第19話 運命の女・前編
春のビーム射撃大会で、恭仁は振るわぬ結果に終わった。全国大会に行ってやると息巻いた地頭園も蓋を開ければ、3段の点数すら下回る結果を出し、エアピストルの推薦は今回も貰えず、やる気をすっかり失って部活に出てこなくなった。
幸いなことに、後輩の女生徒は地頭園や恭仁に劣らぬ素質があり、練習も真面目に打ち込み、春の大会も上々の成果だった。地頭園の居ない部室で恭仁は後輩の世話を否応なく押し付けられ、彼女の成長を妨げないようにと恐怖に慄く心を殺し、後輩と練習に励む。伊集院と恭仁は自然と話さなくなっていた。
倉山家の分断は致命的と言えた。香織が帰らない日が続き、安否を心配した利義が彼女の実家に電話をかけると、罵詈雑言が受話器から離れた恭仁にも聞こえる大声で返され、利義は頭を下げて電話の相手を必死に宥めていた。
6月。陰鬱な長雨が続いて気の滅入る金曜日、逢魔が時の倉山家に決然たる存在が現れる。あるいは幻惑、あるいは復讐、あるいは運命という名の女。
家のインターホンが鳴らされた時に、恭仁は台所で野菜を刻んでいた。恭仁は俎に包丁を置くと、流しで軽く手を濯ぎ、背後の壁のインターホン画面に向かった。黒のパンツスーツを身に着け、黒髪を後ろにまとめた年齢不詳で糸目の女が、玄関に立ちインターホンのカメラを覗き込んでいた。小さな画面にも美人であることが窺える。
「ごめんください。竜ヶ島中央署の海老原という者ですが」
警察? 恭仁は訝しんだ。海老原という黒スーツの女は左手で手帳を開きカメラに掲げているが、画面が小さくて良く見えない。右手は画面外に見切れている。
「利義さんはご在宅でしょうか?」
海老原は微笑むと、顔を半ば反らしてカメラに近づいた。左目の泣き黒子と右唇の艶黒子がより強調され、薄化粧の美貌に孕んだ男を誑かす女狐じみた妖艶さが明瞭となった。美しいが、ゆえに危うい。恭仁の疑念が警戒に変わった。
「残念ですが、
海老原は意外そうに真顔に戻り糸目を見開いた。胡散臭い微笑みを湛えた顔より、彼女がふと見せた素顔の方が、恭仁には寧ろ魅力的だと思えた。
「キミは、息子さんの……恭仁クン、だったかな?」
名前を知っている。海老原が父の同僚と仮定すれば、世間話に息子のことを聞き、名前ぐらい憶えていてもおかしくはない。だが何か様子がおかしい。
「利義さん、携帯に電話してもお出にならなくて。もしかしてご在宅かもと思って、お家に立ち寄らせてもらったの。大事なお話があって来たのね」
恭仁には予感があった。大事なお話などと勿体ぶった海老原の言い回しには敢えて触れないことにする。内容など知りたくもない。溜め息がこぼれた。
「折角ご足労いただいたところ申し訳ありませんが、また日を改めて在宅を確認の上お越しくだされば幸いです。火急の用事ならば伝言を承りますが」
「いえ、結構よ。これは私が自分の口で伝えないと意味がないから」
「では夕飯の支度の途中なので、失礼します。気を付けてお帰り下さい」
「ちゃんと挨拶出来て偉いね。お気遣いありがとう」
淡いルージュをまとった唇が蠢き、美貌がカメラの向こうを見透かすように糸目を剃刀じみて細め、微笑む。蠱惑的で邪悪な笑みだった。恭仁は無言で通話を切る。
恭仁はキッチンに立ち返り、包丁を手にして野菜を刻んだ。インターホンのカメラ越しに見た、女狐を思わせる糸目の女が、脳裏に焼き付いて離れない。恭仁は頭から振り払うよう努め、半ばムキになって野菜を刻み続けた。それゆえ、手元が狂った。
「イテッ……」
長ネギに添えた左手の指がサクリと切れ、包丁を傍らに横たえて、血の滲む左手を咥えた。滴り落ちた鮮血が、長ネギの純白の肌を汚して紅く滲む。居間に据えられたトールボーイスピーカーが真空管アンプを通し、エリック・クラプトンのアルバムを奏でており、恭仁が絆創膏を取ろうと振り返ろうとした時に、『オールド・ラブ』のイントロが流れ始めた。淫靡な香水の香りが漂って来た。恭仁は視線を感じ、脳裏に危険を感じると、空いた右手で反射的に包丁を握った。警戒し背後を尻目に見る。
「……そこで何をしているんですか、貴方は」
黒い影がそこに在った。糸目の危険な美女が、海老原なる女が、そこに居た。
「利義さんが戻ってくるまで、お家で待たせてもらおうと思ってね」
海老原は糸目で微笑んで恭仁を見据え唇を舌なめずりすると、右手でジャケットの裾を持ち上げる。クロコ型押しのベルトをループへと通したスラックスと、シャツの狭間に38口径のリボルバーと思しきシリンダーと、樹脂のグリップが垣間見えた。
「初めまして恭仁クン。今日から私が貴方の新しい
恭仁は目を閉ざし、三徳包丁のグリップを刃の付け根に持ち替える。
「お母様はこれで3人目ですね」
海老原が真顔に戻り、小首を傾げた。恭仁は布巾を取ると、海老原の死角で包丁の刃体に付着する野菜の欠片を拭き、溜め息を長く深く吐き背後を振り向き、海老原と相対する。包丁を右手に持ち。海老原が双眸を細める。
「拳銃と包丁、どっちが強いか分かってる?」
「試してみますか。エェーィッ!」
恭仁は包丁を握る右手を耳の横に構えて蜻蛉を取り、猿叫を張り上げて海老原へと突進した。示現流・小太刀の形。まさか向かってこられるなどとは思わず、海老原は狼狽えると足を竦め、拳銃を抜いた。彼女が銃を構えるのと当時に、恭仁が決断的に振り下ろした包丁が両手に握る拳銃のサイトラインに食い込み、ただ一太刀の凄絶な衝撃で銃を叩き落とす。狙いがズレたら、手首ごと切り落とさんばかりの勢いで。
「なッ!?」
海老原は鋭いローキックを恭仁に浴びせ、バックステップを踏んだ。恭仁は体制を僅かにふらつかせつつ、追撃の袈裟切りを振るって空振らせる。
「銃を持ち出した以上は、こちらも殺す気でかかります。そのお積もりで」
恭仁は視線だけで足元のリボルバーを一瞥し、片足で弾き飛ばすと右手を耳の横に戻して残心。油断なく海老原と相対しつつうっそりと告げた。海老原はその姿に暫し唖然と立ち尽くし、やがて愉しそうに、頬に朱がさして蕩けるように笑った。
「聞き分けの無いボウヤ」
海老原は更にバックステップで距離を取りつつ、ポケットから口紅型をした物体を取り出し、恭仁に構えた。催涙スプレーだ。容赦なく噴霧! 恭仁は目鼻口に激痛を覚え、足を止めて呼吸困難に噎せ返る! ニカリと笑った海老原が飛びつき恭仁から包丁を毟り取ろうとした次の瞬間、斬撃の予兆を見て咄嗟に跳び下がる。身体の前に突き出した腕を切り落とさんばかり振り下ろされる、三徳包丁の袈裟切り! 恭仁は盲目状態で前進し、袈裟切りを連打! 目など見えずとも、刃さえ当たれば斬れる!
「エェーィ! エェーィ! エェーィ! エェーィ! エェーィ!」
迷いの無い早駆けに、迷いの無い小太刀の連撃! 徒手で制圧しようと考えれば、突き出した手首ごと切り落とされて無くなるだろう! 海老原は恭仁から目を離さず後ろ走りで下がり、斬撃から身を躱す。が後方視界を捨てたことが仇となり、背後のテーブルに気がつかず足を取られ、彼女は一瞬動きを止まる! そこに、一撃必殺の威力を乗せた包丁の袈裟切りが迫る!
「しまッ……」
海老原、不安定な足元から突き離しの左足中断蹴り! 恭仁は衝撃を受けて苦悶し咳き込みつつ、斬撃を空振りさせるが倒れも後退もしない! 残心から更に前進して包丁を海老原の肩に叩き込む! 果たしてその刃は、海老原の左肩の鎖骨を両断……しない!? スーツとシャツをザクリと切り裂く太刀筋ならぬ包丁筋は、衣服の下で刃を止められ、骨や肉はおろか海老原の素肌、産毛一本にさえも触れられぬ!
「エェーィッ!」
恭仁の右腕に渾身の力が籠もる! 包丁の刃を力強く食い込ませ、鈍ら刀で強引に叩き切るように、腕の力で海老原を地へと切り伏せる! 海老原は転倒しテーブルに背中を打ち、恭仁は目を瞑ったまま切り倒す右手に力を込めた!
「ガッ……!?」
押し合う2人がテーブルの上で身体を重ね、至近距離で顔を見合い動きを止めた。戦国絵巻に描かれた戦場の情景のごとく! 恭仁は半ば盲目の状況で転倒しつつも、包丁を握った手を決して離さず、最後に止めを一押しした。時が凍りついた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
驚きに糸目を見開いて、息も絶え絶え胸を上下させる海老原のスーツジャケットの裂け目から、黒色のボディアーマーがチラリと覗く。これを着ていなければ、左肩を叩き切られた挙句、乳房の寸前まで切り込まれていただろう。彼女は示現流の恐怖に失禁しそうになるのを堪え、恐怖していることを恥じて奥歯を噛み足を蹴り上げる!
「ぐぼっ!?」
金的! 悶絶する恭仁の手から包丁をもぎ取って捨て、両手で恭仁を突き放すと、空手の手刀足刀をラッシュで叩き込み、完膚なきまでに恭仁を叩きのめし、たまらず恭仁が崩れ落ちると、片手を突き出して片手を引き、腰を落とした三戦の構えで鋭く息を吐いて残心! 武器を持たぬ徒手格闘では圧倒的に海老原の方が強者である!
「強いね、キミ。ここまで痛み慣れしてる人を相手にして、本気で殺し合ったことは初めてだよ。まあ、本気で殺そうとしていたのはキミだけ……かな?」
海老原は唇を撫ぜ、ジャケット左肩のボディーアーマーまで切り開かれた裂け目を見ると、片腕で自分を抱き固唾を呑んだ。両脚が震えに気づくと、恥ずかしさに頬を赤く染めて奥歯を噛み締め、恭仁に歩み寄って冷酷に微笑むとドクターマーチンのローファーの靴底を掲げ、彼の顔面を踏みにじった。
「だけど、武器を奪われたら大したことないね。素手なら私の方が強い!」
海老原は苛立たしく吐き捨て、仰向けで悶える恭仁を俯せに引っ繰り返して懐から手錠を取り出すと、彼の両手を背中に組んで手錠をかけ、拘束した。
「危ない危ない。殺気立ってるなあ、もう。利義さんからは聞き訳が良くて大人しい子って聞いてたのに、初対面の人間を躊躇なく斬り殺そうとするなんてビックリ」
海老原は腰を上げ恭仁を革靴の爪先で引っ繰り返し、スマホを取り出すと彼の腰へ馬乗りになる。左手の喉輪で首を絞め、スマホのカメラを向けた。
「それは……ゲボッ、ゴボッ! 貴方が僕に拳銃を見せたからでしょう!」
「拳銃を見せられたら、本当はヤクザだってビビるはずなんだけど。催涙スプレーをぶっかけて終わりにしようと思ったのに、それでも向かって来るもんだから、本気で焦っちゃったよ。まさか目潰しした相手に形勢逆転されるだなんて思ってなかった」
海老原は苦しみに藻掻く恭仁を力で押さえ込み、スマホを顔に数回叩きつけ抵抗を止めさせると、恭仁の涙と血と泥に塗れた顔を写真に収め、上気した表情で荒い息を吐きつつ、写真を恍惚と眺めた。下腹部が熱くなっているのを自覚する。胸の動悸が収まらない。征服欲が満たされて、愉悦に顔が歪む。
「まあでも、恭仁クンのお陰で『お話』が手っ取り早くなった……かな?」
海老原は荒っぽく髪留めを外し、汗ばんだ黒髪を揺すって解くと、陶然たる表情で恭仁の胸板に肘を突いて見下ろした。スマホのチャットを立ち上げて利義のチャットアカウントに恭仁の写真を送りつけると、文章をフリック入力しながら腰を上げて、キッチンへ歩み、叩き落とされた拳銃を拾って無事を確かめる。
「貴方は一体、何なんですか!?」
恭仁は焼けるような目鼻口の痛みに何度も噎せ、涙と鼻水と涎を垂れ流し見えない目を見開き叫ぶ。海老原は拳銃を片手に、キマった目で振り返る。
「だから、ママだよ。恭仁クンの新しいママになるの。これから、きっと」
「言ってる意味が分かりません。大体、利義さんは既婚者ですよ!?」
「そうね。私も知ってる。ずっと前から不倫してたの。身体の相性だって奥さんより良い、利義さんそう言ってくれた。今の奥さんといつかは別れて結婚してくれるって約束してくれた。今更になって別れろなんて許さない」
海老原は躍るように歩みながら楽しそうに告げ、恭仁の下腹部の上に腰を下ろす。彼女の固く引き締まった、身体のずしりとした重みに耐えるように恭仁は唸り、歯を食いしばった。相当鍛えているに違いない。恭仁の脳裏には、かつて義兄の隆市から聞かされた倉山家の色狂いの話が想い起された。眩暈と吐き気を催した。
父さんだけじゃない。義父さんだって同じ穴の狢だった。結局、僕も大人になればこんな人間になるのだろうか。伴侶を泣かせ、子供を泣かせる人間の屑に。
「恭仁クン、泣いてるの? 可愛い。ようやく子供らしくなったね」
歯を食いしばって涙を流す恭仁を横目に、海老原は淫靡な微笑みを浮かべて拳銃を腰に納め、片手を伸ばして恭仁の汚れた顔を撫ぜる。彼女が手の内のスマホが着信にけたたましく鳴り響いて振動し、画面の通話ボタンをフリックした。
「朱璃(あかり)ィ! 貴様どういうつもりだ! 恭仁は無事なのか!?」
スピーカーフォンの向こうで、絶叫せんばかりに利義が喚く。通話の中身をわざと聞かせているのだと恭仁は理解し、海老原の性悪さに心の底から辟易した。
「心配しないで、ちょっとだけ行き違いがあっただけだから。ヤンチャで躾け甲斐のある子だけど、私がママになって嬉しいって言ってくれたから」
「誰がそんなことギャッ!?」
撫でさする海老原の手が握られて、突き出た親指の一本貫が恭仁のこめかみを鋭く突いた。恭仁は奥歯を食いしばり、瞼の裏で星が飛ぶ。海老原は左手で、恭仁の喉を絞め上げると、スマホを右手に恭仁の青褪める顔を恍惚と見下ろす。
「言うこと聞かないと、ママまた痛いことするよ?」
「止めろ、朱璃! これは俺とお前の問題だ、恭仁は関係ないはずだろ!」
「関係なくはないでしょ。貴方の子供ってことは私の子供にもなるんだから。貴方の連れ子だって、私は別に構わないよ。貴方と同じくらい愛してあげられる」
海老原は喉輪を緩めると、か細い息を吐く恭仁を宥めるように撫でて、唇を指先でなぞり、親指を口の中に押し入れる。口を抉じ開けて中身を窺った。
「もしかすると、貴方以上に愛せる……かも」
「いい加減にしろ、朱璃! 俺とお前はもう終わったんだ! 俺とお前とは、ただの遊びの関係だった! お互いに了承づくの付き合いだったはずが、何故今更になって結婚しろなどと馬鹿なことを宣う!? 貴様のように、正気を失った色気違いと誰が結婚などするものか! これ以上ごねるならただでは置かんからな!」
見上げる恭仁の涙に滲んだ視界の向こうで、こちらを見下ろす海老原の朧な輪郭が動きを止めた。彼女は犬のように浅い呼吸を繰り返し、息を呑んだ。
「そう、そうなの。本当の本当に、遊びだったの。私、心の底ではどこか利義さんを信じてた。冗談を言ってるけど、本当は私のことを愛してくれてると思ってたのに。貴方も私を捨てるの? だったら、私もただじゃおかない」
「何を考えてる、朱璃! おい聞いてるか!? バカな真似は止せ!」
「私、本当は奥さんを殺そうと思って来たんだけどさ、居ないものは仕方ないよね。子供で我慢する。貴方の代わりに責任取ってもらわなきゃ」
「お前、何を言ってるんだ! ふざけるな! 朱璃、おい朱璃!」
「利義さん、愛してる。死んでもずっと愛してる。あの世で待ってるから」
海老原はボロボロと涙を流してスマホのマイクにキスすると、玩具に飽きた子供のように床に投げ捨てた。ジャケットの袖で涙を拭って、憎しみを湛えた眼差しで腰に挟んだ拳銃を抜くと、何事か喚き続けるスマホを撃ち抜いた。
「う……うッ……うわあああッ! ああああうううううッ!」
海老原は余裕の微笑みを引き剥がされた強迫的な表情で泣き腫らし、恭仁へと再び馬乗りになると、徒手の左手で、右手に握った拳銃のグリップで、彼の顔面を何度も殴打した。恭仁はガードも出来ず、押し寄せる凄まじい暴力の波に噎せ返る。
「嫌い、嫌い、嫌い……嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い! お前なんか嫌い、利義さんもみんな大ッ嫌いだ! 死んじゃえ、みんな死ね、死ね死ね死ね死ね、死ねよ!」
殴られ続ける恭仁の視界がぼやけ、意識が遠退き、白目を剥いて失神した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます