第41話「胸の痛み」

(あ、しまった、また教室に忘れ物してしまったな……)


 金曜日の放課後、僕は玄関で靴を履いている時に忘れ物に気がついた。


(そういえば前の時は教室に大島さんがいたんだっけ……またいたらどうしよう)


 テストで僕に負けてから放課後は教室で勉強していると言っていたので、また教室に残っているような気がした。そう、この前のテストでも僕が勝ってしまったから……。

 まあ、いた時はしょうがないと思って、教室の方へ向かう。その時だった。


「おーい、日車ー、ちょっといいか?」


 名前を呼ばれて振り返ると、担任の大西先生がいた。資料か何かの荷物をたくさん持っている。


「は、はい? 何かありましたか?」

「あ、いや、ちょっとだけ話したいことがあってな。ここじゃなんだから、職員室まで来てくれるか?」


 話したいこと? 僕何かしましたっけ……?

 ちょっと不思議に思いながらも、とりあえず職員室に行くことにした。


「ふー、すまんな、帰るところだったか?」

「あ、いえ、教室に忘れ物して、取りに戻ってるところでした」

「そうかそうか、その……話したいことというのが、沢井のことなんだけどな」


 突然絵菜の名前が出てきたので、僕はドキッとした。え、絵菜が何かしたのだろうか……上級生に殴られていたところは誰にも言っていないから、先生も知らないと思うが……。


「絵……さ、沢井さんですか?」

「ああ、最近日車と一緒にいるところをよく見るんでな。あと火野や高梨も一緒か」

「あ、そ、そうですね……」

「急にどうしたんだろうと思ったんだが、日車たちと一緒にいるようになってから、沢井の表情が変わったような気がしてな。それまでは何事にも興味がないような感じだったが、なんかこう、柔らかくなった」


 僕は先生の話を聞きながら、ふとした時に見せる絵菜の笑顔を思い出していた。たしかに話したことなかった時はいつもツンとしてて、誰も寄せ付けないようなオーラもあったし、笑顔なんて全然見たことがなかった。


「それと、日車は沢井たちの勉強も見てやってるんだな。何度か教室に残ってるのを見たよ。三人とも数学の点数が上がってるな」

「あ、まあ、それはあの三人の頑張りなので……」

「いやいや、うちのクラスで一番数学ができる日車のおかげだよ。ありがとうな」


 それと……と、先生は話を続ける。


「これは日車もそうなんだが、沢井もクラスで一人でいるみたいで、気になってたんだ。だから日車や火野や高梨が話しかけているのを見て安心してな。それもありがとうな」

「い、いえ、友達として接していますが、特別なことはしてないので……」

「普通でいいんだよ、普通で。あーすまんかったな、呼び止めてしまって。これからも沢井と仲良くしてやってくれ」

「あ、はい……もちろん」


 僕は失礼しますと言って、職員室を後にして教室に向かった。頭の中には絵菜の笑顔がずっと浮かんでいた。


(先生も気にしていたんだな。絵菜は僕のことどう思っているんだろうか……友達と思ってくれているんだろうか、あるいは……)


 そんなことを考えつつ、僕は教室の扉をそっと開ける。よかった、誰もいない。

 教室に入り、忘れ物を取って帰ろうとしたその時だった。


「あれ? 日車くん? やっほーどうしたの?」


 そう言いながら教室に入ってきたのは高梨さんだった。Tシャツにハーフパンツ姿で、タオルを首にかけている。汗で髪の毛が少し濡れていて妙にセクシーに見えてドキッとしてしまった。これだから美人は困る……。


「あ、あれ? いや、忘れ物があって取りに戻ってきてたよ、そしたら途中で大西先生に呼び止められた」

「そかそか、私もちょっと忘れ物しちゃって、部活休憩入ったんで取りに来たよー」

「あ、そうなんだね、一緒だ」

「うんうん、それにしても大西先生に呼び止められるなんて、日車くん何かやっちゃった?」

「あ、いや、僕も最初何かしたかなって思ったんだけど、違った……その、絵菜のことで」

「絵菜のこと?」


 僕は先生と話したことを高梨さんに伝えた。高梨さんは窓から外を見ながら話す。


「そっか……うん、絵菜、だいぶ変わったと思う。前より笑うようになったし」

「あ、やっぱりそう思う?」

「うん、先生と一緒なんだけど、柔らかくなったと思う。絵菜ね、中学の頃荒れててね……お父さんと問題があって、家庭がうまくいってなかったみたい。小学生の頃に両親は別居したんだけど、その後もごたごたがあったみたいで」

「そ、そっか……」

「学校は一応来てたんだけど、周りの人を近寄らせないオーラみたいなものがあったよ。私はそれでも話しかけてたんだけど、今思うとうざかったかもしれないなぁ」

「そ、そんなことない……と思う、ごめん、想像でしかないけど……」

「そうだといいんだけどね。高校に入ってもあまり変わらなかったから気になってたんだけど、日車くんや陽くんと話すようになって本当に変わったと思う。最初に日車くんと絵菜が一緒に勉強してるのを見た時はびっくりしたけど、私以外にも話せる人ができたんだなーって嬉しくなって」


 高梨さんの話から、クラスメイトに悪口を言われて僕が怒った時を思い出していた。あの時はやっちゃったと思ったけど、あとでありがとうと言ってくれたな……。


「だからさ、日車くんは絵菜のこと、大切にしてあげてほしいなって思って」


 高梨さんの言葉を聞いて、僕は胸のあたりがチクリと痛んだ。まただ……でも、この感じは――


「……あっ、そろそろ休憩時間終わっちゃう、ごめん戻らなきゃー、じゃあまたねー」


 バタバタと高梨さんが行ってしまった後、僕はしばらく動けないでいた。


(胸の痛み……この感じは、今なら分かる)


 僕のことどう思ってくれているか気になるけど、そうじゃない。もっと大切なものがある。僕自身がどう思っているかだ。

 僕は……絵菜を守りたい。絵菜のそばにいたい。絵菜の笑顔をもっと見たい。


(だからさ、日車くんは絵菜のこと、大切にしてあげてほしいなって思って)


 高梨さんの言葉が頭の中を駆け巡る。もちろん、今までも、そしてこれからも、ずっと大切にしたい。


 ――僕は、絵菜が好きだ。

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