チャオ!チャオ!パスタイオ ~ 面倒な隣人とワタシとカルボナーラ

からした火南

面倒な隣人とワタシとカルボナーラ

第一幕:誓いのカルボナーラ

第01話 素パスタなのに、美味しすぎる!

 キッチンからただようニンニクの香りをかいだ瞬間、あまりの芳ばしさにお腹がなってしまった。驚くほど大きな音が。

 聞こえてしまっただろうか。不安になって横目でキッチンを見やる。いや、この部屋にきてすぐ、すでに聞かれているのだ。一度聞かれるも二度聞かれるも、大した差はない……なんてことはなく、やっぱり恥ずかしくて顔から火がでてしまいそうだ。

「すぐにできるから、ちょっと待ってね」

 腹の虫に応えるかのように、キッチンから苦笑まじりの声がかえってきた。ほら、やっぱり聞こえていた。恥ずかしい、恥ずかしすぎる。できることなら消えてしまいたい……。

 いやまて、いまさらお腹の音くらい何だというのだ。たいして面識のないお隣さんの部屋に、こんなだらしのない格好でお邪魔しているのだから。しかもソファーの上に、あられもない格好で横たわっている。

 部屋着と呼ぶのもおこがましい、くたびれ伸びきったTシャツ……マイナーなゆるキャラのプリントが、ヒビ割れ擦りきれている。もっとマシな服を着ていればよかった。けれども、後悔したところでもう遅い。

萱代かやしろさん、洗面所かりていいですか?」

「どうぞ。ご自由に……」

 キッチンに立つ萱代さんは振りかえると、大げさなゼスチャーで洗面所へと続くドアを指ししめした。

 お隣さんって、こんなにイケメンだっただろうか。隣室に住んでいるとはいえ、すれ違ったときに挨拶する程度の仲だ。正直なところ、顔なんて憶えちゃいない。萱代という名字だって、憶えていた自分をほめてあげたいくらいだ。

 少しイケメンの萱代さんは、ワタシよりも少しだけ歳上にみえる。キザな仕草が鼻につくけど、三十歳を超えてお腹が出ていないのはポイントが高い。贅沢を言わせてもらうのならば、イケオジ好きのワタシ的には、もっと歳が上であれば最高だ。

宇久うくさん……だっけ? 下の名前は?」

百合子ゆりこです。宇久田百合子」

「へぇ、綺麗な名前だ」

 そう、綺麗な名前なのだ。そしてよく名前まけしていると言われる。大きなお世話だ。たてば芍薬しゃくやくすわれば牡丹ぼたん、あるく姿は百合ゆりの花……美人の代名詞のように言われる百合だけど、その名を受けた者が皆、美人だとは限らない。

 いやしかし自分で言うのもおこがましいが、素材はそんなに悪くないはずだ。磨けば光ると言われるし、実際に最近まで必死で磨きまくってきた。しかし今となってはもう、見た目や立ちふるまいに気をつかうことが面倒でしかたがない。

 ……おっと、顔を洗おうと思っていたんだっけ。

 ソファーから身をおこし、重い足どりで洗面所へとむかう。ワタシの部屋と間取りは一緒なのに、左右対称でなんだか不思議だ。

 洗面所にたどりつき、鏡の中の自分をのぞきこむ。徹夜あけの眠たげなスッピン顔に、寝ころび乱れたボサボサ頭。着ているものはと言えば、上はキャラTに下はジャージ……いつもの休日ルックとは言え、改めて見るとひどい格好だ。しかもティッシュを丸めて、鼻栓までしている。

「鼻血、止まったかな?」

 キッチンから萱代さんの声がひびく。

「大丈夫……だと思います」

 鼻栓をとって、にぎりしめたままのティッシュでくるんでポケットにつっこむ。冷たい水で顔を洗うと、少しだけ気分が晴れる気がした。

 完全に血が止まったかと鼻をすすり上げてみれば、意図せずキッチンから流れこむニンニクとオリーブオイルの匂いを吸いこんでしまい、またもや盛大にお腹が鳴ってしまった。そしてどうやら、鼻血は止まっているようだった……。

 ご飯も食べずに動画配信サイトにかじりついたのが、昨日の夜九時くらいだったはずだ。全二十四話の推しアニメ……週末をかけてゆっくり、もう一周楽しもうと思っていた。けれども、ご飯の準備もせずに「とりあえず一話だけ」と軽い気持ちで観はじめたのが運のつきだった。そのまま止まらなくなってしまい、気がつけば十二時間をかけて全話を観おわっていた。

 イッキ視聴すれば感動もひとしお……ではあるのだけれど、感動じゃお腹はふくれない。さすがに空腹をおぼえてコンビニ行きを決意した。買い物ごときで大げさなと思うことなかれ。朝とはいえ真夏に外にでるのだから、多少なりとも気合を要する。

 クーラーが利いた部屋から一歩でただけで、燦々と照りつける八月の陽光に目がくらんだ。むせ返るような熱気に辟易しながら廊下を歩きはじめた次の瞬間、タイミングよく……いや、タイミング悪く開けはなたれたお隣のドアに激突して尻もちをついた。

 驚いて駆けよる萱代さんに導かれるまま、彼の部屋へとお邪魔した。鼻血と摺りむいた手のひらを処置してもらい、鼻血が止まるまでソファーで休ませてもらうことになった。落ち着きを取り戻してみると、今度は体が空腹を思い出してお腹がなった。苦笑するお隣さんが「簡単なものしかできないけど」と言いながらキッチンに立ったのが、つい一〇分ほど前のことだ……。

 洗顔をおえてリビングに戻ると、すでに食事の準備が整っていた。四人がけのダイニングテーブルには二枚のランチョンマットがしかれ、できたてのパスタが、美味しそうな湯気をたてている。

「さぁ、座って。簡単で悪いんだけど」

「いえ、そんな……。ありがとうございます」

 テーブルを挟んで萱代さんの向かいに座る。

 眼前のパスタに具はなく、素うどんならぬ、素パスタといった様子だ。オイルに濡れる唐辛子と、彩として散らされたイタリアンパセリのコントラストが、けっこう冴えているんじゃないかと思う。

 出張で部屋を空けていたから、冷蔵庫が空っぽだと笑っていた。せめてトマト缶でも買ってくると駆けだそうとした彼を、無理に引き止めたのはワタシだ。知らない部屋で親しくもない人の帰りを待つだなんて耐えられそうになかったし、ワタシのために買い物に行ってもらうのも申し訳ない気がした。

「さぁ、冷めないうちにどうぞ」

 言いながら彼が、フォークにパスタを巻きつける。

「あ、はい。いただきます」

 手を合わせて、フォークを手に取る。

 さっきから芳ばしい香りに、食欲を刺激されっぱなしなのだ。待ちかねたとばかりに目一杯のパスタをフォークに絡みつけた。

 そして口いっぱいに頬ばった次の瞬間、驚きに目をみはる。

「こ、これ、何が入ってるんです!?」

 食べながら叫びだす行儀の悪いワタシを見て、萱代さんが眉根をよせている。

 いや、だって、仕方がないじゃないか!

 飲み込むことすらもどかしい……いや、飲み込むことがもったいないほどに美味しい! 具も入っていない素パスタがこんなに味わい深いだなんて、これはもう驚くしかないじゃないか!

「何って、ニンニクと唐辛子だけど。あとオリーブオイル」

「それだけ!? 調味料とかは??」

「パスタを茹でるときに塩を」

「塩だけ……なの!?」

 たったそれだけの材料でこんなに美味しいパスタができるだなんて、どんな魔法をつかったのだろうか。

「もしかして、美味しくなかった?」

「逆です、逆! 素パスタなのに、美味しすぎる!」

「素パスタっていうか、ちゃんと名前があるんだけどね。ペペロンチーノって名前が」

 どこかで聞いたことがある名前だ。外でパスタを食べたときに見かけたのだろうか。それともたまには自炊しようと、ウェブでパスタのレシピを検索したときに見かけたのだろうか。でもワタシが見かけたのは、こんな素パスタではなかったはずだ。

「でもペペロンチーノって普通、ベーコンとか野菜とか入って……」

 不意に眼前へ萱代さんの人差し指が差しだされ、ワタシの言葉をさえぎる。

「正確には、スパゲッティ・アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノって名前のパスタだよ。つまり、ニンニクとオイルと唐辛子のスパゲッティって意味だね。今回は彩にイタリアンパセリを使ったけど、基本的には三つの材料だけで作るパスタだ」

「そ、そうなんですか」

「今回はスパゲッティで作ったけど、スパゲッティニやフェデリーニで作っても食感が違って面白いよ」

「スパゲッティニ?? 何です? スパゲッティとは違うんですか?」

 それにフェデリーニなんて、初めて聞く名前だ。

「太さが違うね。スパゲッティは一.八ミリ、スパゲッティーニは一.六ミリ、フェデリーニは一.四ミリのロングパスタだよ」

「へぇ! 太さで名前が違うんですね!」

 太さの違いなんて、気にしたこともなかった。素直に驚いてはみたものの、もしかしてお隣さんって面倒くさい……おっと、こだわりの強い性格なのだろうか。まくし立てるように語られる薀蓄うんちくは、いまだ止まる気配がない。

「もっと細いロングパスタもあるよ。一.三ミリより細ければカペリーニ、〇.九ミリより細ければカペッリ・ダンジェロと呼ぶんだ。細いパスタはイタリアじゃスープに仕立てたりもするけど、日本独自の邪道として冷製パスタにしても美味しいよね。パスタを氷で締めるなんて言うと、イタリア人は驚くけどさ。でも日本じゃ、当たり前の感覚だよね。麺を冷やすのは」

「は、はぁ。蕎麦とか素麺とか、冷やしますもんね」

「そうだ。今度、冷製パスタをご馳走しようか。カペリーニのストックもあるし、ベランダのバジルも茂ってきたところだし」

 思わず窓の外側を見やる。

 開け放たれたカーテンの向こう側のベランダ……いや、間取りから考えればあそこはサンルームか。このマンションは、ベランダの半分がサンルームになっている。背の高い木製ラックがおかれ、様々な植物の鉢が所せましと並んでいる。

「料理用にハーブ類と、観賞用に多肉植物を育ててるんだ。このマンションは日当たりもいいしサンルームも広いから、植物を育てるには最高だよね。宇久田さんも、何か育ててるんじゃないの? 何年か前から、日よけ代わりにゴーヤを育てる人が多いなんて話も聞くけど……」

 サンルームなんて、雨の日に洗濯物を干すのに便利としか思ったことがなかった。そうか、言われてみれば温室みたいなものだ。植物を育てるのには、ちょうど良いのだろう。

「い、今は育ててないんですよ……今は」

 なぜか悔しさをおぼえ、精一杯の見栄をはってみる。

「だったら、ハオルシアをいくつか持って帰らない? 増え過ぎて困ってるんだよね」

 な、何だ、ハオルシアって。いやまて、ワタシに植物を育てられる訳がないだろうが。数年前、サボテンを枯らしてしまった記憶がよみがえる。

「そうだ、冷製パスタをご馳走する話だったよね。ベランダのバジルでペストを作って、冷製に仕立てようか。トマトが美味しい季節だし、ケッカを冷やしてみても面白いよね。トマトとバジルのコントラストが綺麗だし、目にも美味しいパスタに……」

「あ、あの……」

 勇気を振り絞って、萱代さんの言葉をさえぎった。さっきから知らない単語ばかりが飛び出して、目眩がしそうだ。徹夜あけのぼやけきった頭では、会話のテンポに付いていくことすらむずかしい。

「お気持ちは嬉しいですけど、これ以上お世話になる訳には……」

「ご馳走するよ。その様子だと、ろくなもの食べてないでしょ」

 思わずカチンときた。

 いや、確かにろくなものを食べちゃいない。さっきだってお腹が空いたから、コンビニにお菓子を買いに行こうとしていた訳だし。朝は食パンに目玉焼きをのっける程度だし、お昼はサンドイッチや菓子パンをかじっているか、カップ麺で済ませてしまう。夕食だって、良くてスーパーのお惣菜かコンビニ弁当だ。

 そう、確かにろくなものを食べちゃいない。けれども親しくもないお隣さんに、こうも遠慮もなく言われてしまうと、腹がたつやら情けないやら……。

「確かにろくなもの食べてませんけど、結構です。遠慮します」

 ワタシにしては珍しく、きっぱりと断ることができた。怒気をはらんだワタシの声は、萱代さんの進撃をとめるに充分だったようだ。

「そ、そう……」

 意気消沈した彼の姿に、多少なりとも溜飲がさがる。こうなるともう一撃、追撃したい気持ちに駆られてしまう。

「そうだ! 逆にご馳走しますよ。今日のお礼に、ワタシが何か作りますから!」

 驚いた表情で、萱代さんが見つめている。

 呆気にとられていた様子だったけど、やがておもむろに口をひらいた。

「いや、遠慮するよ」

 え、なんで?

 せっかくお返しするって言ってるんだから、ここは素直に受けいれるところじゃないの? 断るって、どういうこと!?

「もしかして期待してないでしょ? ワタシだって、料理くらいできるんですからね!」

 言った瞬間、彼の表情がくもる。

「味に関しては妥協できないし、お世辞とか言えないけど……それでも良い?」

 もう一度カチンときた!

 ちょっと待ってほしい。この人、ワタシの料理が不味い前提で話をしてない? 美味しいか不味いか、食べてみなきゃ判らないじゃないか!

「良いですとも。望むところです!」

 絶対に美味しいって言わせてやる!

 思わず拳をにぎりしめて、鼻息あらく彼をにらみつけた。

 彼も挑戦的な眼差しをワタシに向け……たりはしていなかった。柔らかく微笑むと……いや、もしかして失笑したのか? まぁ、どっちでもいい。とにかく萱代さんは、笑顔でキッチンへと向かっていった。

「珈琲でも飲む?」

 拳を握りしめたまま彼を見やると、何やら見なれない機械を操作しているところだった。

「それって……」

「ん? エスプレッソマシンだよ」

 エスプレッソって、家で淹れる事ができるんだ……などと感心している場合ではなかった。小洒落たイタリアンバールの誘いなんぞ断って、すぐに自分の部屋へ帰るべきだったのだ。見事なラテアートが描かれたカフェラテだけではなく、エスプレッソに関する薀蓄話まで、たっぷりとご馳走される羽目になるのだから……。


 自分の部屋へもどると、掃除のいきとどいた彼の部屋との落差に目をつぶりながらベッドへと倒れこんだ。徹夜明けなのだ……満腹となった今、襲ってくるのは睡魔しかない。

 眠りに落ちる前、今の気持ちを誰かに伝えたくて、同僚の玻璃乃はりのにメッセージを送ることにした。

「お隣さんってば料理上手のイケメンだけど」

 そこまで打ちこんだところで、睡魔に負けてしまった。続けて「すごく面倒くさい人だった」と打ち込もうとしていたのに……。

 書きかけのメッセージをそのままにスマートフォンを握りしめたままのワタシは、やがて深い眠りの中へと引きずり込まれていくのだった。

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