第3節 志倉凪沙、今日も普通に遅刻しそう
目覚ましの電子音が、狭い部屋の中で単調に鳴り続けていた。
枕元のスマホが小刻みに震え、その横で、布団の塊がもぞもぞと動く。
「……ん」
布団の端から、細い指先がのびてきて、画面を適当にスワイプした。
アラーム音が止まり、代わりにニュースアプリの通知が小さく表示される。
志倉凪沙は、片目だけうっすら開けて、それをなんとなく眺めた。
そこには「昨夜 湾岸部で大規模火災」だとか、「原因は調査中」だとか、物々しい文字が並んでいる。
「……ふーん」
声に出してみたものの、意味が頭に入っているわけではない。
火事のニュースなんて、毎日どこかでやっている。
そう思った瞬間、まぶたがまた落ちかけた。
だが、布団の外から聞こえてきた別の音が、そのままの二度寝を許さない。
「凪沙ー。起きてるー?」
ドア越しの母親の声と、キッチンから聞こえるフライパンの油の音。
「……起きてるー」
かろうじてそう返事をしてから、凪沙は、ようやく布団を頭の上まで押しのけた。
薄いカーテンの向こうで、朝の光がぼんやりと広がっている。
天井を一度だけ見つめて、大きく息を吐く。
「……はぁ」
そこまでしてから、ようやく上半身を起こした。
髪は寝癖であちこちに跳ねている。
自分でも分かるくらい、見事な跳ね方だった。
「これ直すの、めんどくさいな……」
小さくつぶやきながら、足を布団から出す。
床に足裏が触れると、ひんやりした感触が上がってきて、そこでやっと完全に目が覚めた気がした。
部屋は六畳のフローリング。
ベッドと小さな勉強机と、安いチェストで、ほとんど床が埋まっている。
制服のハンガーは、ドア横のフックに掛けっぱなしだ。
スマホを手に取って時間を確認する。
画面の数字を見て、凪沙は一瞬だけ固まった。
「……あ」
そこから、動きが一段階早くなる。
布団から飛び出す、というほど派手ではないが、さっきまでのスローモーションとは明らかに違う速さで、クローゼットの扉を開けた。
制服のブラウスを引っ張り出し、スカートを腕に抱える。
ついでに、昨日の夜に脱ぎ捨てたジャージを、足元でひとまとめにして蹴ってどかした。
「やっぱり今日も、ギリギリかな……」
独り言をこぼしながら、寝間着のTシャツを脱ぎかけたところで、ドアがノックされる。
「凪沙ー? ご飯、冷めるよー」
「今着替えてるー!」
「あ、ごめん。じゃあ早く降りてきてー」
母親の声が遠ざかっていく。
凪沙は「はいはい」と小さく返事をしながら、急いで制服に着替えた。
ボタンを留め、スカートの位置を直し、鏡の前で軽く見た目を確認する。
寝癖はまだ完全には治っていない。
だが、ブラシを通しても、跳ねているところは素直には収まらない。
「……もうこれでいいや」
彼女は、髪の毛の一番目立つ跳ねだけをピンで留めて妥協した。
完璧にしたいほどのこだわりはない。
ただ、人に見られて明らかに変だと思われなければ、それでいい。
スマホをポケットに突っ込み、学生鞄を片手に持つ。
ドアノブに手をかける前に、机の上の充電ケーブルに繋がれたままのイヤホンケースを見つけた。
「あ、忘れるところだった」
イヤホンケースもポケットに押し込み、そのまま部屋を出る。
階段をとん、とん、と下りると、すぐにキッチンにつながる。
志倉家は、小さな二階建ての一軒家だ。
一階にリビングとキッチン。
二階に、凪沙の部屋と、母親の部屋がある。
父親は単身赴任で、普段はいない。
朝のリビングには、テレビのニュースと、トースターの鳴る音が混ざっていた。
「おはよう」
顔を出した凪沙に、キッチンに立っていた母親が振り向く。
「おはよ。起きたなら早く座って。もうパン冷めちゃうから」
「今起きたところだよ」
「知ってる」
母親は笑いながら、皿をテーブルに置いた。
トーストとサラダ、それからスクランブルエッグ。
ワンプレートの、よくある朝ごはん。
テーブルの上には、すでに牛乳の入ったコップが置かれている。
テレビの音量は少し大きめだ。
『――昨夜、湾岸部の地下施設で大規模な火災が発生しました。』
画面の中で、アナウンサーが淡々と読み上げている。
黒い煙が立ち上る映像と、消防車の赤いランプが映っている。
『施設の運営会社は、医療関連企業のグループ会社とされていますが、詳細な業務内容については明らかにされていません――』
「また火事だって」
母親が、テレビをちらっと見ながら言った。
「最近多いねぇ、こういうの」
「ふーん」
凪沙は短く返事をしながら、トーストにマーガリンを塗る。
画面の中の施設が、本当はどんな場所なのかは分からない。
アナウンサーが何か言っているが、言葉の一つ一つまでは追いかけていない。
火事があった。
どこか、よく知らない場所で。
それだけだった。
「湾岸って、結構遠いよね」
「そうね。こっちには関係ないわよ」
「だよね」
凪沙は、マーガリンを塗り終えたトーストにかじりついた。
ほどよく焼けたパンの香りが、口の中に広がる。
スクランブルエッグをフォークでひと口だけすくう。
テレビのテロップが、「けが人の有無は調査中」と流しているのが視界の端に入ったが、そこまで目を止めることはない。
代わりに、テーブルの端に置いたスマホが気になった。
画面をスワイプして、ロックを解除する。
通知はほとんど来ていない。
クラスのグループチャットには、昨夜のうちのスタンプが一つ増えているだけだ。
誰かが、適当なスタンプを押したのだろう。
そこから話が広がっているわけでもない。
「……まあ、いつもこんなもんか」
小さく息を吐いて、スマホを裏返した。
別に、それが寂しいというわけではない。
もともと、そういうものだと思っている。
友達がまったくいないわけではない。
話しかけられれば、普通に話す。
でも、常に誰かと繋がっていたいタイプでもない。
だから、この静けさは、案外ちょうどいいくらいだった。
「今日、何時からだっけ。1時間目から体育?」
母親が、冷蔵庫から自分の水筒を取り出しながら聞いてきた。
「ううん、1時間目は現代文。体育は3時間目」
「じゃあ、あんまり遅刻すると怒られるわよ」
「そうなんだよねぇ」
凪沙は、トーストを食べ終えながら、曖昧に相づちを打つ。
現代文の先生は、出欠にわりと厳しい。
もう一度スマホを手に取って、時刻を確認する。
数字を見た瞬間、フォークを持つ手がわずかに止まった。
「あ、やば」
「何?」
「電車、一本逃してた」
凪沙は立ち上がり、急いで皿を流しに運ぶ。
「全部食べた?」
「食べた食べた。ごちそうさま」
「ほんとに? スクランブルエッグ残ってない?」
「ちゃんと食べたって」
シンクの上に皿を置き、手を軽く洗う。
タオルで拭きながら、心の中で電車の時刻を計算する。
一本逃した。
次の電車だと、学校に着くのが始業ギリギリになる。
途中で何かあれば、普通に遅刻だ。
「……まあ、走ればなんとかなるか」
自分に言い聞かせるように、凪沙はつぶやいた。
「凪沙、体操着持った?」
母親の声が背中から飛んでくる。
「持ったー。……あ、やば。まだ部屋」
「ほらー」
「今取ってくる!」
凪沙は、タオルを元の位置に戻すと、そのまま二階へ駆け上がった。
階段を上がる足音が二、三段分だけ乱れる。
部屋に飛び込んで、机の横に置いてあったサブバッグをつかんだ。
その中には、昨日のうちに放り込んだ体操着と上履きが入っている。
サブバッグの持ち手を腕に引っかけ、部屋を見回す。
他に忘れ物がないか、一瞬だけ確認する。
教科書は、昨夜のうちに鞄に入れてある。
筆箱も、ちゃんと鞄の中だ。
窓のカーテンは閉めた。
電気も消した。
「よし」
小さく頷いて、もう一度階段を駆け下りる。
「ちゃんと体操着持った?」
リビングに顔を出した瞬間、母親が確認してくる。
「持った持った」
「じゃあ、鍵忘れないでよ」
「分かってるって」
玄関に向かいながら、壁に掛けてあるキーフックから家の鍵をつかむ。
ポケットに入れようとして、一度スマホとぶつかった。
「……あ」
ポケットの中身を全部出して、順番を入れ替える。
スマホを内側のポケット、鍵を外側のポケット。
イヤホンケースは鞄の中に移した。
自分なりに決めている「定位置」に戻さないと、後でどこに行ったか分からなくなる。
靴箱の上には、小さな鏡が立てかけられている。
その前に立って、もう一度だけ前髪を直した。
寝癖を押さえこもうと、手ぐしでなでる。
やはり完全には収まらない。
「……まあ、これ以上はいいや」
あきらめるのも、いつものことだった。
ローファーを足元に引き寄せる。
片足ずつ突っ込んで、かかとを鳴らしながらしっかり履く。
鞄とサブバッグを持ち直し、ドアノブに手をかける。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。走るなら、ちゃんと前見てねー」
「分かってるー」
玄関のドアを開けると、ひんやりとした朝の空気が一気に流れ込んできた。
空は、少しだけ雲が多い。
雨が降るほどではないが、教科書の入った鞄の重さが、なんとなくいつもより心配になる。
そんなことを一瞬だけ思ってから、凪沙は玄関の段差を軽く飛び降りた。
門扉を片手で押し開ける。
通学路の方から、同じ制服の背中が二つ三つ見えた。
みんな、普通のスピードで歩いている。
その中で、志倉凪沙だけが、やや速足だった。
小走りとまではいかないが、明らかに急いでいる。
それでも、スマホで音楽を流すほどの余裕はある。
ポケットの中のイヤホンケースに、指が一瞬触れたが、取り出すのはやめた。
今つけたら、確実に駅まで走らなくなる。
「……やっぱり今日は、走る日だな」
小さく息をつきながら、角を曲がる。
いつもと同じ家。
いつもと同じ道。
いつもと同じ朝の空気。
その中で、志倉凪沙は、今日もやっぱり、普通に遅刻しそうなペースで学校へ向かっていた。
駅のホームには、同じ制服の高校生と、スーツ姿の大人たちが入り混じって並んでいた。
埋まっているのは、いつもの電車の、いつもの乗車位置。
志倉凪沙は、息を少しだけ切らしながら、その列の端に滑り込んだ。
「……間に合った」
声には出さず、胸の中だけでそうつぶやく。
ホームのスピーカーからは、電車到着のアナウンスが流れていた。
風がふっと巻き起こり、トンネルの奥からライトが近づいてくる。
やがて、銀色の車体がホームに滑り込んだ。
ドアが開くと、先に乗っていた人たちが一斉に降りてくる。
それが途切れたところを見計らって、凪沙も流れに合わせて乗り込んだ。
車内は、それなりに混んでいる。
ぎゅうぎゅう詰めというほどではないが、わざわざ座席を探す余裕はない。
つり革に手を伸ばし、空いていた一本をつかんだ。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れ始めた。
隣には、同じ学校の制服を着たクラスメイトが一人立っていた。
顔見知りだが、特別に仲が良いわけでもない。
向こうも同じように認識しているらしく、軽く目が合ったところで、控えめに会釈だけが交わされる。
「おはよ」
「おはよう」
それ以上、言葉は続かない。
それが気まずいというほどでもない。
朝の電車で、大きな声を出すほど元気なタイプでは、少なくとも凪沙はなかった。
吊り広告には、予備校の広告や、新しい飲料のポスターが並んでいる。
そのひとつに、「期末テスト対策は計画的に」と大きく書かれているのが、目に入る。
そこから、自然と今日の時間割のことを考えた。
(今日は現代文、数学、体育、世界史、英語か……)
現代文はまだいい。
先生が厳しいのは出席だけで、授業そのものは聞いていれば何とかなる。
問題は、世界史と英語だった。
世界史は、年号がごちゃごちゃしていて、覚えたつもりでも抜ける。
英語は、単語テストが突然入ることがある。
ついこの前も、小テストがあると聞いていたのに、前日うっかり勉強をさぼって、悲惨な点を取ったばかりだった。
「……今日はないよね、さすがに」
つい、小さく口の中でこぼしてしまう。
隣のクラスメイトが、何か言ったかと一瞬こちらを見たが、凪沙が特に続けないのを確認すると、また前を向いた。
電車が大きく揺れる。
吊り革をつかむ手に力が入る。
窓の外、遠くの方に、うっすらと灰色の煙のようなものが見えた気がした。
工場地帯の方角だろうか。
一瞬だけそちらに視線を向けたが、すぐに建物の影に隠れて分からなくなった。
「……まあ、関係ないか」
そう思って、視線を車内に戻す。
数駅ほど、何事もなく時間が過ぎていった。
到着駅のアナウンスが流れる。
凪沙は、つり革から手を離し、ドアの方へじわじわと移動した。
電車が止まり、ドアが開く。
人の流れに押されるようにしてホームに降り立ち、そのまま改札へと向かった。
駅から学校までは、歩いて十五分ほどだ。
大通りから一本入った商店街を抜け、坂を上る。
途中には、小さな公園と、古い本屋、コンビニが一軒ずつ並んでいる。
同じ制服の生徒たちが、何人も同じ方向へ歩いていた。
「おはよー」
「おはようございます」
前を歩く別のクラスの生徒同士が、元気に挨拶を交わしている。
その横を、凪沙も歩く。
あまり大きな声で挨拶するタイプではないが、目が合えば軽く会釈を返す。
学校の校門が見えてきた。
石造りの門柱に、校名が刻まれている。
正門の横を、教師らしきスーツ姿が通り過ぎていった。
門をくぐると、校舎までの短い並木道になっている。
まだ朝なので、人の流れは集中している。
昇降口に入ると、靴箱がずらりと並んでいた。
自分の番号の棚の前で立ち止まり、ローファーを脱いで上履きに履き替える。
ローファーを押し込んだとき、つま先で何かを蹴った感触があった。
靴箱の奥に、誰かのプリントが丸まって落ちている。
「……こういうの、拾うか迷うんだよね」
そう思いつつも、しゃがんでそれをつまみ上げた。
見れば、体育祭のお知らせの紙だ。
もうとっくに終わった行事のものなので、とくに必要な人もいないだろう。
近くのゴミ箱にそっと捨ててから、上履きで廊下に出る。
教室のある階までは、階段を上がらなければならない。
一段飛ばしにするほど元気はない。
ふつうのペースで、足を運んでいく。
自分のクラスの教室にたどり着いたときには、まだチャイムまでもう少し余裕があった。
教室のドアを開けると、すでに半分くらいの席が埋まっている。
窓側の席では、誰かが机に突っ伏して寝ていた。
前の方では、真面目そうな生徒がノートを開いて何かを書いている。
教室のざわざわした空気。
それは、どこにでもある、いつもの朝の風景だった。
凪沙の席は、真ん中よりやや後ろ。
窓から二列目の、出入り口にも黒板にも近すぎず、遠すぎない位置。
鞄を机の横にかけ、イスに腰を下ろす。
机の中に教科書を押し込みながら、ちらりと窓の外を見た。
校舎の向こう側の空は、一見いつも通りだ。
ただ、遠くの方で、ほんの少しだけ色が濃い場所があるような気がした。
それがさっき電車の窓から見えた煙と同じものかどうか、そこまで考えはしない。
考えたところで、自分にはどうしようもない。
それよりも、今日の授業の方が、今は大事だった。
「おはよー、志倉さん」
後ろから、クラスメイトの声がかかった。
振り向くと、同じ女子生徒が、教科書の入った鞄を肩から下ろしながら笑っている。
「おはよう」
「今日さ、小テストあるんだっけ? 英語」
「……え」
不意打ちの言葉に、凪沙の表情が固まる。
「聞いてない?」
「先週の授業で、先生言ってたよ。単語プリントの二枚目までって」
「……そんな気もする」
先週の金曜日の、英語の授業。
先生がプリントを配りながら、「来週ここから小テストやります」と、たしかに言っていたような気がする。
ただ、そのときは、放課後の予定のことで頭がいっぱいで、ちゃんと聞いていなかった。
プリント自体は鞄の中にある。
だが、昨夜、机に広げて単語を確認した記憶は、残念ながらほとんどない。
「やば……」
思わず小さな声が漏れた。
クラスメイトは、苦笑いを浮かべる。
「だよねー。私も半分くらいしか覚えてない」
「半分覚えてるなら、十分じゃない?」
「そうかなぁ。先生、妙に細かいところ出すからなぁ」
そんな会話をしているうちに、ホームルーム前の時間が、いつも通り過ぎていく。
教室前方のモニターが、自動的にニュース番組の録画を流し始めた。
朝の情報番組の、短いダイジェストだ。
『――続いてのニュースです。昨夜、湾岸部にある大手企業ネブラグループの関連施設で、大規模な火災が発生しました』
アナウンサーの声が、教室全体に流れる。
数人の生徒が、「ネブラ?」と小さく反応した。
ネブラグループの名前は、有名だった。
医療だとか、エネルギーだとか、ニュースでたまに見かける会社の名前。
ただ、どこまで何をしている会社なのか、具体的に言える生徒は、そう多くない。
『施設は、医療技術やエネルギー関連の研究を行っていたとされていますが、詳しい内容は公表されておらず――』
映し出されている映像には、夜の暗い景色の中で、炎と煙が上がっている様子が映っていた。
消防隊員らしき人影が、小さく動いている。
画面の端には「原因は調査中」とテロップが出ていた。
「ネブラって、すごい会社なんでしょ?」
「知らないけど、なんかCMとかやってなかった?」
「医療とゲームと、なんか色々やってるとこじゃなかったっけ?」
教室のあちこちから、そんな会話が聞こえてくる。
凪沙は、モニターを一度見てから、すぐに視線をノートに落とした。
ネブラグループ。
名前だけ知っている。
でも、それ以上の情報は、頭の中にはない。
昨夜火災があったという施設が、自分たちの生活にどう関わっているのかも分からない。
分からないことを、今ここで深く考える必要はない。
それよりも、今日の英単語テストの方が、よほど現実的な問題だった。
机の中から、例の単語プリントを引っ張り出す。
折れ曲がった端を伸ばしながら、一番上の単語を目で追った。
スペルと意味を確認する。
ページの端に、シャープペンで小さく日本語を書き込む。
その作業に集中しようとしたところで、視線を感じた。
何となく、後ろから見られているような気がした。
教室の後ろの方。
黒板側とは反対の壁際。
そちらの方から、じっと見られているような。
そんな感覚が、ほんの一瞬だけ背中を走った。
だが、振り返っても、特別に誰かと目が合うわけではない。
周りの生徒たちは、それぞれ友達と喋っていたり、スマホを見ていたり、プリントを広げていたりする。
その中の誰もが、わざわざ凪沙だけを見ている様子はなかった。
「……気のせいかな」
声には出さず、心の中でそうつぶやく。
単に、さっきのニュース映像で、少し神経が敏感になっているだけかもしれない。
火事の映像。
炎と煙。
同じニュースが、さっき家のテレビでも流れていた。
頭の中のどこかで、それが重なって揺れている感じがした。
だが、それも、ページをめくっているうちに、徐々に薄れていった。
単語プリントの二枚目の、真ん中あたり。
スペルの長い単語が並んでいるあたりで、チャイムが鳴った。
ホームルームの時間を告げる、いつもの音。
生徒たちのざわめきが少しだけおさまり、担任が教室に入ってくる。
「おはよう。席についてー」
いつも通りの、眠そうな声。
だが、その後に続いた一言だけが、いつもと少し違っていた。
「今朝ニュースで見たと思うけど、湾岸の方で大きな火事があったからね。通学路が近い人は、念のため注意しておくように」
凪沙のクラスには、湾岸方面から通っている生徒はほとんどいない。
そのためか、「はーい」と返事をする声もどこか他人事だった。
出席確認が始まり、ホームルームはあっさりと終わる。
そして、最初の授業、現代文が始まる。
国語の先生が教室に入り、教科書を開かせる。
黒板に、今日の範囲が書かれていく。
凪沙も、指示されたページをめくった。
ここからは、本当にいつも通りだった。
文章を読み、先生が指名する。
誰かが立ち上がって、本文を読み上げる。
たまに眠そうにしている生徒が先生に注意され、笑いが少しだけ起こる。
そういう小さな出来事が積み重なって、午前中の時間は流れていった。
問題の英語の小テストは、三時間目に行われた。
プリントが配られ、制限時間が告げられる。
単語の日本語訳を書きなさい、というシンプルな内容だ。
覚えていたつもりの単語もあれば、完全に記憶から抜けていたものもある。
凪沙は、分かるところを先に埋め、どうしても思い出せない部分には、曖昧な意味をとりあえず書き込んだ。
(まあ、前回よりはマシ……だといいな)
そんなことを思いながら、プリントを前に出す。
テストが終われば、あっという間に昼休みだ。
チャイムが鳴ると同時に、教室が一気に賑やかになる。
弁当箱のふたを開ける音。
コンビニの袋を破る音。
机をくっつける椅子のきしむ音。
凪沙も、鞄から弁当箱を取り出した。
母親が毎朝作ってくれる、いつもの弁当だ。
卵焼きと、冷凍食品の唐揚げ。
それから、昨夜の夕飯の残りのきんぴらごぼう。
おかずのラインナップは、だいたい固定されている。
それでも、開けたときの匂いに、少しだけ安心する。
「志倉さん、今日のニュース見た?」
近くの席のクラスメイトが、弁当を持ったまま話しかけてきた。
「朝の?」
「うん。ネブラの火事のやつ」
「あー……流れてたね」
「何やってる施設なんだろうね、あれ。なんか怖くない?」
「どうなんだろ。ニュースだと、あんまり詳しく言ってなかったけど」
「なんかさ、ああいう“研究施設”って聞くと、色々想像しない?」
クラスメイトは、ちょっとだけ楽しそうな顔をしていた。
ホラー話をするときの、あの雰囲気だ。
「危ない薬品とか、変なウイルスとか、そういうの扱ってそうっていうかさ」
「映画じゃないんだから」
凪沙は苦笑して返す。
「まあ、確かに何してるか分からないと、ちょっと怖いけど」
「でしょ? もしさ、あれがもっとこっちの方で爆発とかしてたら、学校休みになってたかなって思って」
「そっちが本音でしょ」
「ばれた?」
そんな他愛もない会話をしながら、昼ごはんは進んでいく。
ネブラの火事の話題も、数分もすれば別の話題に変わる。
テストの手応えの話だったり、週末の予定だったり、新しくできたスイーツ店の話だったり。
教室の空気は、どこまでも日常だった。
ニュース映像の中で燃えている施設と、この教室の空気との間に、何か太い線が引かれることはない。
志倉凪沙にとっても、それは同じだった。
彼女の頭の中の「今日」の中心にあるのは、ネブラでも、火事でもない。
英語の小テストの結果と、体育で走らされる距離と、帰りにコンビニで何を買うか、そういったことだった。
ただ、昼休みが終わりに近づき、再び席に戻ったとき。
窓の外から感じる風の匂いが、ほんの少しだけ違うような気がした。
焦げたような、鉄のような。
そういうものを連想させる、わずかな変化。
だが、それも、はっきりとは分からない程度のものだった。
「……気のせいだよね」
小さくつぶやいて窓を閉めると、教室のざわめきが、またいつもの音量で彼女の耳を満たした。
その日常の音の中に、昨夜の火災の続きも、これから始まる何かの前触れも、まだはっきりとした形では混ざり込んではいなかった。
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