第19話 咲良の戸惑い①
包丁を持つ手は、最初にここへきた時よりだいぶスムーズに動くようになっていた。まな板からリズムカルな音が鳴り響いてくる。私は集中しながら必死に手元を見つめていた。
しばらくして野菜を切り終え、ふうと顔をあげる。
「あらーほんと上達が早い! 随分手慣れましたね? 練習してました?」
「お昼ご飯を自分で作る時とか……」
「ふふふ、咲良さんは頑張り屋ですね。元々料理のセンスもあったのかしら、味付けももうコツを掴んだようですし、どんどん上達してくれて私も教え甲斐があります!」
山下さんがニコニコしながら言ってくれるのを聞いて単純にも喜んだ。元々料理はそんなに得意じゃなかったし、どちらかといえば不器用な方だ。それでも早く料理ぐらい一人で作れるようになりたくて、ここに来てからは必死に料理の勉強をした。
山下さんの教え方もいいので、楽しく勉強することができている。確かに自分で言うのもなんだが、かなり上達したと思う。まあ、最初が酷すぎたんだけど。
「蒼一さんも喜んでらっしゃるでしょう?」
「あ、いえ、実は蒼一さんには私が作ってるってまだ教えてないんです」
「え? そうなんです?」
「完璧に作れるようになったら言って驚かそうと思ってて!」
「まあいいわね! でも気づかれてないって、よっぽど咲良さんがお上手に作ってるからですよ。言った時が楽しみですねーきっとびっくりしますよ」
言われてそのシーンを想像して微笑んだ。褒めてくれるといいな、そうしたら頑張った甲斐がある。
毎日山下さんと夕飯を作り、ここ最近は半分以上は私が作るようになっていた。蒼一さんは気づかず、全部山下さんが作ったものだと思い込んで食べている。
彼女は使い終わった食器を洗いながら言う。
「そろそろ引っ越して二ヶ月になります? 早いですね」
「そうですね、あっという間です」
「うまくいってらっしゃるようで安心しました」
「うまく……いってるのかな?」
苦笑しながら答える。
そうか、もうすぐ蒼一さんと暮らし始めて二ヶ月を迎えるのか。特にトラブルもなくそこそこ仲良く暮らしているとは思う。ただそれは、夫婦ではなく同居人、だからだ。
寝室は別、平日は帰りが遅い蒼一さんと話すことも少なく寝るのみ。休日は時折買い物に行ったり家でゆっくり過ごしたりと穏やかに暮らせてはいるが、やっぱり夫婦というよりルームシェアだ。彼は私に指一本触れてはくれない。
(あ……でも)
ふと思い出す。あれはいつだったろうか、少し前。夜帰宅した蒼一さんは少し様子がおかしかった。どこかよそよそしい顔で帰宅し、私を見ないようにして去ろうとした。
てっきり、その前日風邪を引いた私を看病したせいでうつしたのかと思って彼を引き止めた。今度は私が看病する側だ、と思って。
でも何故か次の瞬間、蒼一さんは私を強く抱きしめた。息が止まるんじゃないかと思うほどの力で、戸惑いと驚きでパニックを起こした。
それでも、私は嬉しかった。もしかして私をようやく異性として見てくれたのかも、なんて期待が頭をよぎって。恥ずかしくて混乱していたけれど、必死にその体に手を回して私も返した。私が抱きしめ返したとき、蒼一さんの体は少し驚きで反応した。
しばらくそうしていた後、突然蒼一さんが私を引き離した。彼は苦笑いしながら謝った。『ごめん、立ちくらみした』と言い、そのまま呼び止める暇もなく自分の部屋に入ってしまったのだ。
ぽかん、と一人廊下に残された私はそのまま立ち尽くした。一体今何が起きたか全然頭がついていかなかった。
立ちくらみ? そんな感じには見えなかったけれど、そうでもなかったら突然私を抱きしめるなんて行動に理由がつかない。
そしてその後は蒼一さんはまるで何も無かったかのように振る舞った。あれからしばらく経つけれど、抱きしめられたのはあの一回きり。やはり、愛情表現とかではなく体調が悪くて私にもたれかかっただけらしい。
ふうと息を吐く。結局私と蒼一さんの関係は変わらず今に至る。
「咲良さん、あっちのお鍋の火を弱めた方が」
「あ、しまった!」
私はぼうっとしてたのを慌てて自分を戒める。料理を提供するぐらいしか仕事ができてないんだもの、しっかりしなきゃね。
鍋の中身を確認しつつ、私はあっと思い出したことがあった。洗い物をしている山下さんに恐る恐る尋ねる。
「あの、山下さん」
「はい?」
「山下さんって、ケーキ……とか、作れますか?」
私の言葉をきき、彼女は笑って答えてくれた。
「ええ作れますよ」
「あの、教えていただけませんか」
私が言うと、山下さんは手をタオルで拭きながらぱっと顔を明るくさせる。そしてニコニコしながら言った。
「蒼一さんのお誕生日ですか!」
私は恥ずかしくなりながらも小さく頷いた。
そう、あと少しで蒼一さんの誕生日がやってくる。子供の頃は下手くそな似顔絵とかを渡していたのが懐かしい。大好きなお兄ちゃんにプレゼントしたわけだが、思春期だった蒼一さんにとっては迷惑だっただろう。
それでも彼は嬉しいよと喜んで子供の頃の私を褒めてくれた。いつだって彼は優しく、私を面倒みてくれていた。
私も成長するにつれ、恥ずかしさも勝ち蒼一さんにプレゼントなんかしなくなっていた。そういうのはお姉ちゃんの役目だと思っていたし、何をあげていいかわからなかったと言うのもある。
でも今は一緒に暮らしていて、書類上だけでも夫婦なのだからお祝いしなくちゃ。ちょっと豪華な料理を作って、できればケーキも焼いてみようかと思い立っているところなのだ。
山下さんは嬉しそうに笑ってくれる。
「そうでしたね、そうでした! お誕生日でしたね蒼一さん! ぜひ焼きましょう」
「はい、大したことはできないけれど、自分にできることは頑張りたいなあって」
「分かりました、ケーキなんて焼くのは久しぶりだから私も予習してきますね。ほら、私の子供たちも大きくなっちゃったから! 腕が鳴りますね〜」
私より気合が入っている山下さんを見て笑う。蒼一さんが幼い頃から家政婦として出入りしている山下さんは、きっと蒼一さんのことも子供のように思っているところがあると思う。
でもよかった、これでケーキは一安心。あとはプレゼントを選ばなきゃ。
想像しながら顔の筋肉が緩んでくる。喜んでくれるといいなあ、なんて。
同居人から進歩できない苦しみはあれど、やっぱり好きな人のそばにいることはこの上ない幸せ。誕生日を祝えるなんて、ワクワクしちゃうな。
私が怪しくニヤニヤしていると、突然山下さんが顔を覗き込んでくる。彼女は嬉しそうに目を線にしながら言った。
「ふふふ、いいですねえ。恋する乙女って感じ」
「えっ!」
「微笑ましいですよ〜! 可愛らしいわ」
恋する、なんてストレートに言われて一瞬慌ててしまった。でも特に否定する必要もないため、私は恥ずかしく思いながら小さく頷いた。
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