第8話 咲良の想い③

 





「いつも朝食ありがとう。行ってきます」


「行ってらっしゃいませ!」


 いくらか時が過ぎ、蒼一さんはいつものようにビシッと仕事着に包まれて会社へ向かった。まだあまり成長しきれていない料理の腕で、簡単な朝食だけは毎日作っていた。


 大概トーストとスクランブルエッグとスープとか。おにぎりと卵焼きと味噌汁とか。中学生でも作れるようなラインナップを、蒼一さんは必ず美味しいと笑って完食してくれた。


 夕飯は山下さんに教わり、どれか一品は私が作るようにしていた。蒼一さんは気づいていないようだったがそれが嬉しい、出来がよいという証拠だからだ。いつか全ての料理が私の手で作れるようになったら彼に教えて驚かせよう、と思っている。


 平日はほとんど蒼一さんと顔を合わせることもない。彼は仕事で遅くまで働き、帰ってきた数時間だけ話すくらいだ。私は閉じられた玄関の扉を見つめてふうと息を吐いた。


 少し前の土曜日はベッドを買いに行って、後は日曜日も家でゆっくり過ごした。でも正直私は緊張で寛げなかった。一日中蒼一さんと一緒だなんて慣れていないからだ。


 掃除などを手伝ってくれて、一緒にゆっくりしようと言ってくれた。仕事もしてるのに、なんでそんなに優しいんだろうと感心してしまうくらい。


 コーヒーを飲みながらテレビを見て笑っているだけの姿を見ては胸が苦しくなる。その隣に座って一緒に笑えればいいのに、まだまだ私にはできなかった。ダイニングテーブルに座って、恋愛小説を読んでいたりした。正直ページはほとんど進んでいないけれど。


 そんな私に蒼一さんは言った。『僕に気を遣わず、土日も友達とかと出掛けてきていいんだよ』と。


 働いてもない私がそんなことできない、とすぐに反論しようとして黙った。私が家にいると、蒼一さん自身が寛げなくてそう言ってるのかもしれないと思ったからだ。


 小声でお礼を言って、その次の週末は日曜日だけ一人で街をぶらぶらと歩いて時間を潰した。欲しいものもやりたいこともない自分にとって虚しい時間だった。


「……まだまだだなあ」


 掃除機をかけながら独り言を言った。最初に比べれば家の中に蒼一さんがいるということはちょっとだけ慣れた。でもやっぱり、緊張してしまうし普通に過ごすことはできない。好きな人と一つ屋根の下にいるって、とんでもない冒険みたいなものだから。魔物倒してレベルアップする方がまだいい、私はいつまでもレベルは上がらない。


 ため息をつきながら掃除を続けていると、ふとソファのすぐ下に何かを見つける。一度掃除機を止めて近づき見つめた。黒色で、手のひらに収まるほどの小さな……


「あ!!」


 大きく声を漏らした。USBメモリーだった。慌ててそれを手にもつ。


 今朝のことだ、私は朝バタバタとしているとき、蒼一さんの仕事用鞄を派手にひっくり返してしまった。蒼一さんは笑いながら一緒に落ちたものたちを拾ってくれ、その鞄を持って仕事に行ったのだが、その時にこれが落ちたと考えるのがスムーズではないか。


「しまった、どうしよう!」


 仕事で使う大事なものだったら大変だ。私は急いでスマホをもち蒼一さんに電話をかけた。だが彼は電話には出ず、メッセージを入れても既読にならなかった。まだ通勤途中なんだろう。


 オロオロと慌てる。これがないことで蒼一さんが困ってしまったら……私には分からないことだけど、天海家の後継なんだし、重要な仕事とかしてるだろうし……


「と、届けに行こう! 早く渡さなきゃ!」


 いらなかったらいらなかったで、無駄足になればそれでいい。どうせ暇人の私の足なんかいくらでも無駄遣いすればいいんだ。そう思いたち、急いで身支度を整えた。


 流石に会社の場所は知っている。だが行ったことはない。行って受付の人に蒼一さんを呼んでもらえばなんとかなるだろうか。それまでにスマホに返事が来ればいいんだけど。


 私は自分の鞄の中に届け物が入っているか何度もしっかり確認すると、そのまま駆け足で家から飛び出した。


 蒼一さんの会社はうちから比較的近いところにある。と言っても、車で二十分ほど。私は車なんて持っていないので、必然的にバスを使うことになった。バス停につき時刻表を覗き込む。よかった、比較的すぐに来そうだ。


 列に並び到着したバスへ乗り込む。朝の通勤ラッシュだったため、押しつぶされながらバスに揺られた。周りはスーツを着たサラリーマンやOLが多く、大学を卒業してすぐに結婚し、就職した経験すらない自分には別世界のように見える。


 特に、急いで家を出てきたため適当な服で乗り込んだ自分は童顔も合わせて子供っぽくて、多分周りの人は学生だと勘違いしているだろうなと思った。


(……蒼一さんは大人っぽいのになあ)


 彼と並んでも、もう少しカップルぽく見える姿になりたい。







 聳え立つ大きなビルの前でそれを見上げた。一番上が見えないほどの高さで、その入り口は沢山の人たちを食べるようにどんどん人を吸い込んでいった。


 初めてみる蒼一さんの仕事場。うちの会社と同じくらいの規模だということくらいしか知らなかった。今は蒼一さんのお父様が経営しているけど、いずれは蒼一さんがその役割となる。


 こんな多くの人を背負って働くなんて大変だろうなあ……。


「おっと、こんなことしてる場合じゃない」


 私は自分を叱咤して前を向いた。やや緊張しながら前に進んでいく。未だ蒼一さんから折り返しの電話はなかった。もうとっくに会社に着いているはずなのだけれど。


 中に入ると広いエントランスが目に入った。高い天井、掃除の行き届いた清潔感のある床、開放感がすごい。みんな堂々と目的地に向かって歩むなか、私は挙動不審にウロウロした。そして受付におそるおそる近づいた。


 私をみてニコリと営業スマイルを浮かべた綺麗な女性が、丁寧な口調で声をかけてくる。


「おはようございます」


「お、おはようございますあの、すみません、天海蒼一さんいらっしゃいますか」


 やや声が震えてしまった。あまりに自分が場違いで緊張度がマックスになっている。


 受付の人は不思議そうに一瞬目を丸くした。だがすぐにこやかに笑う。


「失礼ですがお名前を伺ってもよろしいですか」


 口は笑っていても、その目はどうみても私を怪しんでいるように見えた。それもそのはず、私のこの佇まいではどうみても仕事関係の人間じゃない。見知らぬ学生のような女が突然この会社の後継に会おうなんて、訝しむのが普通だ。


「あ、あの、私藤田咲良といいまして、あ、間違えた、藤田じゃなくて……」


 情けなくもしどろもどろに言っている時だった。背後から凛とした声が響き渡った。


「私が代わりに承ります」


 振り返ると、一人の女性が立っていた。皺ひとつないシャツに黒いジャケット。背筋がピンと綺麗に伸びていて、自身に満ちた女性という感じがした。セミロングの黒髪は乱れもなく美しい。何より、はっきりした顔立ちの美人だった。


 堂々とした余裕のあるオーラが、どこかお姉ちゃんに似ている、と頭をよぎった。


「あ、あの」


「新田茉莉子と言います、天海は今日は時間が取れないとおもいますので。どういったご用件でしたでしょうか」


 笑みもこぼさず淡々と言うその人に萎縮する。綺麗な人だからこそ迫力がある。


 私は怪しい者ではないと証明したくて、鞄から慌ててUSBを探し出す。


「す、すみません。怪しい者ではないんです、これを届けて欲しくて。今日家に忘れていったから……」


「家……?」


 私が差し出すと、新田さんは驚いたように目を丸くした。というか、受付の女性も一緒になって驚いているようだった。私はその様子にたじろいでしまう。


「……天海咲良といいます」


 ここ最近新しくなりまだ慣れていない名前を名乗った。


 新田さんは固まったまま私をみている。そしてその視線を上から下まで動かしゆっくり観察する。私は居づらくなってつい俯いた。


「ああ……奥様でいらっしゃったんですか」


「あ、はい」


「噂どおりの」


 噂、という言葉が聞こえて顔を上げた。新田さんの不思議な表情が目に入る。笑ってるような、怒ってるような、表現しがたい顔をしていた。


「え、噂、って」




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