役立たずな第六感 【KAC2022】-③

久浩香

役立たずな第六感

 思い返せば、一昨日の夜から予感があったのかもしれない。


 もう寝よう、という事になって、二階の寝室のベッドに妻と入ったわけだが、それまで、暖房の効いたリビングに居たせいか、やけに寒さがこたえた。

 吹き曝しの外で寝ているわけでもないのに、布団の中にまで冷気が降り注いでくるのだ。

「寒いわね」

 と、妻が震えながら天井に向かって言った。

「ああ」

 天井に向かって答えながら、私は妻の体を抱きしめる事もなく、妻も私にしがみついてくるわけでもなく、しんしんと降り積もる、芯から体を冷やす冷気の重みを感じながら、まるで、雪山での遭難者の様だと思いながら眠った。

 

 レスというわけではない。

 子供はできるだけ早く欲しい、と思っていたので、どちらかといえば、励んでいた。

 ただ、一ヶ月ほど前の、後輩の飯野いいの早智さちと一線を越えてた時からは、彼女の存在を妻に気取られなくする為の隠れ蓑の行為で、今更の肉体を三日前にも抱いた。


 早智とそうなったのは、クリスマス・イヴの一週間だ。

 彼女にしては珍しいミスを何度か犯し、何か悩んでいる風であったので、おせっかいとも思ったが、先輩として愚痴ぐらいなら聞こうと思ったのだ。同じ部署では、初めての後輩でもあったので、私もなんとなく力が入っていたのだと思う。

 彼氏にフラれたという早智を慰めている内に、そういう事になった。

 それまで、女として見た事は一度もない。話しながら涙を堪える早智に、たまらないいじらしさを感じ、可愛いと思うようになって、彼女を、一人暮らしの部屋まで送り、そのまま、関係を結んだのだ。


 こういっては語弊があるし、そうなってから思い至ったのだが、早智は、不倫相手として最高のパートナーだった。ブスとまでは言わないが暗くて地味で、周囲に埋没するタイプの人間だ。大体、彼女に彼氏がいた事だって、恐らく社内では、私を含めて誰一人、知る者はいなかっただろうし、私とそうなった後も、職場でベタベタしてくるような事もなく、公私を分けていた。

 結婚してからは2年だが、付き合い始めた高校生の時からを数えると、もう10年にもなり、もう、どこをどうすればイクかなんて事も解りきった妻に比べ、妻とは違う反応を返してくる未知の肉体の持ち主で、不倫に対する罪悪感と、肉体関係をもった事で、暴走する私への恋心の間で揺らぐ早智が、何とも愛しかった。


 だから、勤め先の伊東いとう市の支社から、車で1時間ちょっとの場所にある中御堂なかみどう市の本社へと二人で出向いた午後に、滅多に雪など降らないこの地域では考えられない豪雪に見舞われ、直帰する旨を担当者に伝え、乗り込んだ車の中で、

「こういう天気だから…。一緒にホテルに泊まりたいって言ったら、迷惑…でしょうか?」

 なんて可愛らしい事を、早智が恥ずかしそうに言うものだから、ハイクラスホテルのダブルルームに宿泊した。


 初めて二人で過ごした朝までの時間は、それは素晴らしかった。恥じらいながらも、従順に大胆で、何よりも、懸命に私の意に沿おうとする姿に、コンドーム無しに繋がる危険性が、煩わしかった。


 朝を迎え、部屋を出てから、早智は私の腕におずおずと指を伸ばして、しがみつき、エレベーターが昇ってくるのを、肩に頭を乗せてきた。

 そうする事に慣れてないのか、そういう形に憧れて、真似しているといった感じで、ひどくたどたどしい。


 そんな彼女に、ふとした可笑しみを感じると同時に、一昨日の夜の、血液さえ凍りつくような悪寒を感じた。


(えっ?)


 ふと、廻らした視線の先には、見知らぬ男と腕を組んで私を見る、妻と目が合った。


 ★


 思い返せば、夫に抱かれながら、嫌な気分になったのは、クリスマス・イヴからだったわ。

 もしかしたら、それ以前から、マンネリ化した夫とのセックスに、不満があったのかもしれないけど、その夜からは、もう、本当にうんざりというか、いっそ、シない方がマシなんじゃないの、なんて事も頭を過るようになったの。


 鬱々とした気分が続く中、年が明けてからというもの、お腹が出てきた気がするからといって、職場近くのスポーツジムの会員になった夫が、スイミングをしてきたという日には、

(ああ、今夜はシなくていいのね)

 なんて、ホッとするようになっていたわね。


 結婚前に勤めていた会社の同期で、私の婚約決まった後、どこかに転職していった榊原さかきばらあつしさんに再会したのは、そんな時でした。

 従姉妹と、彼女の5歳になる娘ちゃんのピアノの発表会に着ていく衣装を見に行ったデパードで、声をかけられたのよ。


 連絡先を交換し、いつの間にか、夫がスイミングに出かけている間は、敦さんと電話で話すようになってた。


(もしかしたら、そうなのかも)

 って、ずっと思っていたけれど、やっぱり彼の転職した理由は、私の婚約が原因だった、って告白されて、嬉しかったわ。

 独身の頃、彼からは、何度かデートに誘われて…本音を言えば、惹かれていたけれど、私の体はもう、夫に捧げてしまっていたし、周囲からも、「結婚はいつ?」なんて茶化される程、夫との事は周知の事実だったから、何の理由も無く、夫から敦さんに鞍替えなんてすれば、友人達から、淫乱な女だと後ろ指を指されるんじゃないかと、怖くて思い切る事ができなかったのよ。


 一昨日の夜は、とても寒い夜だったわ。押し潰されそうな冷たさが、肌から滲み入ってくるような気さえしたの。

「寒いわね」

 なんて、簡単な言葉じゃ、全く足りない寒さに覆われていた。

 ガクガクと震える程寒いのは、私が明日、罪を犯そうとしている罪悪感からくるもののような気がしてた。

 夫の体温を分けてもらう事はしたくなかった。そんな事をして、三日前のように抱かれたくなんてなかったもの。


 夫が出勤してから、シャワーを浴びた。

 夫は気づかなかったけれど、昨日、美容院に行って、普段よりワントーン明るめのカラーを入れた髪を、独身時代に気に入っていたパレッタで纏めた。

 下着はもちろん新品のものをつけたけれど、服まで気合を入れ過ぎると、御近所の目が怖いから。普段着でありながら、一番、オシャレに見える服を選び抜いたわ。


 自分に、こんな大胆な事ができるなんて思わなかったわ。

 バスで待ち合わせ場所のショッピングモールへ向かい、落ち合った敦さんの車に乗りこむ。そこからは、敦さんと再会したデパートのある中御堂市へ。いくらショッピングモールまで移動したといっても、彼の車に乗るのでさえドキドキが止まらなかったのに、ずっと地元にいるのは、あまりに危険だと思ったの。

 かといって、彼の住む西尾にしお市まで行くのは、時間がかかりすぎる。敦さんが家を出たのは、朝の7時だったって言ってたもの。中御堂市内を通り抜けるのに、いったい幾つの渋滞に出くわすか解ったものではないのよ。


「本当なら、もっと、ロマンティックな場所がいいんだろうけど」

 って、モーテルに入った彼が残念そうな顔をするので、

「敦さん」

 って、名前で呼んであげたの。それまではずっと榊原君って呼んでいたから、彼は驚いた顔をした後、すごく嬉しそうな笑顔で私を見つめ、ギュッと抱きしめて、何度も私の名前を呼び捨てにして呼んだの。

 私が、あの頃のパレッタをつけていた事も、彼は当然、気づいてくれていたわ。


 熱いキス。

 熱い抱擁。

 これまでに感じた事の無い、甘く熱いエクスタシー。


 疲れて眠っていると、携帯電話が鳴ったの。

 夫からだった。

 家にかけたら出なかったので、携帯にかけたとの事だったわ。


「ごめんなさい。ちょっと、眠ってしまってたみたい」

「風邪か? …昨夜は寒かったからな」

「…そう…かな。そういえば、熱があるのかも」

「そう、か。あ~。帰ってやりたいんだが、実は、今、出先で雪に降られて…その、今夜は、帰れそうもない…と…」

「え? そう、なの?」

「ああ…。悪いな」

「いいえ、いいのよ。解ったわ。気をつけて」


 私は、思わず弾んでしまいそうな声音を押さえるのに必死だった。敦さんに、その事を伝えると、彼も喜んでいた。


「そうだ。どうせなら…。今からでも大丈夫かな?」

 そう呟いて彼は、ハイクラスホテルのダブルルームを予約してくれた。


 私達はホテルを移動し、解き放たれたケダモノのように愛し合った。


 翌朝、敦さんの腕に指を絡めて廊下を歩きながら、ふと、心臓が凍りついたような不安に襲われて足を止めたの。

 なんとなく、エレベーターに目をやると、女性を連れた男性がいて、振り返ったその男性は夫で、顔を逸らす間も無いまま、視線が絡んでしまった。


 ★


 地獄の様な2時間だった。

 榊原という妻の浮気相手は、まるで自分は善意の第三者でもあるかのように、

「取り合えず」

 と前置きしながら、私達をエレベーターに乗せ、チェックアウトさせ、ホテルの喫茶店で、今後の話し合いについては後日と段取ると、自分の車に乗って帰って行き、私は、車の助手席に妻を、後部座席に早紀を乗せて、伊東市に戻った。


 不倫したのはお互い様だ。

 とはいっても、妻は専業主婦だったので、折半よりは多少の色をつけた金を渡すという事で、話しが纏まりかけた頃、妻が妊娠している事が解った。

 馬鹿な話だ。

 生理が来ないのは、ストレスのせいだと思い込んでいたらしい。


 早智は、仕事を辞めて去り、私達夫婦は、吹きっ晒しの雪山のような凍てつく冷気を纏う家の中で、再構築する事を決めた。

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