遊具の方へ向いている。
その横で、白い丸いものは、ごく短い間だけ静止した。
そして、小さな声で、ひとことだけつぶやいた。
「……間もなく、ですね」
かすかに震えるくらいの、低い音量。
人間の耳には届かない。
歩道を歩く誰一人として、その声を聞き取ることはできなかった。
凪沙も、もちろんその例外ではない。
彼女の耳に届いたのは、車の走る音と、信号機の電子音と、公園の子どもの声だけだ。
家の近くの角を曲がる。
見慣れたマンションと、一軒家。
同じ時間帯に散歩をしている犬と、その飼い主。
ここまで来ると、「帰ってきた」という感覚が少し強くなる。
学校からの距離が、それをはっきりと区切っている。
鞄の重さが、少しだけ意識に戻ってきた。
「……今日、宿題あったっけ」
そう言いながら、今日の時間割を頭の中でなぞる。
数学は、小テストの復習。
英語は、ワークの続き。
世界史は、次回までにプリントの空欄を埋めてくることになっていた。
「やらなきゃ、か」
ため息までは出さない。
ただ、声だけでそう言って、足を前に出す。
家の門の前に立つと、ポストにチラシが差し込まれているのが見えた。
不動産と、宅配ピザの広告。
どちらも、よく入っているものだ。
ポストからチラシを引き抜き、ドアの前に立つ。
鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
金属の小さな音がして、ドアのロックが外れた。
取っ手を回し、ドアを開ける。
「ただいま」
家の中に向かって、いつもの言葉をかける。
返事が返ってくるかどうかは、その日によって違う。
今日の返事は、このあと描かれる。
ドアが開いた瞬間、白と群青の丸いものは、玄関の上の方で動きを止めた。
家の中には入らない。
玄関ドアの外側の、上枠ぎりぎりの位置に留まる。
中と外の境目を、じっと見ているように見える。
凪沙が靴を脱いで家の中に入ると、その姿は玄関のドアの向こうに隠れた。
ドアが閉まる音がしたあとも、白い丸いものは、その場から離れなかった。
しばらくのあいだ、玄関の上で静止を続ける。
そして、家の外側の空気が少し変わったことを確認するように、わずかに位置をずらした。
近くの電線の高さまで上がり、住宅街を見渡す。
夕方の光が、家々の屋根の上に乗っている。
遠くの方では、さっきの煙がほとんど見えなくなっていた。
街灯がひとつ、またひとつと点き始める。
その光を上から見下ろしながら、白と群青の丸いもの──ピトは、ゆっくりと姿勢を変えた。
凪沙の家の上空に、少しだけ長く留まる。
まるで、地図の上に印をつけるように、そこを確かめているかのようだった。
それが終わると、ピトは再び、家のすぐ上の低い位置まで降りてきた。
そして、ほとんど音のない動きで、玄関ドアの横の空間に、そっと身を寄せるように浮かんだ。
中から、食器の触れ合う音や、誰かの話し声がかすかに漏れてくる。
その音を、ピトはただ静かに聞いていた。
声の内容に反応することもない。
表情を変えることもない。
ただ、「ここにいる」という事実だけを保ったまま、凪沙の帰宅後の時間を、見守るようにそこに留まっていた。
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