時枝奇想図譜
涼澤
1章 3月3日
序
名を呼ばれた。
軽やかで優しい声。
口数のあまり多くない彼の声をあとどれほど聞くことができるだろう。
幾度、呼んでもらえるだろう。
あと何度、こうやって名を呼びながら探しに来てくれるだろう。
こちらの姿を見つけるといつも嬉しそうに笑う。
何年経っても変わらぬその笑顔の目尻に刻まれた皺の深さに驚いたのはいつだっただろうか。
彼の時間はあと僅か。
残された日々は瞬きの間に過ぎ去ってゆくのだろう。
いつまでも、何度でも、その声を聞いていたい。
だから、口を噤む。
何度も呼ばせてしまう。
大好きな声を記憶に刻むため。
大切な名を己の身に刻むため。
それでも満たされることはなく、ただただ寂しさばかりが募るのだ。
「はな」
声の主は春の庭に立っていた。
そこへ、舞う花弁のように、どこからともなく蝶が現れた。
晴れた冬の空を透かしたような翅の蝶だった。
「――はな、頼みがあるのだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます