第3話『真夏の夜の魔物』

 雲一つなく澄み渡る青天から燦々さんさんと降り注ぐのは、灼けつくような陽射し。

 酷暑に喘ぐ人間を余所にミーンミーン、と己の命の躍動を誇示する蝉の大合唱。生きとし生けるものが最も活発にひしめく季節の空気を浴びる中、橙茶オレンジブラウン色の毛玉は熱された大地を悠々と闊歩していた。


「シャルルー! おいで〜。お家へ帰ろうか〜」

[にゃあん(もう終わり〜?)]

「休憩しなきゃ、ね?」


 橙茶色の毛玉こと猫屋敷・シャルルは、不意にシャルルを抱き上げたミー子に小さく鳴いて抗議する。

 猫屋敷家には庭が三箇所もある。地面に敷かれた赤煉瓦の石畳に彩りの草花とドングリの並木に囲われた正面玄関。

 邸宅の中央に設けられた吹き抜けの中庭。黄梅の花とアイビーが壁に這い咲く二階のベランダ。

 全てはシャルルのに設けられた庭であり、特別スペシャルお散歩場コースだ。

 猫屋敷の邸宅内を探索し尽くしたシャルルの最近の楽しみは、一回十数分の中庭散策へと変わっていた。

 屋内では味わえない清らかな自然の空気、懐かしき野生の香りに眩い太陽の光を浴びるのは大変心地良い。

 さらに猫屋敷家の中庭は、ママンが好みで植えたローズマリーやラベンダーの香草、栗や檸檬の苗木、風に乗って土へ舞い降りた桃色の飴玉みたいなヒメツルソバや雲みたいな綿毛のたんぽぽまで、彩り豊かに咲いている。

 爽やかな甘い草花の香りやぬくもりに包まれていると、生まれ見たことのない遥か久遠の故郷を……恐らく猫遺伝子に刻まれた懐かしき野生の大地を思い馳せるように穏やかな郷愁へ浸れた。


 [!? にゃぁんっ!]

 「わっ! こら、シャルル! じっとしてないと危ないよ。さ、家の中へ帰ろっ」


 猫屋敷家の前を不意に通り過ぎた自動車の走行音、耳を突くエンジンの轟音にシャルルは吃驚した。ミー子は腕の中で暴れるシャルルを宥めながら、慌てて家の中へと戻った。

 シャルル達の住む寧湖ねこ町は「都会の中の小田舎」として、周りは公園の緑と海辺の青に囲まれた静穏な場所だ。

 猫屋敷家も浜辺付近の住宅地の一角に建っている。とはいえ家の直ぐ目の前に道路があるため、車の出入りも多い。

 さらに住みやすい町なだけあってか、幼い子どもの姿も多く見かける。

 基本的に慎重沈着、鋭利な聴覚を備える猫にとって自動車の騒音は当然、無遠慮でやかましい子どもの声も気配も苦手だ。

 猫屋敷家では「賢いゆえに臆病なお坊ちゃん」呼ばわりされているシャルルも例に漏れない。

 そうそう子どもといえば、この前猫屋敷家にパパンとママンの友人夫婦が来訪してきた時は心の底から疲れたにゃ。


 『シャルルちゃんと遊びたーい』


 友人夫婦に伴って来た六歳と四歳の女児二人にのにゃ。

 手始めに、二人のは逃げ惑う僕を開いた部屋へと追い詰めた。

 嫌な予感に駆られた時には既に遅く、袋の鼠もといとなった僕は二人に捕らわれた。

 二人はモフモフぬいぐるみのように僕を無遠慮にぎゅーっと抱きしめ(締め潰されるかとヒヤヒヤした)、僕の両脇を掴み上げてブラブラ揺らし、敏感な尻尾や腹をベタベタと撫で回した。

 その後も二人が持参した着せ替え人形の洋服を着せられ、お飯事一式ままごとセットの玉ねぎや蜜柑(プラスチックとはいえ!)や、哺乳瓶(赤ん坊じゃない!)を口元へ運ばれて、散々玩具にされたのだにゃ。

 猫の僕に対するこの狼藉、許すまじ。以来、「怪獣子どもは危険! 近寄るな!」、と学習した僕は子どもの声と気配を感じた時点で逃げるクセを身に付けた。

 子どもといえば、も例に漏れない。

「可愛い可愛いかわいーなーシャルル君はーふふふっ」

 カナダの夏期休暇に入ったミー子は日本へ一時帰国し、八月末までの間は実家で暮らすことになった。

 当然ながらあの狭くて心地良いお部屋もミー子に占領されることになる。それはともかく。

 ミー子のことは好きか嫌いか、と訊かれたら「嫌いではない」。ただ。


 「シャルルは嫌がっているじゃねぇか」

 「そんなことないよー! なだけ。ねー? シャルル」


 ミー子はシャルルを見かけると、事あるごとに付き纏う。

 逃げ惑うシャルルに構わず抱き上げれば、「捕まえちゃった〜! シャルル! 私の可愛い癒しオアシス!」、と笑顔で意味不明な言葉を喚く。

 ミー子はキャラメルブラウンの長椅子に腰を下ろすと、シャルルを膝の上に座らせる(いわゆる“赤ちゃん抱っこ”で、両手足を伸ばした状態でお腹に両手を回されるのだ)。

 そしてシャルルに頬擦りしながら

 こうなってしまえば、唯一味方であるパパンが苦言しても止まらない。

 赤ちゃん抱っこも、頭を撫でられる程度ならいい(子猫時代から抱っこはされていたし、嫌いではなかった)。

 だが、大人猫になった今では、ずっと同じ体勢で座るのが辛くなってくるのだ(スコ座りの名猫であるスコティッシュフォールドさんほど、体が柔軟であれば別だが)。

 途中、身を捩って赤ちゃん抱っこから抜け出すと、それはそれでミー子のに余計火を付けてしまう羽目になる。


 「あっ! もう、嫌なの? シャルル。もうちょっとぎゅーっさせてよ。よし! してほしいの? チューしてあげようか!」

 [にゃーーんっ(やめてーーっ)]


 腕の中で暴れて抵抗するシャルルをがっしり抱いて離さないミー子は、シャルルの両脇を抱えて相対すると唇を急接近させてきた。

 最大限の抗議として、シャルルはミー子の唇を肉球で押し退けながら「やめてー」、と瞳を潤ませる。

 しかしママンの時と同様に逆効果らしく、ミー子はシャルルの訴えに応じない。 

むしろ、愛玩本能を掻き立てられた様子で唇を強引にくっ付けてきた。


 「可愛いー! ちゅっちゅーっ」


 必死の懇願も虚しく、シャルルの唇はママンに相次ぎミー子によって奪われてしまった。以降も、ミー子はシャルルの産毛さながらふわふわな唇から、瑞々しい桃色のお鼻へ口付けの雨を降らしていく。


 「んーふふふっ。がするー!」

 [にゃあぁっ(当たり前だにゃ。もう離してくだされぇ]


 最後には、橙茶色の毛に包まれた額へ顔を埋めて“ネコのニオイ”をくんかくんかと堪能していた。後にママンに語っていたが、シャルルのニオイは、お日様のように温かくて、メイプルシロップに似た仄かな甘い良い匂いがするのだとか(マジ?)。

 すっかり定着してしまったミー子の狼藉は、パパンとは異なる意味(主に物理的に)シャルルを猫可愛がりするママンの影響が大きかった。

 ママンがあまりにも赤ちゃん言葉でシャルルへ語りかけ、人間の子どもにするのと同じように抱擁ハグ口付けチューなどの身体接触スキンシップを激しくするからだ。

 ネコのニオイがするだのといった奇妙な台詞や、デレデレに緩み切った不気味な笑顔や笑い声は、ミー子自身の特異性に因るものだが。

 まあ、それもこれもアイドル猫王の血を継ぐ息子である僕の魅力が、ママンとミー子を骨抜きにしているからだと思えば仕方がない。

 我に言い聞かせて納得しようとするが、やはり可愛がられ愛されすぎるのも考えものだにゃ。


 「猫屋敷さん家の猫に生まれ変わりたいわね〜」

 「猫だから一日中寝て寛いでいたって、高級ご飯も新鮮な飲み水も、おやつまでもらえるし、家事もしなくたって可愛がられて、幸せだわ〜」


 ママンが招待した町内のママ友一同は揃って、優雅なセレブ猫である僕の贅沢な暮らしを羨んだ。

 まったく、これだから人間は何も、ネコの気持ちなんて分かっていないったら。

 確かに僕は猫屋敷家に引き取られて、ペットショップ時代では味わえなかった何一つ不自由のない悠々自適な生活に満足している。

 しかし、美しい“セレブ猫”だって楽じゃあないのにゃ。僕の場合、「天性の愛らしい美貌と魅力」に多大なを伴うことも、ちゃあんと知ってもらいたい。


 「見た所、尿ですね」


 ある日、パパン達に動物診療所へ連れて行かれた僕は、お医者さんに唐突に告げられた。

 白髪混じりの灰色の髪に、賢そうな眼鏡の奥で穏やかに微笑む優しいお医者さん曰く、僕のオシッコの通り道が狭くなってオシッコを出し辛くなっている状態らしい。

 難しい用語はさておき、オシッコの中に結晶を作りやすい成分が濃くなり、結晶が多いと最悪の場合、石になって道を完全に塞いでしまう恐ろしい病だとか。

 道理で最近、頻繁に尿意を催すわりには出が悪く、しかも排尿時は鈍い痛みに唸ってしまった理由が腑に落ちた。


 「軽症なので注射で投薬し、安静にさせていれば良くなります」


 幸い、軽症で発見が早かったおかげで、今回は投薬と安静で治癒すると聞き、僕も猫屋敷の皆も胸を撫で下ろした。

 特に僕を案じていたママンは気が緩んだのか、お医者さんの台詞にほろりっと涙を浮かべ、僕の背中を労るように撫でた。


 「ただ、猫の尿路結石症は生活習慣にも影響されます。できれば今後は、人間と同じ食べ物を与えないでください。ハムや焼豚のように塩分や脂質の過剰な食べ物は、尿に結晶を作りやすい成分を増やしてしまうので」


 シャルルの尿路結石症を治療するための投薬に加え、再発防止のために生活習慣の見直しも助言された。

 お医者さんの言葉に心当たりのあるママンは、強く頷きながらパパンに目配せしていた。要するに、今回の僕の尿路結石症はハムや焼豚の食べ過ぎが祟っているのだ、と理解した。

 言われてみれば、気前の良いパパンは毎夜必ずといっていいほどお気に入りの高価な焼豚やハムを献上してくれた。

 あまりの美味しさに「もっともっと」、とねだる僕にさらに気を良くしたパパンは二切れ目を与えてくれる。

 加えてほぼ週五回以上はシュークリームだのロールケーキだのといった洋菓子の生クリームも一舐めくらいお裾分けしている。

 あのたまらなく甘美な味わいを、まさか二度と堪能できないというのか! まさに禁断の果実を目の前にぶら下げておいて、「決して口にしてはいけない」、と釘を刺すとある神様のように残酷無慈悲な仕打ち!

 シャルルは蛇の生殺しな日々を想像して絶望感に震えた。

 しかも、シャルルの病院沙汰は尿路結石症だけの件に留まらなかった。


 「はーい、シャルル。じっとしていてね。耳掃除を始めるよ」


 今度は耳の痒みを感じ、耳を足で蹴って掻く癖が付いた頃に、シャルルは再び診療所へ連れて行かれた。

 尿路結石症になってはいなかったが、今回の問題はシャルルのにあった。

 シャルルはアメリカン・カール特有の愛らしい小さな巻き耳だと、空気の通り道が狭くなるため湿気と細菌が溜まりやすく、炎症と痒みを引き起こすことが分かった。

 以降、お医者さんによる定期検診と耳洗浄に加え、パパンとママンによる『毎日の耳掃除』が僕に課せられた。

 家での耳掃除の時間は、子どもの歯磨き時間、嫌いな野菜入りの夕飯並に過酷だった。

 先ずはママンが嫌がって暴れる僕を抱いて押さえ、そこでパパンは左手で僕の耳を押し広げながら、耳洞へ洗浄液をニ、三滴入れ、柔らかな綿棒やティッシュで汚れを拭き取る。


 「うおっ! 液体が飛んできたっ。おい、じっとしていろぉ」


 洗浄液なるものは耳に入ると、ひんやりした感触が無性にくすぐったくて、ほんの三秒の猛烈なむず痒さと微かに沁みる痛みが襲う。

 あまりの違和感にブンブンと頭を振って追い払おうとすると、パパンの軽い叱責まで降ってくる。

 そして、お世辞にも丁寧とは言い難い無骨な指がティッシュ越しに耳の奥へ突っ込み、中を擦り付ける圧迫感と痛みに手足をバタつかせた。

 綿棒も綿棒で、今度は無性に耐えがたいむず痒さが不快だ。

 特に炎症というものがひどい箇所に綿棒の先端が当たると、あまりの痛痒さに思わずママンとパパンの指に齧り付いてしまうこともある。

 僕のためにしている事だとはいえ、耳掃除はまさに拷問に近い。


 「シャルルはどんな顔も可愛いなあ」

 「可哀想カワイソ可愛いってものかしら」

 「おいミー子! 写真なんか撮ってないで、追加のティッシュ持ってこい! お前もしっかり抱いて押さえていろっ」


 一方、僕の辛さも気持ちも知る由のないミー子は呑気に笑いながら、携帯端末スマートフォンのカメラを構えている。

 まったく、不謹慎にもほどがある。猫の不幸を目の当たりにして喜び、辛そうな顔を「可愛い!(僕が可愛いのは認めるが)」などとぬかしながら、挙句の果てには写真を撮るなどと。

 しかも、最も僕を憐れみ慰めてくれるママンですら、ミー子が撮影した「耳掃除をされるシャルルの顔」を見て、、と興奮しているではないか。

 やはり、この母親あってこの娘ありらしく、ミー子とママンの可愛いの感覚センスは本質的には同じようだ。

 かくして、僕の忍耐力と心を鬼にしたパパンとママンの献身の甲斐あってか、耳の痛痒さはだいぶ治ってきたが、やはり釈然としないものがあった。

 しかも、耳掃除は毎日しなくて済むようになったものの、猫にとっては耳掃除に匹敵する屈辱を味わう日があった。


 「ミー子。シャルルをしっかり押さえていてね。今なら微睡んでいるから、大人しいわ」

 「分かった。準備できたよ、ママ」

 「よし。じゃあ、シャルル。今からを切ってあげますからね」


 猫の爪切り――それは猫の武力と強さを象徴する矜持プライドの結晶である爪を短く切り落とす、という非道な行為。

 室内飼いの家猫は爪が伸びたら短く切り揃えるものだとか、ママンとパパンは言っていたが、そんな理由で納得できるはずもない。

 そもそも爪切りをするようになったのは、僕がママンやミー子に抱っこされて抵抗した際、二人に傷を負わせてしまうからだ。

 伸びすぎて尖った爪は二人の皮膚を掠め、もしくは食い込むことで、薄いミミズ腫れを作ってしまった。

 二人は痛がったものの、自業自得なのは自覚していたからか、引っ掻いた僕に怒ることはなかった。

 ただ安全を考慮したママンとパパンは、僕の爪が伸びたら切り揃えることを決めた。詰まる所、人間の都合である。

 個猫的個人的には、彼の爪切り非推奨派の愛猫専門家と名高いエムダ・トーモヒコの意見に僕は大いに賛同である。

 エムダ曰く、猫は飛躍したり、壁によじ登ったりする際に爪を引っ掛けるため、爪を短くすると爪の長さの想定範囲を見誤り、転倒に繋がる危険もあるという。まったくもって正論である。


 「シャルル! 大丈夫だよー。よーしよしよしよしよしっ」


 特に左手親指の爪を切られるのが嫌でたまらない僕は、ここばかりは身を捩って激しく抵抗した。

 一方ミー子は僕を宥めるつもりか、僕の好きな場所性感帯である額を優しく撫で、僕の瞳を手のひらで覆ってきた。

 ミー子曰く、爪を切っている場面を見せない方が猫は怖がらなくて済む、というテレビの受け売りらしい。

 確かに髭の毛先くらいの恐怖心は和らいだ気がするが、爪切りが嫌であることには変わりない。


 「ほら、終わったよ。お疲れ様ね、シャルル」

 「これでシャルルも野蛮猫からお洒落なの仲間入りだね」


 文明猫って。お花や果実の甘ったるい香りの猫シャンプーに丁寧なヘアカット、爪を切り整えて、目のチカチカするカラフルな洋服を着て、高貴なセレブ猫になった気でいる人間の言いなり猫と同じにされたくないにゃ。

 まあ、とはいえ、耳掃除は健康のために、爪切りは触れ合いのために。

 猫屋敷家から一身に浴びせられる愛情は、僕が真の愛されセレブ美猫である僕の魅力が為せるもの。これも愛される猫の宿命。

 可愛がられ過ぎるセレブ猫も見えない所で苦労が絶えないものにゃ……。


 *


 七月の最終日――鮮やかな藍紫と橙桃の色彩が溶け合う黄昏の下。

 赤と白の提灯に仄照る公園と浜辺にひしめく賑やかな人の喧騒。真夏の一大祭事イベントの空気を、猫屋敷家の内外に潜む毛玉達は毛皮と髭で感じていた。

 ついにあの噂の“災厄の日”が訪れてしまった。


 「どうかな? 似合う? ママ」

 「とっても可愛くて綺麗よ、ミー子。さっそく写真を撮りましょう」

 「ありがとう! あ、シャルルと一緒に撮ってもらっていい?」

 

 冷房機エアコンの冷風がしっかり行き届いた狭い部屋にて。

 シャルルは、かつて初めての粗相によってパパンから手酷いお仕置きを受けたの上にいた。

 清潔な布団に広げられた藍紫色の彩鮮やかな花飾りや、薄桃色の紐帯、繊細な金箔を縫い散りばめた鮮やかな紅色の蝶々帯とお揃いの紅色生地に金魚が泳ぐ巾着。

 絢爛とした物々へ興味津々に鼻を近付けていたシャルルをミー子は不意に抱き上げた。

 忌まわしき記憶の眠る部屋に設置された洋服箪笥の鏡戸に映り込むのは、髪も洋服もお洒落に着飾り、別人のように輝くミー子の姿だった。

 藍葡萄色の布地に、鮮やかな紺色の縄紐で模様を編み込んだ淡い桃色の手毬柄の裾も丈も垂れ長い浴衣。

 猫の眼から見ても中々に色彩と柄の美的感覚がイケてるとシャルルは感心した。

 特に転がし心をくすぐる手毬柄の曲線が何ともたまらず、思わず肉球を伸ばしそうになる。ミー子の可愛いの感覚ツボはともかく、服の趣味は悪くない。

 某・和風恐怖映画に登場する幽霊少女さながら長ったらしい黒髪をミー子は後頭部で一つに結い上げ、淡い藍色と紫色が咲いた花飾りのかんざしを刺している。

 さらに紅桜桃さくらんぼ色に差した艶のある唇、長く縁取られた黒い睫毛、白い透明感のある肌色から、ミー子が柄にもなく化粧しているのが分かった。

 馬子にも衣装、しかし猫に小判。

 ミー子もこのぐらい着飾れば、年相応の女子らしく可憐で猫目からも立派な容貌だ。

 しかし、実年齢よりも内面が幼く夢見がちなオタクで、そのうえ二次元の男にばかり熱を上げているミー子は己の素材、と己を輝かせるお洒落道具の価値を分かっていない。 にゃんとも愚かで滑稽な話だにゃ。

 冷ややかに失笑するシャルルの心内を知る由もないミー子は、浴衣姿のままシャルルを抱き上げると、カメラへ向かって屈託なく笑う。


 「シャルル、チーズ! ちゅっ」


 仕上げは抱っこしたシャルルのモフりとした右頬へ接吻するミー子に、良く分からなさそうに目を丸くするシャルルの写真が収められた。

 綺麗な浴衣で大人っぽく着飾っても、普段通り無邪気にシャルルを求め、ママンと一緒でキス魔なミー子にシャルルは呆れながらも諦めていた。

 まったく、特にミー子のように祭りへ呑気に浮かれてばかりの人間達はお馬鹿ばかりだにゃ。

 今年の夏こそ恐怖のが寧湖町へ直撃するかもしれない危機にあるというのに。


 『今年も寧湖町恒例の夏祭りは開催されることになった! この日の敵襲に備えて安全基地の守りと避難を強化するつもりだね』


 最近、庭のお散歩の際に知り合った近所の外猫達から親切に教えてもらった話だ。

 寧湖町の界隈で暮らす外猫達は家に属さず、寧湖町内を転々と自由に歩き回って過ごし、をパトロンに食い繋ぐ野良猫だ。

 灰銀グレイシルバーの長毛を靡かせる美雄猫なペルシャ猫の『ペル吉』。人懐っこいのんびり屋の小柄な茶錆猫『チビ子』。

 二匹は共にキャットフードに新鮮な水、雨風凌ぐ立派な車庫ガレージ内に寝床を提供してくれるパパンをパトロンに暮らす外猫だ。

 パパンを主にしつつ、他にも幾つか抱えている他所のパトロンの家も出入りしているらしいが。

 野良育ちにしてはおっとり無防備故に怪我の絶えないチビ子の傍を離れないペル吉は、クールで物知りな頼りになる兄貴系先輩猫である。

 寧湖町界隈にも通じているペル吉は、近所に暮らす他の猫達や人間達の話もシャルルにたくさん教えてくれた。

 真夏の寧湖町にまつわる“恐怖の夏夜”の噂がその一つだ。

 毎年、寧湖町の浜辺公園では、雨天を除いて必ず夏祭りが催される。

 夏祭りでは、浜辺公園全域に展開される縁日に、主に浴衣姿の人間達が寧湖町内と他所からも大勢訪れ、自由に飲み食い遊び騒ぐ特別な夜。

 夏に酔った人間達による狂騒乱舞の渦中からは遠い場所にあるシャルル達だが、他猫事では済まない問題があった。


 『去年も訓練段階っぽく、音だけはして何も起きなかった……でも、今年こそ訓練ではなく“本番”が来る可能性が高いわ……怖いわ』

 

 僕よりも寧湖町に長らく暮らし、通じているペル吉先輩とチビ子さんは、普段とは違うただならぬ雰囲気を優雅な髭と毛皮でピリピリと感じ取っている。

 毎年、乱痴気騒ぎの夏祭りに乗じて、何者かによるが起きるのだと。

 それも区画どころか、寧湖町そのものが破壊されかねない大規模な災厄が想定されるとか。

 証拠として、夏祭りの盛り上がりと人間達の熱が頂点に達する時刻になると、けたましい爆発音が立て続けに響き渡る。

 爆発音は寧湖町全域から町の外へ、猫達が避難している家の中や穴蔵の壁を通過するらしい。

 猫達の中には音を聞いたショックで、自慢の聴力に一役買う鼓膜を破壊された者や、ショックで放心状態になる者が多発したらしい。

 人間の夏祭りの災厄とその恐ろしさは、寧湖町中の猫犬達へ瞬く間に広がった。

 そして、猫達の間では謎の爆発音の正体について様々な噂な憶測も交錯したらしい。


 『寧湖町の人間と浜辺公園の情報に通じている知的エリートのボス猫、『ミスター・フロイド』も危機感を募らせているにゃ』


 僕にとっては雲の上の存在である『フロイド氏』が、猫達の噂や意見を分析・集約した爆発音の仮説とは以下の通りにゃ。

 夏祭りの騒ぎに便乗した犯罪集団と警察、一般人の三つ巴の熾烈な争いで使用された爆弾や銃の音ではないか、と。

 爆発音の元凶たる犯罪集団の正体も、暴走族や反社会的組織、タチの悪いスリ集団、もしくはテレビで話題になった火元の管理を怠る非合法商売人だとも。

 さらに最近になって浮上してきたのは、『』説らしい。

 未だ明確な根拠に足る情報は少ないが、万が一に備えて浜辺付近で暮らす外猫は、既に安全基地へと避難したらしい。

 まったく、人間とは猫達の気も知らず、にゃんと恐ろしくて迷惑な所業を愚直に繰り返すのか。

 争い事も実験も他所でやっておくれ。猫の身にもなって考えてみるにゃっ!


 「準備も整ったし、お祭りに行きましょうかミー子」

 「うん! また後でねー! シャルルっ。ちゅっ」


 一方、浴衣姿で呑気にはしゃぐミー子を連れてママンは夏祭りの会場へ向かおうとしている。

 幸い、人混みと喧騒を嫌うパパンは僕と一緒に留守番を任されたらしいが……ママンまであの危険な夏祭りへと赴くなんて。

 もしも、ペル吉先輩が言っていた最悪の可能性が、今夜に現実となってしまえば……いやいや、考え過ぎはよくにゃい。

 きっとママンは無事に帰って来てくれる、普段と変わりなく慈愛に満ちた瞳に僕を映しながら微笑む。

 後……まあ、あの呑気で無邪気なミー子が、可愛い大好きだと喚きながら(鬱陶しいくらい)抱きついてくる小娘に不幸が降りかかるのも到底想像つかないし。

 玄関口でミー子に何度もチューされた右頬を毛繕いで拭きながら悶々としていたシャルルは……とりあえず“寝る”ことにした。

 悩んでもどうにもならない時の一番良い解決策は、とりあえず“寝る”ことに尽きる。

 僕が目を覚ます頃には、夏祭りも収束し、ママンとミー子は帰って来て、いつものしつこい愛情表現スキンシップをかましてくるだろうにゃ……。


 *


 プッ……パパァーーーン! パラパラパラ……!


 午後八時頃――遠くでヒュルルルゥ〜! と何かが竜のごとく空を翔け昇ったような唸り声を遠くから聞いた直後。

 上空に眩い火花が炸裂し、寧湖町中は熱光に包まれた。

 太鼓のようにけたましく律動的リズミカルな爆発音は一度だけでは止まず、繰り返し響き渡る。

 爆発音の猛威は壁を突き刺し、猫屋敷家内の空気を熱く痺れさせた。


 [にゃあぁああぁぁっ]


 居間にある長椅子で心地良く寝転がっていたシャルルは、突如響いてきた爆音に叩き起こされた。

 ペル吉先輩から聞いた“災厄”がついに我が家にも降りかかったのか! おちおち寝ている場合ではにゃい!

 驚きと恐怖で半ば混乱したシャルルは、今も繰り返し響き渡る爆音に度肝を抜かれ、震える手足が滑り転びそうになりながらも、慌てて二階へ駆け昇る。

 ミー子の部屋にある学習机の下へ素早く身を滑り込ませ、右奥にある空間へ隠れ伏せた。

 部屋の扉と学習机の奥行きの広い引き出しが盾となり、爆音からシャルルを防御してくれる。

 学習机の下と奥の空間は、シャルルにとって猫屋敷家内での唯一の安全基地だ。

 ミー子の愛情表現やパパンとママンによる耳掃除などに耐えかねた際、ここへ潜り込めばさすがのミー子達もシャルルに手出しできない。

 それは今回の場合、夏祭りの爆発騒ぎに対しても効力を成したことにシャルルは肩を撫で下ろした。音が完全に止むまでは暫く安全基地に隠れるとしよう。


 [ふぅ、一先ず安全安心は確保したが……ペル吉先輩にチビ子さん……それに、ママン……ついでにミー子は無事なのだろうか]


 猫屋敷家のように頑丈な防壁も警備も薄い基地に避難中のペル吉達他の猫は、の攻撃にの爆音被害を防ぎ切れているのか。

 さらに夏祭り会場という恐るべき災厄の渦中へ飛び込んでいったママンとミー子の安否も気になった。

 もしも、あの最悪の可能性――核爆弾投下の本番があるとすれば、ペル吉先輩達だけでなく、いつも傍にいてくれたママンとミー子にあれば――猫屋敷家には、パパンと僕しか残らなくなるのだ。

 いつも僕の毛をブラッシングし、新鮮なご飯とお水を飲ませ、トイレを綺麗し、僕を褒める甘い言葉で優しく微笑みながらお布団の上で眠らせてくれる慈愛に深いママンがいなくなったら――。

 それに、ミー子は――。


 『大好きよ、シャルル――』

 

 ミー子は年甲斐もなく無邪気でやかましく、僕が迷惑しているのも関係なく構い倒し、抱っこにチューばかり迫ってくる。

 普段はうっとおしいばかりのミー子だが……。

 夜中に目が覚めてしまって温もり恋しくてゴロゴロと鳴く僕を、同じ時間帯に目を覚ましたミー子は、布団へ招いて甘えさせてくれた。

 熱烈な抱っこもチューも暑苦しいが、僕の喉元や額、お腹や鼻骨辺りの指按摩マッサージの力加減は絶妙で気持ち良いし。歌い聞かせてくれるシャルルの替え歌の内容も、明朗に透き通る声色も中々に愉快で悪くないし。何よりも。


 『シャルルいじめちゃだめー』

 

 一度だけでなく、二度もミー子の布団や靴をオシッコや糞で汚してしまった際、怒り心頭に発するパパンから、ミー子は僕を庇ってくれた。

 初めての粗相の件だけでなく、ママンに気にかけられるミー子にヤキモチを妬いたことから二度目はわざとやったことも、僕がつい引っ掻いたり、噛みついてしまったりしたことも、いつもミー子は笑って許してくれる。

 

 『もう、シャルルに焼豚やクリームをあげちゃダメって言ってるじゃない! パパ! シャルルには健やかに長生きしてほしいんだから!』

 

 一度だけ軽度の尿路結石症に罹った僕を治療してくれたお医者さんの指摘を受けた後も、結局僕に焼豚やハムを与えることをやめられないパパンを率先して諫めたのもミー子だった。

 焼豚やハムを嗜む僕には目の上のコブな注意だが、言うなれば僕の健康をおもんばかっての発言だったのだろう。

 こうして振り返って思い出すと、実に奇妙で不思議な感覚にゃ。

 あれほど疎んでいたはずのミー子の存在にも、奉仕してくれるパパンやママンとはまた違った安らぎを瀬戸際になって見出せたとは。

 確かにミー子は自由自儘マイペースな娘だが、シャルルへの“揺るぎなき愛”を寄せてくれる……僕にとってパパンとママンと同じくらい大きな存在なのだ、と。


 [――みゃん……っ]


 暗く狭い穴蔵のような学習机の下奥で息を潜ませながら、シャルルは普段らしからぬ感傷に浸り、たまらずか細い鳴き声を零した。

 そうしている間に、シャルルの心臓と鼓膜を苛んでいた炎爆音は鳴り止み、灼夏夜の静寂のみがシャルルを包み込んだ。


 *


 「ただいまー! パパ! お土産だよー」


 炎爆の炸裂音が止んでから十五分程度経った頃、猫屋敷家の玄関には天真爛漫に微笑むミー子の姿があった。

 夏の高揚に火照った頬の左側、と桜桃唇の端に薄らと付いた赤澄色の林檎飴の欠片。

 右手に下げられた袋から濃厚に漂うタコ焼きやイカ焼きソースの芳しい香り。

 左手に抱かれた人気携帯ゲームの猫のキャラクターぬいぐるみや青白く光る電球ソーダ。

 ミー子が祭りの縁日をたっぷり満喫してきたのは一目瞭然だ。

 ミー子の満足げな笑顔とお土産のタコ焼き達を目にしたパパンも上機嫌に笑い、ママンは二人を微笑ましく見つめる。


 「ところで、シャルルは? 姿が見えないけど……」

 「ああ、シャルルの奴な……」


 帰って来ても一向に姿を見せないシャルルをママンとミー子は心配した。

 一方パパンは呆れと憐れみの入り混じる曖昧な苦笑を零しながら、二人をシャルルのもとへ案内した。


 「あれぇ? こんな所にいたんだーシャルル。何で?」


 いや、ミー子こそ何でにゃ?

 あの尋常ならぬ爆発音を鑑みれば、ミー子とママンが心身共にこんなピンピンしているはずはない。

 しかし、ミー子達三人の様子も反応も、シャルルには予想外だ。

 学習机の下に隠れたままのシャルルのもとへ案内したパパンは悲壮な表情どころか、むしろ心底可笑しそうに学習机を指差している。

 隣のママンも口元に手を当てながら、シャルルを憐れみ慈しむような苦笑を零す。

 ミー子に至っては、シャルルの引きこもりの理由をパパンに訊くと同時に学習机の下引き出しを横へずらし、後ろ奥の壁に背を預けて隠れていたシャルルへ手を伸ばす。

 シャルルの行動の理由、シャルルを恐怖させていた原因に既に察しがついているパパンの回答を聞いたミー子は――。


 「にゃんて可愛いのーシャルルちゃんったらー! そんなに怖かったのかにゃ?」


 ミー子は、心身の記憶に刻まれた恐怖と衝撃に強張ったままのシャルルを机下から強引に引っ張り出すと、いつものようにむしゃぶりついてきた。

 鬱陶しそうに双眸を細め、肩を竦めるような仕草を見せるシャルル。

 しかしミー子はお構いなく頬擦りし、ふわふわの頬から額、桃色の鼻と唇へチューを落としていく。

 むしろ普段以上に勢いを増したミー子のベタベタな愛情表現に、シャルルは段々と馬鹿らしい気分になってきた。


 「よしよーし。そんなに怖かったんだねぇ。は去年より気合いが入っていて煌びやかだっただけに、音も迫力も猫のシャルルにはきつかったんだねぇ」


 日常茶飯事的に内外でも諍いや戦いの絶えない人間からすれば、たかがだ、と馬鹿馬鹿しいのかもしれない。だが、しかし!


 [ふーーんっ!ひとの気も知らないで! ヘラヘラ笑ってんにゃーよ!)]

 「あれ? 怒ったのー? シャルルゥっ」


 やはり、ミー子はうっとおしいままにゃ!(ママンは別として)。心配して骨折り損だにゃ!

 甲高い唸り声をあげて抗議するシャルルとは対照的に、やはりミー子は悪辣なほど無邪気に、甘ったるい笑顔を咲かせていた。

 まさに花火さながら爛漫に、騒がしく、シャルルを愛弄あいろうしながら。

 一方のシャルルのみならず、寧湖町界隈に通じた猫達ですら、隠れている限りはきっと永遠に気付かないだろう。

 自分達が危険な犯罪集団や核兵器の類だと信じている“真夏の夜の魔物”の正体が、灼夏の夜空を彩り咲くであるという世界の真実に。


 こうして、シャルルにとって初めての夏の空下の日常を彩った夏祭り花火の夜は波瀾万丈に明けていく……。



 ***4話ヘ続く***

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