第38話 蒼一の決意④

 未だ私の腕を取ったままの新田さんの手をそれとなく払った。彼女は固く口を閉じている。驚いたような声を上げたのは母の方だった。


「何を……!」


「僕は咲良と結婚したかった。今も彼女と結婚できたことが幸せでならない」


「は、はあ?」


「綾乃の逃亡を手伝ったのは僕です。綾乃がいなくなれば咲良が立候補するんじゃないかと考えた末のずるい行動ですよ」


 ついに言った真実に、二人は目をまん丸にした。四つの瞳に見つめられながら毅然とした態度でいる。


 特に母は信じられないとばかりにワナワナと唇を震わせた。


「まさか……嘘でしょう蒼一? あなたがそんな馬鹿なこと」


「知りませんでした? 僕はとんでもなく馬鹿な人間なんですよ。好きな子が嫌がらせに悩んでることに気づけないほどの」


 鼻で笑って言いすてた。新田茉莉子が再度私の腕を取ろうと手を伸ばしたのを避ける。今はもう咲良以外に触れられたくない、と思った。


「そんなことをしてでも咲良と結婚したかったのは僕です。……結果あの子を傷つけただけだったけど、それも謝らなければ」


「待ちなさい! そんな、ありえません。他の男とあんな写真を撮られるような人じゃ」


 母が叫んだのを聞いた瞬間、私は振り返って新田茉莉子の顔を見た。彼女は少し気まずそうに私から視線を逸らす。


……そういうことか。納得がいった。


 おかしいと思った、いくら綾乃とタイプが似ているからといって、新田茉莉子を天海家の嫁にしようとするなんて。だが先ほどの母の発言を聞いて理解する。


 恐らく、蓮也と咲良のあの写真を母に見せたのだ。元々あまりよく思っていなかった咲良のあんなシーンを見て、母は私たちの仲を裂くことに躍起になったんだ。


 人間、共通の敵がいると特に強く結託する傾向がある。だから母はこんなにも新田茉莉子を信用しているのか。


 私は一つため息をついて答えた。


「写真、ですか。僕も見ましたよ」


「あなたも知っているの? なのになぜ黙ってるの! 他の男とあんなことを」


「意外ですね。母さんほど洞察力のある人が、あれを咲良の不貞と思ったんですか?

 写真をよく見れば分かります、咲良は驚いたように棒立ちになっているだけ。男性が一方的に抱きついているだけです。咲良には落ち度はありません」


「……な」


「頭に血が昇って冷静さを欠いているのでは。少しは落ち着いたらどうですか」


 私はそばにいる新田茉莉子を強い視線で見た。彼女は何か言いたげだが、口をつぐむ。あの写真を手に入れた時から、こうなることを考えて動いていたのかもしれない。


 私はつかつかと母に歩み寄り、彼女の手元に置かれている緑の紙を手に取った。はっとした相手は慌てて奪い返そうとする。それをサラリと避けると、私は離婚届をビリビリに破り捨てた。


「蒼一!」


「もし……咲良が本当に離婚を望んでいたとしても、僕のみてないところで書いたこんなものは無効だ。二人で話し、しっかりお互い気持ちを伝えた上で目の前で書いてもらう。こんなゴミ不要だ」


 その場に紙屑を捨てる。再び母の方を向いて断言した。


「僕は人を陥れるような人間とは結婚しない。ごめんだね。

 こうしてくだらない人間と話しているだけで吐きそうだ」


 私はそれだけ言い残すと、今度こそリビングを飛び出した。自分の名を呼ぶ声を背中に感じたが無視した。


 急いで玄関を開けて外へ飛び出していく。走りながらスマホで咲良に電話を掛けてみる。だが相手は出なかった。舌打ちしながらしまう。


 母へ離婚届を渡したと言うなら、きっと私の顔を見ずにいなくなるつもりなんだろう。だが今は昼過ぎだ、あの家にまだいるかもしれない。ちゃんと顔を見て話したい、謝ってキチンと気持ちを伝えたい。


 ああ、なんで自分はあんなに逃げていたんだろう。


 咲良が近くにいてくれてる間にしっかり自分の気持ちを伝えればよかった。それで失望されても、罵倒されても。失った後に焦ってももう遅いのに。


 彼女と過ごす毎日が温かで幸せで、それを失うのを恐れすぎたんだ。


 家にたどり着き、急いで鍵を取り出した。それを鍵穴に差し込もうとした時、自分の名前を呼ぶ声に気がついた。


「蒼一さん?」


 反射的に振り返ったが、いたのは咲良ではなかった。山下さんがそこに立っていたのだ。


 ああ、と思い出す。彼女はいつもうちに来て夕飯を作ってくれるんだった。今日もそのために来たのだろう。


 乱れる息を少し整えて言った。


「山下さん、すみません。今日はうちは大丈夫です」


「あら、そうですか」


「急ですみません、ありがとうございます」


 早い口調でそれだけ言い、鍵を開ける。だが山下さんは自分とは裏腹なウキウキとした声で尋ねてきたのだ。


「蒼一さん、ケーキどうでした?」


 ピタリと手が止まる。どう答えていいかわからず、私はそのまま停止した。


 私が食べることのなかった咲良の手作りのケーキのことだ。誕生日の日、てっきりそれが食べれるのだと思い込んでいた。だが咲良が練習していたのは私のためではなかったと当日気が付いたのだが。


「……ああ」


「咲良さんすごく頑張ってたんですよ! 練習して、そのおかげで練習品はうちの子へのお土産になっててね〜」


「あれは、僕のじゃなかったんです」


 小さな声でそう呟いた。山下さんが首を傾げるのがわかる。


 扉の取っ手をぼんやり眺めながら苦笑した。


「どうやら、違う人にあげたかったみたいで」


「え」


「僕には近くの美味しいケーキ屋の」


 そう言いかけていると、いつも明るい山下さんの声が突然厳しくなった。そしてピシャリと断言する。


「そんなはずありません!」


 つい顔を上げて振り返る。目を吊り上げて私を見ている彼女は、必死になって言った。


「そんなはずないです、あれは間違いなく蒼一さんへのプレゼントだったんですよ!」


「……え、でも、確かに当日」


「何か事情があったのでは? 私はあの日、チョコプレートに蒼一さんの名前を書いて飾る咲良さんの様子を見てるんですよ!」


 予想外の言葉に狼狽えた。


 ケーキがなかったことで、咲良の想いは違う人間に向かっているんだと再確認したのだ。


 だが、それが違っていたら? 本当は私のためのケーキだったら?


 あの日捨てた自惚れの考えが再度思い浮かんだ。戸惑う私に彼女は追い討ちをかける。




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