第4話『猫屋敷家の愛』

 紅葉の残滓舞う寧湖町に冷凛な冬の気配が漂い始めた季節。

 パパンがシャルルのために購入した膝掛け電気毛布を敷いた長椅子で、すやすやと心地良く昼寝していたシャルル。

しかし、シャルルの微睡みは耳朶を唐突に震わせた明朗なによって解かれてしまった。


 「シャールールーのーうーたーが、聞っこーえーてーくーるーよー。、にゃん、にゃん、にゃん、にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ、にゃん、にゃん、にゃーんっ」


 ぼんやりと宙を仰いでいる睡気眼のシャルルを膝に乗せて、“赤ちゃん抱っこ”しているのはミー子。

 ミー子がシャルルに歌い聞かせているのは『カエルのうた』を猫シャルルへ替えた歌だ。律動的なカエルの鳴き声の箇所も、猫の鳴き声で韻を踏んでいる。

 ミー子はシャルルが寝惚けて大人しくなっているのをいいことに、赤ちゃんを抱っこして子守唄を聞かせるようにシャルルを楽しんでいるわけだ。


 「あら? シャルルちゃん。またミー子に赤ちゃん抱っこしてもらって、ふにゃふにゃになっているわね、ふふふっ」

 「うん。今のシャルルは、あったかくて、柔らかくて、がしてるの……っ」


 ミー子の歌声に誘われたように居間へ降りて来たママンは、になったシャルルをうっとりと微笑ましく見つめる。シャルルから見れば、ふにゃらっになっているのはミー子の顔なのだが。


 「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ、にゃんにゃんにゃんっ」


 天真爛漫に歌うミー子につられてか、ママンもノリノリで口調を合わせ始めた。ミー子だけならともかく二人も、しかも音程も旋律もからっきしなママンの不協和音が加わると、さすがに騒がしく感じてしまう。


 「あっ! 逃げるのぉ!? もうちょっと、ゆっくりしていってよ、シャルルゥっ」

 「そうそう。もう少し、ここにいてあげて、ね? シャルル」


 安穏な眠りを妨げられ、すっかり興醒めしたらしいシャルルは赤ちゃん抱っこ体勢からくるりっと身を反転させ、ミー子の腕から逃れようとする。

 しかし、ミー子はシャルルをぎゅっと抱きしめて離さないうえ、ママンも逃さないようにシャルルの背中を撫で押さえて助力する。

 ちょっと! ママン! 何故ここで僕じゃなくて、ミー子の味方をするにゃ!? 

 理不尽な気持ちからシャルルは「にゃんっ」、と甲高く鳴いて抗議する。

 しかし、ママンはニコニコと微笑むばかりでシャルルを解放してくれない。

 主犯のミー子もママンと同じような笑顔を満面に咲かせていた。

 ぐぬぬっ。ママンも基本的には僕に優しくて甘々なのだが、ミー子と同じように悪ノリする癖があるんだよにゃあ……。

 昨日なんか、夏のヒラヒラロングスカートを履いたミー子とママンが僕の周りを囲ってフラフラダンスで迫ってきたし。

 僕が「ふーんっ!(その動きやめてよ!)」、と甲高い声で抗議すると、二人はさらに調子に乗って笑いながら迫ってきたのだにゃ。

 むしろ、僕が鳴いて怒っている姿をもっと見たいんだ! とばかりに。


 『シャルルゥ、お前を、にゃあ』


 別の日にはやたらニヤニヤと薄気味悪く笑いながら、こちらの頬を撫で上げるママン。

 ミー子も大概だが、こんな風に笑うママンの表情と声(こちらを愚愛(バカに)するような)も、何気に耳障りで妙に癪に触るにゃ!


 『先ずはしよっか』


 歯科検診とは、ママンが両手の親指を立てて僕の薄い上顎をくいっと上げて、歯の具合を確認してくるもの。

 僕の歯は真っ白のツヤツヤだから検診なんて必要ないにゃー。

 僕が冷ややかに両眼を釣り上げて睨んでも、ママンも隣で鑑賞しているミー子も「可愛いー!」、とぬかしながら笑うばかり。

 ひとが怒っているのを見て楽しむとは、悪どいにも程があるにゃ!

 二種類以上の洗剤は「混ぜるな、危険」と同様に、ママンとミー子の二人は「、危険」だにゃ。


 「これ以上はシャルルからすればみたいね。もう、離してあげましょうか」

 「ママンがそう言うなら、はい」


 さすがにシャルルが辟易しているのを察してか、ママンは柔らかく苦笑しながらミー子を諭した。

 ママン! 分かっているなら、最初から僕を救助すべきだにゃ!

 ママンの一言にミー子もシャルルへの憐れみを覚えたのか、あっさり素直にシャルルを解放した。

 こんな風にママンは穏やかな反面、『好きな子ほどいじめたくなる男の子』な心境モードに入ったかと思いきや、ふとした拍子に猫(相手)の気持ちをよぉく慮り……まったく意味不明だにゃ。


 「よかったねー、シャルルちゃん」


 猫屋敷家のママンのことについて一言で語るなら、「おっとり系慈愛の母」であるのだが……。

 今では懐かしいあのペットショップで、猫屋敷家の面々に出逢った時のことを想起する。

 僕が都市伝説にある闇の引き取り屋へ攫われ、その日暮らしを強いられる恐怖から救ってくれた“一番の恩人”は紛れもなく、ママンなのだ。

 もちろん、僕を見初めてくれたパパンへの感謝も大きい。

 しかし、ペットショップの猫犬の現状問題として、いくら多くの客を魅了し、気に入られたとしても、「お金を出してでも、このが欲しい」、と財布の紐を緩ませなければ無意味だ。

 猫屋敷家の財布を実質管理しているママンが、僕のために紐を緩めてもいいと。

 値下げされていたとはいえ、子猫期という旬の終わり寸前の猫として売れ残っていた僕をママンが求めてくれた幸運と喜びは、猫の筆舌に尽くし難い。

 しかも、猫屋敷家は財産的にはセレブの部類に入るのだが、無欲なママンの節約術も猫屋敷家の財布を潤わせるのに大きく一役買っているのだ。


 『お金持ちほどケチなのよ』


 ママンは自分の下着が色褪せてボロボロにくたびれても使い続けるし、飲食店に置いてあるウェットティッシュや砂糖は余分に取っていくし、スーパーの買い物は半額シールが張られる閉店間際まで張り込むし、電気式風呂の湯船は翌日まで置いておくし、の洋服は最終処分セールワゴンに入った色味がダサくて野暮ったい品しか買わない……セレブ猫の母とは思えないなのだ。

 対照的に、我が家一気前も財布回りも良いパパンはどうやら買い物好きの浪費家な、という立ち回りらしい。

 ママンとパパン、夫婦の“対極性”は、二人の夫婦生活を観察していると中々に奇妙で興味深い。


 『ねぇ、あなた。最近またちょっとお金を使い過ぎているわよね?』

 『使ってない使ってないぞ』


 とある日の猫屋敷家の居間で展開されたとあるやり取り。

 ふわあ、テレビ台下に設置された暖房機の風も、窓から差すお日様のポカポカハーモニーはたまらないにゃ。

 居間の絨毯で寝転がってテレビを眺めているパパンの前で、行儀良く正座したママンが神妙な顔付きでパパンにおずおずと問いかけていた。

 ちなみに僕はあくびを咬み殺しながら、パパンに倣って絨毯の上で優雅に日向ぼっこしていたため、二人の会話を目の前でばっちり聞いていた。

 最近、こうして猫らしくのんびりしているように見せつつ、傍でじっくり聞き耳を立てる習慣を付けた。

 さすれば、猫の僕でも人間の心理から家族関係、人間世界の世論から経済の動きまで見通せる知識を身に付けられるのだ。

 「聞き流すだけでグングン身につく! 英語リスニング学習術」と同じ原理? らしい。

 僕が一目置いているペル吉先輩に教えてもらったのにゃ。

 おかげで最近は猫屋敷家の実態や、家族構成員の基本情報、さらには家族間の力関係まで熟知してきたにゃ。

 さっそく今日も僕の自慢の聴力は無意識レベルでママン達の会話を盗み聞く。

 呑気に寝転がっていた僕の鋭敏な耳へ響いたのは、普段のおっとりしたママンらしからぬ不機嫌な声だった。


 『ちゃんと私の話を聞いてください! 一昨日の買い物だって、またブランド物の高い帽子やら靴やら上着まで買って……もう洋服箪笥の中は、買ったのに結局一度も使っていない服やら下着やらでいっぱいなのに!』

 『一度くらい使ったやつはあるよ。それにあーいうのは一度に頻繁に使うとすぐ傷んで汚れて使えなくなるんだ! 靴も使い分けるためにたくさん予備も買っているだけだし』


 どうやらパパンの浪費癖をこれ以上見過ごせなくなったママンは、パパンを諌めようとしていたらしい。

 パパンはセレブ猫の僕だけでなく、ペル吉先輩やチビ子さんのような寄る辺なき外猫にもキャットフードをたらふく買い込んで与えるほど気前が良い。

 しかし、それはパパンの金銭感覚の偏りやお金を費やす心理的ハードルのあまりの低さに因るものだ、と僕にも分かってきた。

 人間社会の消費事情に詳しい僕ではないが、「買っておいて一度も使わない」、というパパンの無駄遣いは褒められたものではないことは、猫の僕にも窺えた。

 例えるならば、その日暮らしの野良猫の辛苦も知らない恵まれた我が儘な飼い猫が、せっかく与えてもらった餌を好みじゃないから、と食べずに地面へ蹴り捨てるような行いだにゃ?

 丁寧に言葉を選びながら説得を試みるママンを他所に、パパンは言葉で応答はしているが、顔はテレビへそっぽを向いたままだ。

 ママンの言葉を真剣に聞く態度は見られない。

 パパンの生返事と無礼な態度に、さすがのママンも苛立ちを隠せない勢いで説得から説教へと転じた。


 『でも、洋服箪笥も靴箱もあなたのものが九割を占めていて、モノの置き場がないのよ! 本来は潜在やシャンプー入れる棚まであなたの下着だらけ! それだけじゃない! 電気屋さんで見つけた加湿器やらノートパソコン、小さな冷蔵庫や洗濯機まで買い過ぎなのよ! どれも使いこなせていないのに』

 『うるせえ! 服にしろ俺が自分の金で買ったもんだからいいだろ! パチンコや酒に浪費したんじゃねぇんだし。それに電化製品も格安セールのものしか買ってねぇし!』


 ママンの台詞から察するに、パパンは電子機器そのものにも、プラモデルに対するのと同じ浪漫と憧れを抱いているのに、機械の勝手や操作を把握できていない典型的なIT音痴らしい。

 しかも機械への苦手意識がないだけに、自分がIT音痴だという自覚もなく、せっかくの高額な機器も宝の持ち腐れとなっている。


 『自分の金で買えたならいい、とか言うけど、あなたの年金だけでその浪費量は直ぐに底尽きますよ! それにあなたの買ったブランドやら電化製品! 確かにどれも三割引きだったけれど、買った製品はどれも最新型だから割引しても旧型の十倍の値段だし、おまけに修理保障契約費用までいれたら結局割高です! あなたはスーパーの買い物もそうだけれど、たた安い物を買えばいいわけじゃないのです!』


 何やら複雑難解な用語を交えた怒涛の説教に、パパンは一瞬気圧されそうになりつつも、反論を挟む時期を窺っていた。

 パパンは若者に似合いそうな赤・青・緑の鮮やかな原色系スポーティーファッションとジーンズにキャップ、サングラスを着こなす。背筋を伸ばしつつも両手をポケットに突っ込んで悠然と街中を歩き、スタイリッシュなブラック・ジャガァを乗り回す活力的エネルギッシュで勝ち気な男だ。

 しかし、こう見えてもちょっと高めの年金と退職金で生活する七十歳過ぎ後期齢者ジジなのだ。

 こう見えてパパンも昔は超一流企業の高い地位で長らく勤めてきた選良エリート会社員で財布もだいぶ潤い、羽振りも良かったらしい。

 しかし年を重ねていく内に、第二のIT革命の波による労働環境の激変といった“時代の変化”の波に取り残された。

 最後は年季の入った過去の栄光と実績、虚栄の矜持にしがみつく心だけを持って定年退職を迎えたとか。

 まあまあ年金と退職金はちゃんと受給できるだけ、パパンは十分尽力してきたし、恵まれている方だ、と猫心にも思う。

 強いて問題を指摘するならば、緩慢な年金生活へ転じた後も、パパンが現役時と同じ生活水準、と消費量を下げられず、年金をギリギリ切り詰める浪費や無駄遣いを頻発してしまうことだ。


 『契約費用は機械を扱うなら必須の出費だろうが! それにお前だってスーパーで安売りばっか狙って買っているだろう!』

 『私は“本当に必要なもの”だけを選んで、安く買ったものをちゃんと消費しているからいいんです!』


 もしも僕がパパンなら、ママンの言葉にはグウの音も出ないだろう。こう見ても実は、ママンは並の妻でも専業主婦でもない、貿易系の自営業者として家計を回してきた商人ビジネス・ウーマンである。

 ママンの仕事は外国で低額・低賃金で製作された衣類や食品を注文し、日本の販売会社へ輸入・市場流入の仲介役を担うこと。

 当然ながら取引先とのメールや電話内容は外国語で交わされるため、ママンは英語だけでなく一部アジア系の言語にも堪能なのにゃ。

 海外文化の普及、語学力が鍵を握る貿易商売の隆盛期に恵まれた若き日のママンは、稼ぐ医師にも引けを取らない高収入で莫大な資産を猫屋敷家に積み上げたとか。

 普段はおっとりのんびり屋で、料理も腕の立つパパン任せのママンだ。

 しかし、こう見えてもパパンと出逢う前は一文無しの貧乏暮らしからスタートし、子どもを抱えて仕事に追われながらも、何とか不自由のない富裕層暮らしにのし上がるまで苦労してきたらしい。

 そうした経緯もあり、怜悧な経済感覚に優れたママンが節約上手なのも、パパンの無鉄砲な金遣いに物申したい気持ちは猫の僕にも分からなくはないにゃ。


 『あなたは安い安いからって、冷蔵庫の中全体を食品でパンパンに埋め尽くしておいて面倒くさい、忘れた、美味しくないとか理由つけて、結局ほとんどの食べ物をダメにしちゃってるじゃない! それじゃあ、いくら安く買ってもお金を溝に捨てたようなものじゃない!』

 『あー! あー! うるさいうるさいうるさいっ。分かりましたー、買い物しなきゃいいんだろ! しなきゃ! お前はもう黙っておけよっ』

 『そうじゃなくて、ちょっとあなた……! もう、知らないわっ!』


 小さな怒りと壮大な呆れ、若干の悲しさが内混ぜになった声で最後は投げやりに零すママン。

 一方ママンの説教で痛い所を散々突かれたパパンは、すっかり不貞腐れた表情で黙り込むと自分の趣味部屋へと姿を消した。

 やれやれ、またやらかしたのかにゃ。

 こうしたママンとパパン同士で、金の使い道やパパンの健康管理を巡り口喧嘩は毎月、一度か二度は繰り広げられるもの。

 しかし、いずれの喧嘩も結局最後まで双方が心から納得する建設的な結論が出たことは稀なのにゃ。

 パパンはママンの苦言に耳を傾けてようとしないか、理解していても「性分は直せない」、と内心開き直っている。

 そして、あのように自分の夢と世界で満たされたプラモデルがいっぱいな趣味部屋に引きこもって、束の間の現実逃避へ耽る。

 ママンはパパンに呆れながらも結局最後は諦めて、パパンの機嫌が治るまで待つ。

 パパンは内心ではママンの痛烈な説教薬に沁みて、ママンへ素直になれない申し訳なさから、暫くはパパンなりに自粛するのにゃ(三日坊主で終わるが)。

 パパンは気前も良いし、ミー子やママンみたいに強引にむしゃぶりつくことはしないのが美点にゃ(実質「迷惑にゃん!」、と僕の気持ちを代弁し、ミー子に捕らわれた僕を何度も助けてくれる)。

 ただ、ママンへの態度もそうだが、イライラしている時や僕がイタズラをした時に「うるさいぞ!」、と声を荒げるなど、短気で拗ねやすく子どもっぽい所が嫌にゃ。


 [にゃあんっ]

 「おー、シャルルか。よーしよしよし」


 ママンは溺愛ぶりがうっとおしいが、怒鳴ったりすることがなくて優しいから、僕の気持ちはママン寄りかにゃ。

 だから、パパンにはもう少しママンの気苦労を慮ってほしいのにゃ。

 無人になった居間へ戻ってきたパパンに向かって甘える鳴き声を短く漏らしながら、自分は生意気にもそんな風に考えた。

 だって、ママンは自分自身と無駄なことにはケチだが、他人には寛大なのだにゃ。

 ミー子には若者らしいお洒落な服や着心地の良い下着を買ってあげるお金は惜しまないし、食べたい物が高値でもダメとは決して言わない。

 パパンに対しても、プラモデルの製作と蒐集コレクションを趣味とし、便利な調理器具を買うお金を出し、パパンの趣味を理解できないが尊重はしてくれる。

 ママンは身内には当然、小さき命に対する大いなる慈愛と抱擁に満ちた母であり、娘のミー子も夫のパパンも、僕のことも大事に想ってくれている。猫の僕でも分かるぞ。

 顔も名前も忘れてしまった生みと育ての母猫ママに感じていた、お日様みたいに温かくて、お腹が甘く満たされる幸福感を、ママン達猫屋敷家の人間が僕に思い出させてくれることになるとは……。


 *


 「……シャルル。私達は祈ることしかできないけど……きっと、ううん絶対無事に終わるからね」

 「いってらっしゃい、シャルル。よしよしだよー」


 年に一度、人間界隈で最も華やかに賑わい、切なく終わりを迎えるクリスマス(キリスト降誕祭)を次の週に控えた十二月。

 雪とは無縁の温暖地に入る寧湖町の空が、珍しく陰鬱な灰色に凍え渡る曇り日に、ママンとミー子はシャルルとのを惜しんでいた。

 パパンに愛車・ブラックジャガァを運転してもらって、シャルルを連れたママンとミー子が訪れたのは、寧湖橋駅から最寄りの小さな動物診療所『アニマル・キュア』だ。

 パパンが診療所の受付と引き渡し場で説明されながら手続きを進める中、ママンとミー子の眼差しと手はペット携帯鞄に入れられているシャルルへ注がれている。


 「まさか、もあるのですか?」

 「いえ……猫のたった一%に起きる非常に稀な合併症なので、ほぼ心配はいりませんが……シャルル君のように珍しい種の猫ではニ、三%の危険も報告されているので、念の為の説明です」

 「そんな……シャルル……あなたに何かあったら私っ」

 「ママ、きっと大丈夫だから、ね? ほとんどの飼い猫が受けているものだし、信じよう?」


 隣のミー子に励まされるも、ママンは動揺でシャルルを撫でる指が震える。

 シャルルを見つめる双眸は、胸にじわじわと溢れてくる強い感情と呼応するように濡れる。


 [にゃあん……]


 当のシャルルはママンの濡れた眼差し、ミー子らしからぬ気遣う様な態度、パパンの沈痛な表情の理由を知る由もない。

 それでも三人のただならぬ雰囲気を敏感に感じ取り、不安そうにか細い鳴き声を零す。

 シャルルの心細さを感じ取ったママンは、鞄のチャックを開けて小さな隙間へ指を滑り込ませると、シャルルの額を優しく撫で上げた。

 今生の別れを心から惜しむ様に。

 シャルルの入った携帯鞄を大事に預かった白衣の女性は、頭を丁寧下げると真っ白な扉の向こうへと消えていく。

 ゆっくり閉じていく扉の隙間から、最後までこちらを見送る涙目のママン、ママンの肩を抱くパパン、ママンの手を握りしめるミー子の姿を捉えたのを最後に、シャルルの意識は霞んでいく。

 まさか僕……にでも召されようとしているのかにゃ?

 視界を満たす眩いほどの虚白、無音になっていく世界。

 記憶にないはずの羊水のプールに浮かぶように体は軽く、段々と手足の感触すら朧になっている。

 未知なる感覚に少し心細くなるが、不思議と苦痛も恐怖も感じない。何だか悪くないのぉ……。

 心残りを強いて言うならば……別れ際のママンとパパン、ミー子のどこか悲しそうな顔くらいだ。

 何も悲しむことはないというのに。

 今の僕は痛みも苦しみも、恐怖も不安も全てが吹き飛び、普段では味わえない深く安らかな束の間の眠りを漂っているだけに過ぎないのだにゃ……。


 *


 白霞の空に艶朱の太陽が昇る、清明の新年。

 猫屋敷家の食卓に豪華に並ぶのは、パパンお手製の彩り豊富なお節料理だ。

 漆喰塗りに朱色の立派な重箱には彩り鮮やかな桜色のかまぼこやお日様の伊達巻、朱色に澄んだ海老、黒真珠さながらの黒豆と宝石トパーズみたいな甘栗、パパンの好む海老フライやヒレカツ、椎茸包揚げ、白身魚フライ、出汁濃厚のゴロゴロ筑前煮など、山盛り贅沢なご馳走に誰もが目を輝かせた。


 「あ! “お願いポーズ”してる! 写真撮らなきゃ!」

 

 一方、お吸い物みたいにあっさり出汁風味に贅沢にも穴子入りのあったか雑煮に新年酒を嗜む猫屋敷家の二本柱を余所に、酒が苦手で猫舌な娘は携帯端末を構えて笑っている。

 娘の熱い眼差しと真っ直ぐなカメラレンズが捉える先には、姿し、懸命に両手を天へ向かって上下させる橙茶色の毛玉がいた。


「新年だし、今回は特別にあげましょうか」

「シャルルも一生懸命しているもんね。刺身でいいかな?」


 パパンが細かくちぎった赤身マグロの刺身をママンは小皿に盛り、ミー子がシャルルの手前へ置いてあげた。

 可愛いの暴力! お願いポーズのアピールは成功にゃ!

 僕の十八番の一芸“お願いポーズ”(またはお祈りポーズ)を見て、僕のお願いを跳ね除けられる人間は一人もいにゃい、ふふふふふにゃっ。

 おかげで新年の朝からとびきりのご馳走・新鮮マグロにありつけたにゃ。うまうまうま……!

 昨年の十二月、シャルルにとって激動の年の幕引きを乗り越えて、今のシャルルの日常と心身は共に健やかな平和を取り戻した。

 十二月中旬前はすっかり成人猫になったシャルルのという一大事があった。

 さらに十二月のクリスマスには、ママンとミー子がドイツ旅行でいなかった影響か、シャルルが風邪で熱を出したというパパンからの連絡騒ぎもあった。

 それからというもの、ママンは以前に増してシャルルの身を一番に案じる様になった。

 もう当分お出かけも旅行もしたくない、シャルルの側にいる! という愛着が強固になった。

 ほーんと去年、特に先月は色々あったにゃ。ま、にとってのめでたい年の夜明けになりそうにゃーねこ年なだけに!

 去勢手術とかよく分からないが、僕の様な室内飼いのセレブ猫には良いものだったのだろう。

 おかげか、手術直前に僕を苛んでいたあのに特有なアレ――外から雌猫の鼻にかかった鳴き声を聞くたびに襲われた、体の奥が燃えるような激しい焦燥感や疼き、品格ある家猫にあるまじき放尿癖は、最初からなかったかのようにパッタリと落ち着いた。

 今は毎日が心身共に清々しい感覚にゃ! ……最近、心なしか白いお腹辺りがぷよぷよと柔らかく、前より重量が増した気はするが。


 「シャルルー! させてっ」

 「いやにゃあ!」

 「パパには聞いてなーい」

 

 新年を迎えても、相変わらずミー子は僕に纏わりついてはお腹をポヨポヨと撫で回し、顔を埋めてちゅーをしてくる始末。

 何かくすぐったくてうっとおしい反面、何だか気持ち良くもある不思議な感触にゃ。


 「うふふ、シャルル可愛いっ。柔らかくて、温かくて、ポヨポヨの赤ちゃんみたい〜」


 これじゃあ、どっちが赤ん坊か分からないにゃ。

 僕の気持ちを代弁してくれるパパンの嫌味も全力無視して、僕にむしゃぶりついてくるミー子の好きにさせてやることにした。


 「あらあら。シャルルはをしているのね」


 ミー子にされるがままになっているシャルルにママンは微笑ましそうに呟く。

 ママンの言う通り!僕はもう大人だから、子どもなミー子の相手をしてあげているのにゃ。


 「ミー子、シャルルを抱っこして、こっちを向いてちょうだい」


 途中、長椅子で寝転がるシャルルのお腹に顔を埋めたままのミー子に、ママンは携帯端末のカメラを構えていた。

 ミー子はシャルルを抱き上げると、先ずは自分が長椅子に腰掛けた。

 背もたれを少し下げると、膝からお腹にかけてシャルルの体を乗せて抱いた。

 シャルルは背中をミー子に預けるような体勢で“赤ちゃん抱っこ”される。

 普段の赤ちゃん抱っこなら窮屈に感じるだろうが、ミー子の羽織っている綿入りの厚手半纏はんてんがクッションとなっているため、今回はむしろ心地良くすら感じた。それに温かい。

 シャルルが嫌がっておらず、満更でもない様子にミー子も嬉しそうだ。


 「はい、撮るわよー。チーズ……」


 ミー子はシャルルのお腹に両手を回すと、ママンのカメラに向かって笑顔を咲かせた。

 同時にママンはカメラのスイッチを押して、愛娘と愛猫の最高ベスト一枚ショットを納めた。

 一瞬灯ったカメラの白熱光にほんの少し目を眩しそうに細めたシャルルは、何だか笑っているように見えた。

 猫屋敷家へ来てから初めて迎えた新年――。

 天真爛漫だが奇抜な言動の目立つ愛情表現の強烈なミー子。

 世話焼きで気前は良いが、買い物好きで短気な強面のパパン。

 母神のように穏やかで慈愛に深くも、時に悪戯なママン。

 猫屋敷家の人間は相変わらずだったが、そこに愛猫シャルルがいてくれることで、今日も彼らの日常と心は彩り煌めくのであった……。


 新年あけましておめでとうございますにゃ!




***第5話へ続く***

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