【外伝】白と黒の境界線〜始まりの黒〜

霜弐谷鴇

妖を”識った”日

 どうしてこんなことになってしまったのか。


 なにを間違った? どうしたらこの状況を回避出来た?


 そんな無意味な質問を頭の中で浮かべては切って捨てた。目の前には、巨大なバケモノが興奮した様子で息を荒げて上下している。


 イノシシほどの巨大な体躯のそのバケモノには、取って付けたような巨大な鼠の頭部が生えている。歪だ。どこまでも歪で不釣り合いな醜悪さに吐き気がする。鋭い眼光でこちらを睨め付け、鼻をヒクつかせるのに合わせて長いヒゲが上下する。じりじりと近づいてくる。


 尻餅をついた状態で、野仲恭平は後ろへと這い下がった。心音が鼓膜を内側から打ち叩き、頭の中がぐらぐらする。

 なんなんだこいつは。なんでこんな建物の中に急に現れた。誰も答えてはくれない問いが次から次へと湧いては消える。


 あぁ、そうか。自分は今日、死ぬのか。訳もわからず、醜いバケモノに体を貪り食われて死ぬのか。


 野仲の脳裏に、走馬灯のように今日の出来事がフラッシュバックする。



◆◆◆◆◆◆


「ほぉら席につけ、転校生を紹介する」


 担任教師が教室に入るや否や告げた言葉に、クラス中が雑然とする。転校生、なんと刺激的な言葉か。皆口々に囁く、どんな人なのかと。


 野仲恭平も例に漏れず浮き足だった。冬休み明けの1月下旬。普通に登校し普通に授業を受ける普通の日々に嫌気が差していた。そんな普通を憂う、普通を煮詰めて凝縮させたような男、野仲恭平の日常に起きた大きなイベントなのだ。


「ったく静かにならんなぁ。まぁいいか。よし、入れ」


 担任の言葉を合図に、ドアがガラッと開く。その瞬間、喧騒が止み教室が静けさに包まれた。


 ドアの向こうから一歩、また一歩と足を踏み入れる彼女の姿に、みな見惚れていたからだ。


 まるで日本人形を彷彿とさせるような黒髪ショートボブの転校生は、教壇に向かって綺麗な姿勢でまっすぐ歩く。その横顔だけを見ても、美しい顔立ちをしていることがクラスメイトたちには容易に判別できた。

 さらりと正面を向くと、一際目を引く大きな瞳をクラス中に向けた。きっとこの瞬間に何人かの男子生徒は心臓を射抜かれたことだろう。


 転校生はキッと結んでいた唇を緩め、口を開いた。


「おおきに! うちの名前は紫宝院和、陰陽寮大阪支部に所属の陰陽師や。この辺りの気の流れがなんや怪しい言うことで調査のために来たんや。身の回りでおかしなことがあったらうちに相談しいや。よろしゅう!!」


 しばしの静寂。ふんす、と鼻を鳴らしやり切った風な紫宝院和と名乗る彼女以外、みな目が点になっていた。そして堰を切ったようにざわめきが起きる。野仲は理解が追いつかず、口を開きアホ顔を晒していた。そんな中、担任教師がさらに燃料を投下する。


「なぁ、お前の苗字、立花だろ? 立花和。あと大阪じゃなくて東京からの転校だろ」


 もう、カオスだった。そんな中、担任教師が続ける。


「あ、野仲。立花に校内の案内しといてくれ、この後」


「え? あー、はい。わかりました」


 なぜ自分が? という疑問は飲み込んで了解する。野仲はよく頼まれごとをして、断れずに了承してしまう。そしてそんな自分が嫌いだった。



 ホームルーム後、野仲の友人の蓮乃要がやってきた。そして一言。


「関西弁、カッケェな」


「変な影響受けないでよ、蓮乃」


 野仲が呆れて言うと、蓮乃は「わかったで」と答えた。

 野仲が蓮乃を引っ叩こうとした時、立花和が目の前で立ち止まり、仁王立ちで座っている野仲を見下ろした。


「ほな、案内よろしゅう!」



「ーーで、ここで最後かな。美術室だよ。授業以外でここまでくることはほぼないと思うけど」


 3階の端、美術室への案内で校舎を一回りした野仲はひとごこちつく。校舎内を回りながら雑談も挟みつつ案内をした野仲の印象としては、思ったよりも普通の子だな、というものだった。おかしなことといえば、「立花さん」、と呼んで「紫宝院や」と言われたくらいだろうか


「なぁ野仲くん。この学校の裏山、なんかあるんか?」


 脈絡なく聞かれた質問に野仲は一瞬固まり、すぐに返答する。


「裏山の中に旧校舎があるんだよ。今のここは十何年か前に出来た新校舎。ずっと前に旧校舎を取り壊そう、って話にはなってたらしいけど、色々あって頓挫したって噂なんだよね」


「ほーん。……行ってみたいわ旧校舎。案内してや」


「えぇ!? いや、うーんと、立ち入り禁止に一応なってるし、暗くてボロボロで不気味だよ?」


「ええやんええやん! 親睦深めようや! 転校生に友達作りの話題の一つでも提供してぇな頼むわ」


 大きな瞳を潤ませながら頼まれる。こうなると野仲は断り切れることがない。


「うーん……わかった、行こう。少しみたら帰るよ?」


「おっしゃ! もちろんやで」


 新校舎を出て裏門に回り裏山へと続く門扉を開けると、ギギギという軋んだ音を立てながら開いた。扉の先は裏山へ繋がる雑木道が続いている。薄く雪が積もった暗い雑木道をしばらく歩くと、開けた場所に出た。その先に、古めかしい旧校舎が確かな存在感を放ちながら建っていた。


「さぁ、もう満足した? 寒いしそろそろ戻ろ……あれ? 紫宝院さん?」


 ーーいない。さっきまで横にいたはずなのに、いつの間にやら姿が見えなくなった。まさか旧校舎に入った?


 入るところを見たわけではないが、可能性は十分にある。不自然なことは多いが、旧校舎でひとりというのは存外危険だ。


 野仲は駆け出すと、旧校舎に躊躇いなく入っていった。しっかりした造りからか、安定感のある立派な建物ではあるものの、やはり全体的に時代の流れ、劣化を感じさせられる。


「紫宝院さーん」


 呼びかけるも返事はない。仕方がない、教室を一から見ていこう、と野仲は玄関を右に曲がり、手前の教室を開けたが誰もいない。


 それにしても、なんの臭いだ? と野仲は顔をしかめる。臭いだけではない、ガリガリとした何かわからない異様な音もどこからか聞こえてくる。


 野仲の肌がぞわぞわと粟立ち、全身が異変を叫んでいる。なんだ? なにが起きてる? 紫宝院さんはいるのか?


 不穏な空気を感じながら、隣の教室へ移る。異変が先ほどよりも強く感じられる。臭気は強まり、口の中でおかしな味が感じられるほどになった。


 ダメだ、教室を出よう、と後退りすると、足に何かが当たる感覚がした。椅子ではない。机でもない。無機質ではない何かが足に当たり、そしてずるりと動いた。


 ビクッと野仲は飛び退き、振り返る。

 ーー見てはいけない、という気持ちとは裏腹に、目に入る。


「バ、バケモノッ!!」


 野仲は飛び退き尻餅をついて叫ぶ。


◆◆◆◆◆◆


 刹那のフラッシュバックから意識を取り戻した野仲の目の前に、鼠顔のバケモノが迫っていた。


 その時、教室のドアが勢いよく開けられ、声が響き渡る。


「『吹け、香り高き薫風よ。我が声に応え姿を現せ』」


「おいで、『狛太こまた』」


 教室内に風が吹き込み、ガタガタと音を立てる。窓は開いていないのに、一体何がーーと思っているのも束の間、バケモノの他に、見たこともない生物が姿を現した。


 その姿は、どこか柴犬を連想させた。ピンと立った両耳の間には一本の小さな角を有し、濃淡のある青緑色の毛に全身が覆われている。首回りにはライオンのような鋭い毛並のたてがみが巻かれ、宙に浮いている。羽もなく飛んでいるのだ。


「すまん、大丈夫か!? うちとしたことが取り逃がしてもうた」


 肩で息をしながら紫宝院が野仲を案ずる。野仲はコクコクと首肯し、無事を伝える。


「よかった、間に合った……。でもその様子だと、”識って”しまったみたいね」


 声のトーンが暗い。気づけば関西弁でもない口調で紫宝院が顔を上げた。


「でもまずはこいつ。大丈夫、わたしが祓う!」


 尻餅をついたまま、野仲は全く普通ではない世界を見て、感じた。


 この日、異常なほどに普通で平均な野仲恭平は”識った”。異常であることが普通であるかのような異様な、妖たちの住まう世界を。


 そして普通を憂いていた少年は、これから異常な世界に巻き込まれていくことになる。これはそんな、ある日の記憶。



 ーー後に野仲恭平は紫宝院和に聞く。様々な条件の下、五感の全てで妖を認識してしまうと、五感とは異なるもう一つの感覚が開くのだという。


 彼女はその六番目の感覚が開くことを、”識る”といった。

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