第53話 出立(38)


 あれから、数十年の歳月が過ぎ――

 重信と連れ添い、共白髪ともしらがとなって、ほぼに近いかたちで亡くなったの死に顔は、これ以上ないほどに穏やかな笑みを浮かべていたものであった。

 それを、いとの墓前で思い出す重信――井澤石頭斎の眼には、涙が滂沱ぼうだと溢れていた。

 この翁は、登谷で細君と共に暮らしたことが、あまりに良い思い出となっていた。老いてゆくごとによって近づいていく死というものに、漠とした恐れは抱いたものの…が先に逝っている。このまま、

 ――ここで朽ちて、墓の下でと共に眠ることができたら、満足だ。偕老同穴かいろうどうけつ(※1)とは、このことよ…

 と、死とも折り合いをつけていた爺であった。

 その、希望が潰えてしまった。

 ここを去らねばならぬ。

 そして、もうここには戻れまい。戻れるとしたら、死して、その魂魄のみだ。体ごと、寄り添ってやることはできない。

 「すまぬ…まことに、すまぬ」

 いとに何十ぺんも謝り…ふと、思い立って、

 ――そうだ。せっかくだから、いとの好きだった景色を見ていこう。

 石頭斎は、涙を拭いた。いとが生きていた頃の思い出に残るのは、あの丘に立っている彼女の、遠くを見つめる面差しであった。

 登谷の端には高台があって、晴れているときは民家や田畑の遥か向こうに、丹沢の山並みを従えた富士の山が、ぽっかりと顔を出す。

 丘を登ってみると、――今日は、当たりの日であった。

 「ああ…絶景――」

 陽の光をあびてと美しく輝く富士の姿をみとめ、爺は目を細めた。

 ずいぶんと遠いが、方角でいえば、都はあちらの方角だ。

 昔、ここで彼と並んで熱心にこの景色を見ていた細君は、なにを思っていただろう。

 ――いとは、ここから、都のほうへ…二親ふたおやの墓のあるほうへ、祈りを捧げていたのではないか…

 石頭斎は、そう思っている。

 或る時は、それは祈りではなく愚痴であったこともあっただろう。或る時は、悲しい報告のこともあったろう。

 けれど、嬉しいことや、楽しいことの報告も、あったはずだ。そうであってほしい。良いことのほうが多い人生であってほしい。

 ――せめて、俺との生活は幸せであったと、そう思いたい…

 人びとの営みをもの言わず見守り続ける霊峰に、爺は、そう願った。

 「のう…富士よ。己は不死の名をいただいて、ときらめいている富士山よ。お前さんから見たら人間はちっちゃいし、その一生はほんの刹那のきらめきだろうがな、…人にとっての人の一生は、濃くて、長いぞ。ままならぬものだし、な…」

 翁のしわがれた口が、そう言った。

 きびすをかえしてとぼとぼと歩いていくその背中は、小さかった。

 富士の山は知っている。

 家に帰れば、その背中がしゃんと伸びて、大きく見えることを、知っている。



 「これまで井澤家で暮らしていた家は、うっちゃるとして…滝野家の屋敷を、どうしましょう」

 そう石頭斎から持ち掛けられ、

 「ううん…」

 天を仰いだ、伯言和尚であった。その滝野の屋敷とは、井澤の家よりひと回り大きいつくりの家だが、義直の父・義道の言いつけを石頭斎たちが守り続けた結果…誰も住んでいない。そんな状況で義道たちの死を知ることができたのは、病とは無縁の伯言和尚がいたからである。義道夫婦の弔いをし、墓を建てたのは、伯言だ。

 「若さまとしては、あの屋敷には思い入れがあることでしょう。病のことがあるから、中には入れぬとして…、大切にかたちとして残して差し上げたいとは、思うのです」

 「ううむ。そうだなあ…――として、そこに家があればいいのだな」

 「はい」

 「なら、扉に『ここに立ち入ることを禁ず』と書いた板をうちつけておくのは、どうだろう」

 自信満々に、こう言った和尚に、

 「…そうですねえ。盗人とかは、それでも入ってしまいそうですねえ」

 ちょっと考え、石頭斎は応じた。

 「そうだなあ…ううむ…よしっ、『ここに立ち入ることを禁ず』と書いた板ではどうだろう」

 「…そうですねえ。盗人とかは、それでも入ってしまいそうですが、それくらいしか、この短時間ではできそうにありませんしねえ」

 こんどは石頭斎も、深く頷いた。

 「そうだろう。こういうのは、簡潔なのがいいのだ」

 「善は急げと言うし、すぐにいたしましょう」

 井澤石頭斎は、知的なところのある男だ。和漢の書籍を収集し、これに日頃から親しんでいる。その知識や清廉な人柄も、近隣によく知られている。

 しかし、だからといって…石頭斎が伯言和尚にかつて師事し、今では彼と莫逆の友(※2)であることを忘れてはならない。そして、世の中には、よく人々に知られた言葉がある。

 『類は友を呼ぶ』

 この世の、真理だ。

 「ならば、善は急げです。すぐにいたしましょう」

 和尚の友たる石頭斎は、いたって乗り気で納屋から木片を見繕ってくると、達筆で、


 『ここに立ち入ることを禁ず』


 とできるかぎり大きな字で墨書し…、和尚と連れだって滝野の家の戸口に、それを打ちつけた。

 それを見つめ、

 「うん。『立ち入ることを禁ず』とは、良い言い回しだなあ」

 和尚はにっこり笑い、

 「これでばっちりですな」

 石頭斎も、大きく頷いた。

 「俺たち、冴えてるぞ」

 板切れ一つで、ばっちりだと思った二人は、なにかをすっかり忘れていた。

  


 滝野義直は、一刻も早く、新しい主・伊勢盛時公のもとに馳せ参じたかった。二親の墓参りをしたのは、ついぞ昼前だというのに、もう一年も経ってしまったかのような心地さえした(※3)。

 義直の血気盛んな血潮は、もうすでに戦いを求めていた。ゆく手には戦場がひろがっていて、手ごわい敵がいる。確実に、いる。その事実に、今から武者震いをしていた。

 「ではな、殿と和尚様、俺の三人は先にのところに行くよ。出来るだけ急いで、あとからおいで」

 旅装をすっかり整えて、石頭斎は息子たち家族に言った。とは、川向うに住んでいる忍びの者たちのところである。石頭斎は、この登谷で目立つことを、極端に避けた。義直から『功名をあげて、家を再興したい』と打ち明け話をされたあと、

 「こればかりは、しっかりしたものを…」

 と鎧や馬を、伯言和尚や己の伝手つてで良い職人から買い求めたが、それを登谷には置かず、忍びの者たちのところで預かってもらっている。登谷の、人々の目や噂話で、よほど昔に嫌な思いをしたらしい。

 「では、行くか…」

 和尚が、歩き出したとき――

 向こうから、馬に乗った武者どもが五、六騎やって来る。

 身なりはいたって軽装だ。しかし、得物えもの(※4)は持っている。

 彼等は井澤の家の前まで来ると、義直主従をみとめ、駒を止めた。そして、その中の、主であるらしい四十がらみの男が前へ進み出て、

 「やいっ、滝野義直というはいるかっ」

 そう、吠えに吠えた。

 「どういったご用件でござろうか」

 石頭斎は、落ち着き払って、こう問うた。

 「その悪たれが、俺の娘の、を奪ったのだっ! ぶっ殺してやるから、とっとと出せっ」

 これには、和尚も爺も、当の義直も…もちろん他の者どもも、腰を抜かさんばかりに驚いた。



 

 

 (※1)偕老同穴…仲の良い夫婦が、共に老い、死んだ後も一つところに葬られること。

 (※2)莫逆の友…とても仲の良い友達。

 (※3)滝野義直が爺から「伊勢盛時公に仕えることとなった…』と聞いた『出立(1)』は、2022年の8月か9月頃に発表です。この『出立(38)』は、2023年7月18日発表です。一年はまだ経っておりませんが…それにしても、面目ないです。

 作劇上しかたのないこととはいえ、読者の方々、誠に申し訳ございません。

 (※4)得物…武器のこと。

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