第39話 蒼一の決意⑤
「蒼一さんのために頑張ってたんですよ咲良さん。あんなに……嬉しそうに。大好きな人へ作るから楽しそうに」
「大好き、って」
「好きじゃない人のために料理もあんなに練習しませんよ!」
再び私はぽかんとした。
「料理?」
聞き返す私に、今度は山下さんが驚いて返してくる。
「まだお聞きになってないんですか? もうここ最近の料理は全て咲良さんが作ってたんですよ。私はちょっと口を出すだけ。
最初から、蒼一さんの好物を作れるようになりたいとお願いされて教えていたんです。好きでもない人のためにそんなことできませんよ」
知らなかった真実に、私はただただ呆然とするしかなかった。
毎晩並ぶ食事たち。慣れ親しんだ味で、山下さんが作っているのだと疑いもしなかった。私が美味しいと言うたび微笑む咲良の顔が浮かぶ。好物だと教えると楽しそうにはしゃいでいた。
まさか。
そんな。
形だけの結婚生活だった。始まりはあんな無理矢理な入り口。それでも咲良は初めから私と夫婦として過ごそうと努力してくれていたのか。
『好きな人は、います』
あの夜キッパリと彼女は言い放った。
「蒼一さん、咲良さんはとても一生懸命頑張ってます。彼女のそんな気持ちだけは疑わないであげてください」
懇願するようにそう言った山下さんは、何も言葉が返せない私に頭を下げると、そのまま無言で去っていった。その後ろ姿をただ見送ると、持っていた鍵を落としてしまう。高く響いた金属の音で、ついに我に返った。
私は玄関のドアを勢いよく開いた。
「咲良ちゃん!」
情けない自分の声が家に響き渡る。しかしそれに返事が返ってくることはなかった。乱暴に靴を脱ぎ捨てて部屋へ向かう。
その扉を叩いてノックした。
「咲良ちゃん? 聞いてほしいことがある、お願い顔を見せて」
その言葉にも、何の反応はなかった。しんとした静けさが流れるのみ。私はまさかと思い、ドアノブに手を伸ばした。
鍵はかかっておらず安易にそれは開いた。部屋の中を見渡すと、すっきりした空間が広がっている。家具はそのままだが、これは。
中に入りクローゼットを開けた。そこにあったのは、あのパーティーのために購入したネイビーのドレスだけがかかっていた。
愕然とする。
遅かった、もういない。
振り返りポケットからスマホを取り出した。先ほどもかけた咲良の連絡先を呼び出してコールするも、やはり相手は出ることなかった。
そうなれば実家に帰ったのだろう。私は恥を覚悟し咲良の母親へ電話した。未だかつてほとんど使ったことのない番号だった。
しばらくすると母親は電話に出た。挨拶もそこそこに本題を切り出すと、彼女は私の母から事情を聞いていたらしく離婚のことは知っていた。
だが咲良は家に帰ってきていないと言った。『友達のところにいる』とメッセージが入っただけで、その後は連絡がつかないということだった。誰のところにいるのかまでは聞いていないとのことだった。
まさかの返答に戸惑いが走る。しどろもどろになりながら、とりあえずもう一度咲良と話したくて探しているとだけ伝えた。
私に詳しい事情を聞こうとする相手の話を謝罪しながら切り上げて電話を終える。スマホを強く握りしめてそれを投げ飛ばさないように堪えた。
てっきり咲良の実家に帰ったのかと思っていた。そこへ迎えにいけば彼女はいるのだと、心の中で思い込んでいたのだ。
「友達……?」
ポツリと呟く。そして、私は咲良のそんな相手を誰一人知らないということに気付かされた。
結婚式だって、咲良の友人を呼んで挙げたわけではない。昼間は自由に遊んでいいよと言っていたが、どこで誰と出かけていたのかまで聞いていなかった。
ああ、こういうところなんだ。私たちの距離は。
お互いを探りながら交わす会話。それはやはり夫婦ではなかった。
愕然としながら困惑していると、ふと部屋のテーブルの上にあるものが置いてあるのに気がついた。近づいて覗き込む。それは私が咲良に贈った結婚指輪だった。
その傍にメモがある。『お世話になりました、とても楽しかったです。ありがとうございました』可愛らしい字で短く書かれていた。
力の入らない手先で指輪を手に取る。あの日以来、咲良がこれをはめている姿を見たことはなかった。自分の左手に付けられている傷だらけのものとは違い、新品同様のそれが酷く心を痛ませた。
手のひらで指輪を握る。
まだだ。まだ終われない。
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