第三話
クレイグ死す――マーシャのもとに
「先生! 大変です!」
まだ朝日が顔を出しかけたくらいの早朝だ。
大声で呼ばわりながらドアを叩くデューイである。桜蓮荘の店子であり、マーシャの暮らしぶりを熟知する彼が、この時間のマーシャが熟睡していることを忘れるはずもない。
よほどのことが起きたのか――いつものごとく、デューイが部屋に近づく気配には気付いてはいたし、尋常ならざる出来事が起きたのだということも察する。本来のマーシャならば寝台から跳ね起きて対応するところなのだが、どうにも頭と身体が重たい。二日酔いには滅多にならぬ性質のマーシャにしては、珍しいことだ。
差し込む朝日に目を細めつつ、のろのろとドアを開いたマーシャは、しかしデューイの言葉に愕然とすることになる。
「とにかく、かい摘んで聞かせておくれ」
「はい」
この日パン屋の仕込みの手伝いをすることになっていたデューイは、家を出て一路目的のパン屋へと向かっていたという。その途中、近道をしようと入った路地の奥から大きな悲鳴が聞こえてきた。なにごとかと近づいてみたデューイの目に映ったのは、腰を抜かす浮浪者と、全身血まみれになって倒れ伏すクレイグの死体だった。
何か事件が起きたときは、現場を荒らさない。それをわきまえているこの聡い少年は、浮浪者に誰も現場に近寄らせないよう言い含め、踵を返して駆け出した。途中、通行人を捕まえて王国軍への通報を頼むと、自分はマーシャの元へ向かったのだった。
そこまで話すと、デューイは沈痛な面持ちで項垂れた。顔面は蒼白である。いくら賢いデューイとて、顔なじみであるクレイグの無残な死体を目の当たりにしたのだから無理もない。一四の少年には酷な出来事である。
「よく知らせてくれた。ありがとう」
と、マーシャがデューイの頭を優しくなでた。
「お前は、今日はゆっくり休むといい。パン屋には私から伝えておく」
「すみません、先生」
(あとでカミンのおかみさんに頼んで、滋養の付くものでも作らせよう)
そう考えながら、マーシャは現場に向かった。
クレイグの死を悼む感情はある。しかし、マーシャの心中の多くを占めたのは、
(あれほどの腕前を持つ御仁がそう簡単にやられるだろうか……?)
という疑問だった。
マーシャが現場に辿り着くと、そこには人だかりができていた。しかし、デューイの言いつけは守られていたようで、野次馬は死体を遠巻きに眺めるのみであった。幸いというべきか、王国軍の警備部はまだ到着していない。
「失礼する」
マーシャが人だかりの中心に近づくと、そこには右手に抜き身の剣を持ったまま、仰向けに倒れるクレイグの変わり果てた姿があった。
「これは……なんと惨い」
刃物による他殺体であることは一目瞭然だった。全身に十数ヶ所の切創。致命傷となったのは、ぱっくりと割れた喉の傷か。凶器は鋭利な細身の刃物だ。わずかな時間に、マーシャはそう判断を下した。
次に、死体の周りの地面を見やる。舗装されていないこの路地裏には、はっきりとした足跡が残っていた。並外れた体躯を誇るクレイグの足跡は、特にわかりやすい。雨で流されていないことから、昨夜の雨が止んだ後にこの犯行が行われたらしい。
「ううむ……」
マーシャが唸る。クレイグほどの男だ。不意を突かれたか、それともよほどの大人数にやられたか。初めはそう考えていたマーシャだが、現場を詳しく検分するうちその考えが誤りだったことに気付く。
(相手はひとり、おそらく中背の男か。しかも――)
足跡や死体の状況から判断する限り、クレイグは「正面から挑んできた敵に対し、剣を抜いて正々堂々と戦い、一方的に敗れた」としか思えぬのである。
だとすれば、相当の使い手である。その見た目から勘違いされがちだが、クレイグは決して膂力のみに頼るような体力馬鹿ではない。郷里の道場で七年間学んだという剣術のほうも本格派で、力と技を兼ね備えたつわものだった。
ゆえに、クレイグを易々と打ち破るほどの腕前を持つ者は多くないはずだ。マーシャは現役代公式非公式を問わず幾多の相手、そして流派と対戦し、数多くの試合を目にしてきた。ゆえに王都で名の通った武術家、流派とその特徴は大概把握しているのだが――
(どうにも解せぬ)
のである。
力量的にクレイグを楽々と殺してのけるような実力者に関しては、まったく心当たりがないわけではない。マーシャが疑問に思ったのはそこではない。
足跡やクレイグに残された傷を見ても、下手人の『型』が読めないのだ。クレイグの場合、それがわかりやすい。どっしりと構えて、重たい一撃を放つ戦い方であることは、普段の彼を知らずとも足跡から推測できよう。しかし、この相手はまったくそれが読めないのだ。足の運びも剣筋も、まるきり変則的で掴みどころがない。マーシャにも、このような剣を使う流派はまったく心当たりがない。
と、やや遠くから蹄の音が響いてくる。通報を受けて馳せ参じた警備部の面々であった。
その中に、見知った顔がひとつあるのを認めたマーシャは、
(もはや、ここで私がなすべきことはない)
と、そそくさとその場を退散した。
桜蓮荘へと帰り着いたマーシャは、デューイが暮らす部屋に立ち寄ってみる。
デューイは不在であった。留守番をしていた小さな兄弟たちに訊くと、少し休んだのち予定通りパン屋に働きに行ったのだとか。気丈な若者だと感心しつつ、一番年かさの妹に
「おかみさんが仕事から戻ったら、こいつを渡してくれ」
と、幾許かの金とメモ書きを渡す。
自室に戻ったマーシャは、ベッドに倒れこんだ。
とたん大きな虚脱感に襲われ、目を閉じて眠った。昼過ぎに目を覚ましたマーシャは、今更ながらに近しい人間の死を実感し、一筋の涙を流す。
ふと、亡父のことを思い出す。
マーシャの生まれたグレンヴィル家は、中流ではあるものの、長い伝統を持つ武門の家柄である。また、多くの剣豪を輩出したことで知られていた。
マーシャの父、ユージーン・グレンヴィルもまた、名の知れた剣士であった。寡黙で無駄なことをほとんど口にしない男であったが、家族を深く愛していただろうことは幼いマーシャにも充分に感じられた。自分に憧れたひとり娘が女だてらに剣を学びたがったことにも反対せず、時には自ら剣を取ってマーシャを指導することもあった。
身体の発育もよく、なにより天性の才能に恵まれたマーシャは、並の人間とは比較にならぬ速度で腕を上げていった。
さて、マーシャが十七歳になった年のことだ。マーシャの人生を大きく変えることになった事件が起きた。マーシャの父が、決闘で敗れて果てたというのである。
決闘の理由は定かでない。なぜなら決闘相手も、その時の傷がもとで数日後にこの世を去ったからだ。
この国において、決闘というものは決して違法なものではない。しかし、ユージーンが行ったのは、立会人なし、しかるべき届出なしという法に定められた決闘の要件を満たすものではなかった。王国軍によって調査が行われたが、状況的にみて決闘は尋常の立会いであると判断され、結局双方お咎めなしとされた。
ちなみに、もとから身体の弱かったマーシャの母は、心労で父の後を追うようにして亡くなっている。
納得がいかないのはマーシャである。絶対的強者であると思っていた父親が、決闘で敗れたというのだから。実は、この時点でマーシャの力量は父を凌駕していたのであるが、長らく父と手合わせしていなかったため、彼女自身そのことには気が付いていなかった。
ともかく、血気盛んであった当時のマーシャは、父の敗北を大いに悔しがった。噂に聞こえたグレンヴィル家もこの程度か、という声が各所から漏れ聞こえてきたからである。そしてマーシャは、一つの決断をする。自らの剣をもって父の名誉を回復しようと考えたのだ。
武を尊ぶシーラント王国であるから、女だてらに武術を学ぶ者は少なくない。しかし、武術の世界というのはやはり男性の世界だ。女性が参加できる大会、また女性のみで行われる大会はあることにはあるが、それらの大会はすべて格が低いとされている。そのような大会で勝ったとしても、グレンヴィル家の名誉を挽回できるはずもない。
思い悩んだマーシャは、フォーサイス家を頼ることにした。フォーサイス家とグレンヴィル家は、古くから主従に近い間柄にあり、絶えず交誼があった。フォーサイス公が各方面に働きかけた結果、マーシャは特例に近い形で王国軍主催の大会の参加権を得ることになる。マーシャの父が死んでから、一年半ほどが経過したころのことであった。
以後、マーシャはさらに烈しく剣の修行に没頭。女性の身でありながら数多の剣術試合に勝利し、国王から直々に「
さて、話はふたたび現在のマーシャに戻る。
(ダイアー殿も、さぞ無念だったことだろう)
と、亡きクレイグの胸中を慮る。
そして、次にマーシャの胸に湧き上がるのは、怒りである。
状況としては正々堂々の立会いであったと思われる。しかし、クレイグの身体に残った傷――あれは、明らかに相手を嬲り殺しにする殺し方だ。圧倒的な実力を持ちながら、相手を虚仮にするようなやり口は、かつて剣に生きた者として許せる所業ではない。
(なんとかせねばなるまい)
と考えたマーシャであるが、それはクレイグの無念を自らの手で晴らしたいということだけが理由ではない。
根拠はないのだが、この事件に得体の知れない「におい」を感じるのである。
(警備部の手には余る事件になるやもしれぬ)
とマーシャの直感が告げる。
「さりとて、どうしたものか」
ぽつりと呟く。
何はともあれ、情報収集である。
通り魔による連続殺人である可能性が高いこの事件だ。王国軍の警備部とて決して無能ではない。ある程度まとまった情報を持っているはずだ。
幸い、先ほど現場に急行してきた警備部の中に、見知った顔があった。
「ひとつ、行ってみるか」
腰を上げて、ふたたび部屋を出る。向かったのは、王国軍警備部の詰め所だ。
王国軍警備部は、前述の通り軍の一部門で、治安維持をその任務とする。王国の黎明期、警備部が設立された当時は国防という本来の軍の任務の片手間に業務が行われていたのだが、王都レンをはじめとした都市が発達するにつれ、その重要性は増加。制度上は王国軍の下部組織ではあるものの、現在ではある程度独立した権限を持つようになっている。
レンでは二十分隊、計二千五百人もの兵士がその任務に就いている。この警備部の存在によって王都の治安は高い水準で護られており、また、これだけの人員を治安維持専門に割り振ることができるのは、シーラントが財政的に豊かである証だ。
さて、桜蓮荘を出たマーシャは、南東方向に足を向ける。先にあるのは、旧王城区と呼ばれる区画だ。
レンがシーラント首都となった際に王城が置かれた場所である。王国建国当初、既にそれなりの規模の都市であったレンの街中に急ごしらえで造られたので、城と言ってもその言葉から想像されるような荘厳なものではない。天主を中心に継ぎ接ぎするように増築された、お世辞にも立派とは言えぬ不恰好な建物で、さほど広くもない。統一を果たした直後のシーラントは混乱状態で、郊外の開けた土地を切り開いて新たに城を建築する余裕などなかったのである。
王城が街の西部に移されたのち、その大部分は取り壊され、空いた敷地内には各行政府の分署が押し込まれるように建設された。
マーシャが訪れたのはその一角、警備部第五分隊詰め所である。
「これは、グレンヴィル殿。久しいですなぁ」
マーシャを出迎えたのは、レイ・コーネリアスという中年の男である。太目で頭髪は薄く、どことなく愛嬌を感じさせる顔立ち。外見どおり人が善い人物で、腕っ節はからきしなのもまた見た目どおりであると言えよう。
コーネリアスは、かつて引ったくりを追いかけていたとき、居直った下手人に返り討ちに遭いそうになったことがあった。通りがかりに彼を助けたのがマーシャであり、以来ふたりの親交は続いている。
先ほど現場に駆けつけてきた警備部の面々うちの一人がコーネリアスだったのだ。
このコーネリアスは、王都レンの警備部・第五分隊長の任に就いており、これは部下おおよそ百二十人を束ねる立場である。いくら凶悪な殺人事件だとて、本来なら早朝から現場に出なければならない立場ではないのだが、そういうところも
(いかにもコーネリアス殿らしい)
などとマーシャは思う。
通り魔事件が起きたばかりで忙しさも極まっているはずだが、コーネリアスは嫌な顔ひとつ見せずマーシャを迎え入れた。
間仕切りで区切られただけの簡素な応接室に通されたマーシャは、コーネリアスに手土産にと買って来た焼き菓子の折を渡す。コーネリアスは、大の甘党なのだ。そして、
「実は、今朝の事件なのですが……」
と、声の調子を落として事情を話した。
「そこで、折り入ってお願いがございます」
マーシャが切り出すと、コーネリアスはそれだけでおおよそのことを察する。マーシャが自分の手でこの事件にかたを付けるつもりであることも。
「立場上、協力はいたしかねますな」
とぴしゃりと言うが、更に続けて
「ただまあ、『通り魔に襲われた一般人が、その通り魔を返り討ちにした』というのなら、われわれとしてはその一般人を咎め立てすることはできません。正当防衛はわが国の法律で認められていますからな」
と、周りの部下に気取られぬよう実にさりげない動きで、マーシャの手に紙束を握らせた。通り魔事件の捜査資料である。
マーシャは軽い会釈と目配せで、それに謝意を表した。
「では、お忙しいところお邪魔いたしました」
「いや、このような場所でよければいつでもお越しくだされ。若い部下たちも、『あの』マーシャ・グレンヴィル殿にお目にかかれて喜んでおりますゆえ。それから――」
「なんでしょう」
「頂いた手土産ですが。焼き菓子も嫌いではありませんが、二年前捕り物に際して奥歯を一本折られてしまいましてな。それ以来、ああいった類の菓子は歯茎に痛いのです。甘味なら『生菓子』のほうがありがたい」
無論、コーネリアスは好意で貰った手土産に注文をつける男ではない。その意図を察したマーシャは、
「なるほど、わかりました。そのように」
と答えた。
「では、次にお訪ねの際はよろしくお願いしますぞ」
そう言って、コーネリアスは茶目っ気のある笑みを浮かべた。
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