時枝奇想図譜

涼澤

1章 3月3日


 名を呼ばれた。

 軽やかで優しい声。


 口数のあまり多くない彼の声をあとどれほど聞くことができるだろう。

 幾度、呼んでもらえるだろう。

 あと何度、こうやって名を呼びながら探しに来てくれるだろう。


 こちらの姿を見つけるといつも嬉しそうに笑う。

 何年経っても変わらぬその笑顔の目尻に刻まれた皺の深さに驚いたのはいつだっただろうか。


 彼の時間はあと僅か。

 残された日々は瞬きの間に過ぎ去ってゆくのだろう。


 いつまでも、何度でも、その声を聞いていたい。

 だから、口を噤む。

 何度も呼ばせてしまう。

 大好きな声を記憶に刻むため。

 大切な名を己の身に刻むため。

 それでも満たされることはなく、ただただ寂しさばかりが募るのだ。


「はな」


 声の主は春の庭に立っていた。

 そこへ、舞う花弁のように、どこからともなく蝶が現れた。

 晴れた冬の空を透かしたような翅の蝶だった。



「――はな、頼みがあるのだ」



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