第28話 マヌ

 差し当たり、猫の噂は猫に聞こう。ポポロがそう考えていると、橋の袂で気怠そうに寝そべっているマヌルネコの獣人マヌを見かけた。


 マヌも妖術師訓練校の教え子であるため、スーニャンの先輩格と言える。惰眠を貪っている姿ばかりが印象にあり、得意な妖術がなんだったか、とんと記憶にない。


 筆記試験ペーパーテストに一発合格し、あっさり卒業したので、そこまで深く接する機会もなかった。


 野生のスナネコは「世界最小」の猫種とされる一方、マヌルネコは「世界最古」の猫種とされる。


 スーニャンとマヌを比べると、マヌのほうが倍以上に大きい。体格差があるためか、それとも先輩猫に遠慮しているのか、たんにビビっているのか、スーニャンはマヌに近寄ろうとしない。遠巻きにして、ちらちら様子を伺っている。


 雨上がりの蒸し暑さにげんなりしているのか、マヌはふて腐れたような表情を浮かべている。話しかけるなオーラを全身から放ち、ちょっと近寄りがたくはあるけれど、気性はわりかし穏やか。いきなり噛みついてきたりはしない。


 寒冷地仕様の分厚いもふもふの毛、中央に寄った目、ずんぐりむっくりした身体、太く短い手足、目の下から頬を縁取るような横縞があり、猫というより狸を彷彿とさせる外見をしている。


 どことなく見た目が似ているため、タヌキの獣人であるポポロにとっては親近感の湧く相手だ。


「こんにちは、マヌ」


 ポポロが挨拶すると、マヌは億劫そうに尻尾を振った。


「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、話しても平気かな」


 マヌはどうぞ、と言いたげに尻尾をひょんと動かした。


「空飛び猫って知ってる?」


 橋の影に隠れて、ぜんぜん近寄って来ないスーニャンを胸に抱きかかえ、ポポロが質問した。舐められないためであろうか、スーニャンは、うー、と低く唸っている。


「それを知ってどうする?」


 マヌは遠くを見つめながら、ぽつりと言った。


「ほら、スーニャン。自分で話してごらん」


 ポポロがせっつくが、スーニャンは借りてきた猫のように黙り込んでしまった。


 夢を笑われた経験があるせいで気安く話せることではないのだろう。見知った相手でないから、話すには相当な勇気がいる。いきなり話せ、と求めるのは酷だったかもしれない。


「地下街で空飛び猫を見かけたことがないんだけど、マヌは見たことある?」

「ない」


 マヌの返事は素っ気なかった。まるで取りつく島がない。


「そもそも実在するの?」

「それを知ってどうする?」

「どうしても知りたいんだ」


 ポポロが頼み込むと、マヌはのそりと立ち上がった。 


「大きな声では言えない」


 関わり合いを避けるようにマヌは路地裏へ姿を消した。最初の聞き込みは不首尾に終わった。スーニャンは狐につままれたようにぽかんとしている。


「なにも教えてくれなかったね。気を取り直して次に行こう」


 ポポロは片っ端から猫に話しかけてみたが、反応はマヌと似たり寄ったりだった。誰も彼も「空飛び猫を見たことはない」と口を揃えた。


 その話題に触れてはならないのか、いっそ不自然なほど、同じ答えばかりが返ってきた。


 あちこち聞きまわったが、ろくに手掛かりがない。へとへとに歩き疲れてしまった。


 元来た道まで引き返すと、気怠そうに寝そべるマヌの姿があった。


 まるで時間を巻き戻したみたいだ。


 ひょっとして、これがマヌの妖術なのだろうか。


「こんにちは、マヌ」


 ポポロがあえて同じ挨拶をすると、マヌは億劫そうに尻尾を振った。


「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、話しても平気かな」


 マヌはどうぞ、と言いたげに尻尾をひょんと動かした。


「空飛び猫は実在するの?」

「それを知ってどうする?」

「どうしても知りたいんだ」


 ポポロが頼み込むと、マヌはのそりと立ち上がった。 


「大きな声では言えない」


 やはり、マヌはぷいっと姿を消してしまった。


 何もかも「前」と同じだ、とポポロは思った。


 立ち去るマヌの尻尾をぼんやり眺めていると、時折、尻尾がくいくいと動いた。


 なんだよ、付いてこないのか。


 まるで、そう言っているかのようだった。


「なるほど、そういうことか」


 カラクリを理解したポポロは慌ててマヌの背中を追いかけた。


「ポポ先生、どういうこと?」


 ポポロの腕に抱かれたスーニャンはきょとんとしている。


「あのね、スーニャン。大きな声では言えないってことは、裏を返せば、小さな声でなら言えるってことだよ」


「……へりくつ」


 スーニャンが憮然としている。ポポロはくすっと笑った。


「これは空飛び猫について教えるかどうかの試験テストだったのかな」

「先生がいなかったら、スーはらくだい。かんしゃ、かんしゃ」


 ありがたや、ありがたや、とスーニャンに拝まれた。


 マヌを追いかけて、くねくねした路地を進んでいく。ほとんどでたらめにほっつき歩いているようで、どこをどう進んでいるのか、もう覚えていられなくなった。


 猫しか通り抜けられないような猫の細ニャニャみちをなんとかかんとかすり抜けると、ふいに足裏の感触が変わった。


 妙に弾力性があり、ぶよん、ぶよん、と沈む。


 弾む感触が楽しいのか、スーニャンはきゃっきゃと楽しげに飛び跳ねている。


「スーニャン、後を追わないと」

「えー、もうちょっと遊びたい」


 スーニャンはいかにも名残惜しそうに、ぶにぶにした道に猫パンチをくれた。

 白煙がモワモワと立ち込めて、いつの間にかマヌの姿が消えていた。


「あれ? どこに行った?」


 マヌの代わりに宙に浮かんでいたのは、〈法螺貝の死霊ホーラ・ガイスト〉だった。


「ぐげげげげげ、其の道は〈外郎道ウイロード〉。ナアゴヤ・ダギヤア名物ういろうを敷き詰めた道である。ここはナアゴヤ・ダギヤア辺境にある〈太陽に見捨てられた町〉を模したリトルナアゴヤ・ダギヤアだぎゃ」


 いったい、何度「だぎゃ」と繰り返したのだろう。


 風の噂に聞いていたが、ナアゴヤ・ダギヤアの民は、ずいぶんだぎゃだぎゃ言うんだな、とポポロは思った。


「ホンモノの死霊? スー、はじめて死霊見た!」


 スーニャンはまるで獲物に襲いかかるかのように、ふわふわと虚空を漂う法螺貝の死霊に飛び掛かった。鋭い爪を繰り出して、喉笛を掻き切らんかの勢いだ。


「ぐげげげげげ、ちょっ……、待っ……」


 法螺貝の死霊はゆらゆら不規則に揺れ動き、なんとかスーニャンの襲撃を避けるが、ぜえぜえ息を切らして、話したそうなことを話せもしない。


 いつからそこにいたのか、マヌの目がきらりと光った。


「ご苦労、ホーラ。あとはモシュが話そう。退いておれ」

「御意に」


 喋り方も声もマヌと違う。


 マヌの身体を借りて、マヌでない何かが語りかけているようだ。命じられるがままに法螺貝の死霊が闇に溶けた。


 外郎道をすっぽりと包み込むように夜の帳が下り、球形のドーム状となった。


 音らしい音もない漆黒の闇のなかで、「モシュ」と名乗った声が言った。


「驚かせたか? これは太陽の光を遮る黒紗の結界でな。妖術師の力を持ってすれば、この程度のミニチュアの結界を張ることは容易いが、町ひとつを覆い尽くすとなると、途方もない数の妖術師を動員せねばならん」


「はあ……」


 さっぱり話が見えない。


 ポポロが反応に困っていると、モシュが冷ややかに言った。


「シト・トウキヨの人間どもは、国策として〈太陽光発電板ソーラー・パネル〉の設置を推進していた。設置に協力しないとどうなるか、分かりやすい見せしめが必要だ。そうして我が町の上空に黒紗の結界が張られ、太陽の光の届かない〈太陽に見捨てられた町〉となった」


 常闇の世界となっても、夜目の利く猫やタヌキの獣人はさして困らない。


 だが、夜に視力を失う他の人外にとっては死活問題となった。


「どこの世界にも語られない歴史というものがある。詳しいことは〈歴史家マヌ〉に聞くといい。おい、マヌ。何を黙っておる。ちょいと掻い摘んで教えてやってくれ」


 マヌの身体を借りたモシュが要求するが、肝心のマヌはだんまりしている。


「おっと、すまん。身体を借りたままでは喋れぬのであったな。仕方ない。面倒だが、モシュが語ろう」


 威厳のある喋り方をしていたかと思いきや、急に砕けた口調になったりもする。


 このモシュという声の主は、いったい何者なのだろうか。


 得体の知れない謎の声に向かって、ポポロがおそるおそる訊ねた。


「つかぬことをお伺いしますが、マヌの妖術は時を巻き戻すことではないのですか」


「ちと違う。マヌは〈歴史家〉だ。世界最古の猫族だけあって、あらゆる歴史に通じておる。時の回廊を開き、死霊を身に宿して交信することができる」


 ポポロはごくりと唾を飲み込んだ。


「ということは、あなたは死霊なのですか?」

「モシュは空飛び猫である。肉体は滅び、永遠の命を得た」


 目の前にいるのが憧れの空飛び猫であると知り、スーニャンは狂喜した。


「空飛び猫! ホンモノ? 羽根はどこにあるの?」

「落ち着け。時が満ちれば、おぬしにも羽根が生えよう」

「……ほんと?」


 スーニャンは目をキラキラと輝かせ、尻尾をぶんぶん振っている。


「モシュはわりと嘘吐きだが、見どころのある猫に嘘は申さぬよ。スナネコもマヌルネコも絶滅の危機に瀕している。人間の手に飼われるなど、あってはならぬ。おぬし、人間の檻から飛び出したであろう。後先考えぬ無鉄砲さ、嫌いではないぞ」


 まるで見てきたかのような口振りだった。


「スーのこと、知ってるの?」


「ちゃんと見ていたぞ。いきなり飛んだのには閉口したがな。ほれ、おぬし、鏡の中にモシュの影を見たであろう」


 マヌの身体を借りたモシュがぽんぽんとスーニャンの頭を撫でた。


 スーニャンはすっかり天にも昇る気持ちになったのか、ぱくぱくと口を開くだけで何も言えない。呼吸を整え、あうあう喘ぐと、ようやく喋れるようになった。


「トウキヨの猫はみーんな、空飛び猫なんていない、見たことがない、って言ってた。どうして?」


 モシュが厳かな調子で言った。


「世の中には語ってはならない歴史というものがある。幼いそなたにはすぐに理解できぬやもしれぬが、そんなものかと思って聞くがよい。いずれ分かる」


「はい」


 スーニャンはちょこんと座って、続きの言葉を待った。


「よろしい」


 闇夜に浮かぶ月のような黄金色の目がきらりと光った。


 気怠い印象のマヌの目と違った。


 これは空飛び猫モシュ、本来の目なのだろう。


「モシュは黒紗の結界の内側に〈妖術太陽ソーサラー・サン〉を打ち上げ、モシュ王国として独立することを宣言した。肉体を失い、死霊となったモシュはもう死んでいる。モシュ王国の最初にして最後の王はすでにこの世を去った。君臨するも統治せず、というやつだ」


 名前こそ王国だが、王の座は空位。


 それならばよけいな軋轢は生じない。王の座を我が物とせんと目論むものがいれば、〈侵入者〉であるとして国外退去を命じるのみ。


「しかし、シト・トウキヨの人間どもは面白くなかろう。どこぞの空飛び猫が国家の独立を宣言したのだ。猫の分際でけしからんと難癖をつけて、滅ぼしに来るのは目に見えている」


 スーニャンの理解力を超えているのか、小難しい顔をして、うー、と唸った。


「……よく分からないです」


「空飛び猫に憧れてはいけない。語ってもいけない。存在すると信じてもいけない。そう言い換えれば、分かるか」


 なんとも微妙な表情を浮かべ、スーニャンはこくんと頷いた。


「それなら分かる」

「結構。それだけ分かっていれば十分だ」


 黄金色の目の光が翳った。


「人間は我々から太陽を奪った。その次は我々を滅ぼすのだろう。だが、人間は自分の手は汚さない。事情を知らない妖術師たちにやらせるつもりだ」


「あっ、それで……」


 モシュの話を聞くうち、ポポロが勘付いた。


 シト・トウキヨへの移住条件は、どこか歪だった。


 ――妖術師ソーサラー訓練校に通い、人間に利する妖術を身に着けること

 後に条件は大幅に緩和されたが、最初の移住条件にこそ本音が込められていた。


「空飛び猫の治める王国を妖術で滅ぼして来い、というつもりなんですね」


「左様。猫の歴史を顧みれば、〈神の化身〉と崇拝されることもあれば、〈魔女の使い〉〈悪魔の手先〉だのと言われて迫害されることもあった。レッテルを貼るのは容易い。妖術師の頭数を揃えたら、空飛び猫がどれほど恐ろしい存在か、嘘ばかり並び立てて喧伝するだろう」


「今は悪い噂もなにも聞こえてきませんが」


 モシュはふん、と鼻を鳴らした。


「いずれ、そういう空気になる。空飛び猫は恐ろしい。さっさと滅ぼしてしまおう。そういう空気を〈世論〉という」


 この空飛び猫は、よほど人間の習性を知り尽くしているのだろう。


 考え過ぎではないですか、などと反論することも憚られた。


「モシュさん、〈世論〉というのは空気のことなのですよね。実体のない空気にどうやって対抗するのですか」


「〈世論〉には別の〈世論〉をぶつけるしかないだろうな」


 モシュがあっさりと言った。


「どういうことでしょう?」


「空飛び猫は危険。そういうレッテルを打ち破るには、空飛び猫、めっちゃ可愛い! めっちゃもふもふ! いやん、天使! こんな天使を滅ぼすつもり? ふざけんな!という空気を醸成するしかない」


 ずいぶんと甘えた猫なで声だったので、モシュは途中で恥ずかしくなったらしい。


 途中で、ごほん、とわざとらしく咳払いした。


「空飛び猫の可愛さをアピールする、ということですね」


 ポポロが要約する。モシュの声音はすっかりいかめしくなっていた。


「まあ、そんなところだ」

「しかし、どうやって?」


 マヌルネコの姿を借りたモシュがくわっと目を見開いた。


「馬鹿者! こんなに可愛いではないか! おぬし、目が付いているのか? あ? こんなに可愛らしい空飛び猫がどこにいる? 世界中探したって、どこにもいるまい」


「モシュさん、すみません。今、マヌの身体を借りているので」


 ポポロが及び腰で言った。


 とてもではないが、「タヌキに似てらっしゃいますね」とは口にできない。


「ふん。モシュのツレも言っておったよ。モシュ、死霊じゃん。触っても透けちゃうから、もふもふできないじゃん。それに毒舌だよ。モシュ、可愛げって言葉知ってる? ……だとう? ミリクの奴め、調子に乗りおって」


 モシュはマヌの姿で地団太を踏み、ミリクなる連れ合いを罵倒した。


「モシュさん、ずいぶん口調がくだけてきましたね」


「ふん。ミリクに言われたのだ。いちおう王様なんだから、ちょっとは威厳ある喋り方をしてよ、とな。そう喋ると、偉そうと言われる。いったいどうしろというのだ」


 悪し様に罵っているが、言いたいことを言い合える仲なのだろう。


 王に対して、あれこれ口出しできる従者がいるということだ。


 「そういうわけで、〈新たな空飛び猫ニュー・スター〉を作ろうと思うてな」


 モシュはちらりとスーニャンに視線を送った。


「そなた、空飛び猫になる気はあるかね」


「……なれるの?」


 スーニャンは嬉しさを隠し切れないのか、ぷるぷると小刻みに震えている。


「何事も過程プロセスが大事だ。飛行訓練を繰り返せば、いずれ羽根も生えよう」


「スー、毎日飛んでる!」


「そのまま続けなさい。モシュ王国の運命はそなたの双肩にかかっている」


 モシュはスーニャンの両肩をぽんと叩いた。


 ゆらりと黄金色の目の光が闇に溶けゆく束の間、猫の王の声だけが残響した。


おごるなよ、人間。こっちはこっちで楽しくやっている。くれぐれも侵略だけはしてくるな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る