審問官テオドア・オラニエと孤狼の騎士〜いかにして魔術士は猛犬騎士に首輪を嵌めたのか?

七緒ナナオ

序章 ことのはじまり

 この世界を創った偉大なる魔女は言った。

 すべての命あるものに等しく魔力を。そして、魔力を扱う術を与えよう、と。


 偉大なる魔女が残した教えをまとめた教典、そして遺産。それらを管理し信仰するのは、エレミヤ聖典教会。聖典教会はあらゆる国家、権威に影響力のある教会だ。


 その教会の中でも異端な存在がある。教会の守護者、信仰の守り手、魔女の祝福を拒絶する異端の集まり。

 その者たちの名を、エレミヤ聖典騎士団という。




 騎士団に派遣されていた審問官が、団内の捜査官の要請に応じて、それまで編んでいた魔術式にそっと魔力を込めながら魔術を展開した。

 そうすることで、『おれ』という自我の上に『俺』という記憶メモリーが走る。

 そしてその記憶メモリーは、唐突にはじまった。



「デラクレス隊長、個人演習につき合ってもらえませんか」


 低いのに妙にはっきり耳に届く声に、思わず振り返った。そこにいたのは、藍色の髪、琥珀色の眼の男。精悍な顔つきで、仏頂面をした第三部隊副隊長だった。隊服の襟と肩に縫いつけられた隊章と階級章が、そう示している。


 エレミヤ騎士団の西棟3階の廊下で呼び止められ、個人的な演習——つまり手合わせを申し込まれた。

 途端、心臓が期待と驚きで動悸しだす。少しばかり呼吸も早くなって、体温が上がる。頬も緩んでニヤけているだろう。


「いいだろう、30分後に演習場入口で。空いている場所を押さえておく」


 それだけ言って、副隊長には背を向ける。歩いていたのは数歩だけ。すぐ駆け足となって、ある人物を探すべく階段を駆け降りた。

 背後を警戒していたのになにもなかったから、更に驚き、膨れる期待で胸が一杯になり、気も緩んでしまったことは否めない。



「イーヴォ、すまない。どこか空いている演習場はないか? 30分後に使いたいのだが」


 目的の人物を見つけるのは容易たやすかった。

 エレミヤ聖典騎士団第一部隊隊長のイーヴォを見つけ、思わず真っ直ぐ駆け寄った。騎士たちの詰所や執務室、待機室などがある西棟2階の廊下で、だ。


 話しかけられたイーヴォはゆっくりと振り向いた。銀色に艶めく癖のない長い髪が、振り向きざまにフワリと揺れる。冬の泉のような青い眼は平淡で、よく言えば冷静だと表現できるのだろう。


「それならば屋内演習場が空いているぞ、デラクレス」

「そうか、よかった。助かった、イーヴォ」

「……もしかして、いつものアレか?」


 イーヴォの表情が僅かに濁る。眉間に寄る皺、下がる口角。それについては気にも留めずに、問いについて肯定するよう頷いた。


「ん? ああ、そうだ。いつものアレだよ。珍しく誘われたんでね、俺が場所を押さえることにしたんだ。いつもは不意打ちで来るのに……なんでだろうな?」


 答えた声が、思いもよらず跳ねていた。少しだけ心拍数が上がって体温が高くなる。くすぐったいような、痒いような。そんな感覚。それを誤魔化すように、なんとなく手癖で目を擦る。

 そんな様子に、イーヴォは呆れたようにため息を吐いて小言を言いだした。


「私が知るわけがないだろう。それにしてもデラクレスよ、いつまでアレの勝手に目を瞑っていてやるつもりだ? 隊長のお前の首を狙っているとか、隙を見ては襲っているだとか、悪い噂を聞いているが」

「ははは、いつまでもだ! いいんだよ、アレはあのままで。今、磨いてやってる最中なんだから」

「……うっかり殺されてからでは遅いぞ」


 どうやらイーヴォの小言は忠告だった、らしい。適当に聞き流して、目を擦る。どうしてか目に違和感があったから、つい。手癖で擦ったせいで、どこか傷つけたのかもしれなかった。


 けれど、そんなもの。イーヴォの忠告も目の痒みも、真面目には取り合わずに不敵に答える。


「ふは、そんなことあるかよ。アレは狼だ。群れの頭を噛み殺そうとはしない」


 そう言ってイーヴォと別れて西棟の階段へ向かう。屋内演習場を使うためだ。そうして、降りる階段の前で、第三部隊の隊章をつけた男に呼び止められた。


「デラクレス隊長!」


 焦茶色の眼、枯れ草色の髪を中央で分けた髪。中肉中背で顎には傷がある。書類の束を抱えたその隊員は、にこにこと愛想笑いを浮かべながら話を続ける。


「あれ、隊長。珍しいこともあるんですね。——と屋内演習場で、ですか」

「……?、…………」


 不思議そうな顔をして尋ねる隊員の声、特に一部の音にノイズが走る。聞き取れなかった名前に不快を感じて、顔を顰めた。

 その不快はじわじわと胸の内に広がって、やがて腹まで下がってムカムカしだす。それだけじゃない。うっすら頭の奥も、ズキズキと痛い。


 だから隊員の存在は、無視をした。スイッチを切るように表情を消して階段を降りてゆく。


「え、え? 隊長、デラクレス隊長?」


 背中にかけられた声は、戸惑いと不信とで揺れていた。けれど、それをかえりみることはない。隊員に横柄な態度を取るのは、いつものことだ。珍しいことではない。


 けれど、無視をされた隊員は不満に思ったか、それともなにか用があったからなのか。随分と長い間、なにか言いたそうに見つめていたようで、背中にずっと視線を感じていた。


 それがどうにも不快で苛立たしくて、駆け足で階段を下り、真っ直ぐ目的地へ向かったのだ。



 石造りの高い天井に剣戟の音が響く。

 ここは西棟1階にある屋内演習場だ。第三部隊副隊長との約束の場所。だから必然的に剣の相手は副隊長だ。夜を思わせる藍色の髪、不敵に輝く琥珀の眼。その眼の奥は、闘志によって爛々と赤紫色に燃えている。


「ははは、今日の趣向はなかなかにいいぞ! 面白いな、どんな手を使った?」

「それを答えると?」

「違いない!」


 笑いながら剣を振るい、腹の底でぐつぐつと煮立っている愉悦を、溢れださぬようしっかりこらえる。楽しい、楽しい、楽しい! これは、楽しいという感情だ。


 けれど、二度、三度、と剣を打ち合わせる度に、どうしてか動きが鈍ってゆく。繊細な動きができない、呼吸も制御コントロールできていない。

 視界に映るのは、ノイズ混じりで顔の半分が見えない副隊長。見えない、副隊長のキリリと締まった美しい顔が、よく見えない。


 けれど、ノイズに掻き消されてもなお光る琥珀の眼の奥で燃える仄暗い赤紫の灯だけは、よく見えた。

 そして、副隊長の剣に追い詰められていることも、わかっている。わかっていて、それが嬉しいと感じていた。


 そう、この瞬間までは。


「ああ、楽しい! 楽しいな! だが、この楽しい時間も残りわずかだ。俺はそろそろ隊長を辞める。後継はロウを指名しよう。後継はロウだ、——ではない」


 そう冷えた声で副隊長に告げて、目の前の副隊長を物を見るような無感動な目で見やる。

 言葉に驚いたのか、態度に驚いたのか。副隊長は大きく目を見開き茫然とする。 


「……っ、まさか、——いて?」

「いくら——がアレの太刀筋を——も、まるで——ない。これで——しい」

「そんなに——が——か⁉︎」

「アレは——た。至高の——騎士だ。第三部隊の——相応しい」


 会話の端々にノイズが混じる。自分が吐いた言葉すら、自分の耳で聞き取れない。

 言い終わると同時に、少しだけよろめいた。そうして、もう終いだと言わんばかりに剣を鞘に収めて副隊長に背を向ける。


 背後では、ガランと剣を投げ出す音、駆け寄る足音。それから、大きく叫ぶ悲痛な声。


「それ——相応しい! 貴方に——いる、——!」

「——では——よ。そうやって——うな、——には。せいぜい——しか——ない」


 言っている間に痺れて震えはじめた自分の指先を一瞥いちべつし、けれど気にもとめずに言葉を続けた。


「まあ、——を用いて——は、初め——だった。そこは評価——いい。だが、——い」


 少しだけ。ほんの少しだけ上擦った声ののち、それとは真逆の硬い声。喉からでている使い分けられた声が、まるで他人のよう。追い縋る副隊長には背を向けたまま、拒絶の意思をはっきりと示した。


 途端に背後で膨れ上がる殺気と、消失する気配。

 その状況に、歓喜した。込みあげる感情は、なんと名前をつければよいだろう。

 気分のおもむくまま声を張り上げて宣言をした。


「だが、——う。——は本物だ。——は、俺の——!」


 そして。

 ふ、と背中から抱き込まれるように優しく腕が回る。次に感じたのは、脇腹への灼熱の痛み。切り裂かれたのだ、とわかったのは、抱き締められる腕から解放されて石畳の床に倒れ伏したときだった。


「さようなら、デラクレス隊長。あなたの間違——を——だ」


 一方的な別れの言葉と去りゆく足音を聞きながら、自嘲した。薄笑いを浮かべて浅く呼吸を行い続ける。

 じわじわと身体を蝕んで意識と血液を垂れ流そうとしているのは、おそらく毒だ。


 寒い、冷たい、とにかく寒い。流れた血は凝固する気配を見せずに広がってゆく。

 これで終わりか、と目を閉じる。と、バタバタと慌ただしく駆け寄る聞き馴染んだ足音がひとつ。そして、駆け寄ってきた人物に、半ば乱暴に抱き起こされた。


「デラクレス隊長! なにがあったんだ⁉︎」


 最後の力を振り絞り、閉じた目蓋をゆっくり開けた。視界に映ったのは、藍色の髪。驚愕で見開かれ揺れる琥珀の眼。澄んだ琥珀にホッとする。薄目で見た副隊長の凛々しい顔は、毒混じりの血で汚れていた。


 だから、力の入らない腕を持ち上げ、副隊長の頬に触れる。血を拭うどころか、余計に被害を拡大してしまったのだけれど。


「隊長……っ」


 悲痛な声は、胸の内をくすぐった。死に対する恐れは、もはやない。

 それでもなにか話そうと息をしたら、今度はゴボゴボと咳き込んで吐血した。口の中が気持ち悪い、けれど、今は、この男に、最後の言葉呪いを。

 そういう意思が働いたのか、否か。


 生涯最後の言葉は、意外なほどクリアに発声できた。


「……自由に生きろ、ロウ。俺の後を継ぐ必要は、ない」


 そうしてそこで、意識がブツリと途切れた。




 そして、記憶が溶けだし接続が解ける。やがて、深淵に抱かれるように意識が落ちる、落ちる、落ちる。

 そして、そして、そして——

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