バスの中で
「このバスはどこへ向かうんですか」
バスが走り出してから5分の間に、メガネの少年はその質問を4回もしていた。
隣に座った坊主頭の少年と私が見慣れていたはずの街の風景がずいぶん速く動くのに感心していると言うのに、彼にはまるで視野に入っていないようだ。バスが走り出す前はずいぶんと親しくしてくれた伯父さんもまた、何も言おうとしなかった。当たり前だ、おしゃべりなどに神経を使って運転がおろそかになり事故を起こしては元も子もない。
「お出かけ」がどこに向かっているのかと言う事については、父も母も何も言わなかった。そして私も、特に気にしていない。
10歳の私にとって、とりあえず目の前の伯父さんは自分にはできないぐらい車を華麗に動かす人でありそれだけでも憧れるに足る人物だった。私が知っていて伯父さんが知らない事と、伯父さんが知っていて私が知らない事との量では計り知れない大差があるだろう。少なくとも、メガネの少年が先ほど読もうとしていた文庫本のタイトルに使われている漢字を私は知らない。
「じゃあお前はコーラがどうしてコーラなのか知ってるのかよ」
質問になっていない。だがその坊主頭の少年の質問になっていない質問が、今の私にとっては非常にうらやましく感じられた。
コーラがどうしてコーラなのかなどと言う問題の答えは、探せばあるのかもしれない。だがそれを探すにはおそらくは莫大な時間と金銭を費やす事になりそうだ。そこまでして答えを求める理由は、私を含めこの場にいる4人の内誰にもない。メガネの少年が首をかしげると、しめたと言わんばかりに坊主頭の少年は彼の肩をつかみ、窓の方へ視線を向けさせた。
まだ七月とは言え、私は夏休みの宿題にあまり手を付けていない。だが幸いにもと言うべきか私の目の前にあったそれはいわゆるドリル形式の物ばかりであり、ゴールははっきりと見えていた。量は少ないとは言えないが、それでもなんとかなるだろうと言う奇妙な自信があった、
おそらくメガネの少年にはないだろう自信がだ。
確かにこのバスはどこまで行くのかはわからない。わかっているのは、このバスが日本と言う国の道路の上を、きちんとルールを守りながら走っていると言う事だけだ。
やがて私が外を見るのに、メガネの少年が行き先を聞くのに飽きた表情になり坊主頭の少年も何も言わなくなって来た頃、バスは速度を緩め始めた。
ビルや家が立ち並んでいた自分たちの街から、いったいどれだけ走ったと言うのだろうか。
そこは道路こそアスファルトで舗装されているものの周りにはずいぶんと緑が目立っていた。いくら私が外を見るのに飽いていたとは言え、さすがにここまで元の街と違ってくると驚きを感じずにいられなかった。
やがてバスは止まり、扉が開いた。するとそこにはさび付いて何と書いてあるのかよくわからないバス停と、消えかかった白い枠。
その白い枠にバスはピタリとはまり込み、伯父さんは背伸びをしながらバスから出た。
「やーありがと、ちょっとションベンして来る」
坊主頭の少年は伯父さんがバスから出るのと呼応するかのように、バス停のそばにあるトイレへと駆け込んで行った。
私もなんとなくもよおしたので一緒に行く事にしたが、メガネの少年は座ったままだった。
「なんかさ、面白い所来ちまったな、たぶんもっともっと山奥行くんだろうな。オレバカだったよ、お前の言う通りもうちょい積極的に参加すべきだったよ」
坊主頭の少年は私の隣の便器におしっこをしながらそう笑ったが、私はそんなに「お出かけ」をすすめたつもりはない。「お出かけ」がおしっこをするのと同じような現象である事を知らず知らずのうちに叩き込まれていただけの話である。駆け込みようからたやすく察することができたように彼のおしっこのたまり方は私のそれを上回っていたようであり、後から来た私がおしっこを終えてなお便器と向かい合っていた。
彼が長いおしっこを終えて手を洗い終わると、私たちに向かってカラスの鳴き声が降って来た。
「カラスだぜ、こんなとこにもいるもんだな」
都会ではカラスは何べんも見て来た。と言うか都会にいる鳥と言えばスズメかカラスぐらいしかおらず、あとは図鑑かテレビの中の存在だった。
坊主頭の少年も認識は同じだったようで、ずいぶんと緑の多いこの環境でもカラスがはげしく鳴いている事に少しびっくりしたようである。
しかし、そのはげしい鳴き声はどこか都会で聞くのとは違っていた。
よく見るとカラスは一羽しか飛んでいなかった。にもかかわらず、私には都会で数羽のカラスの鳴き声を聞いた時とあまり違う声には聞こえなかった。数羽分のカラスの鳴き声を一羽で出しているとでも言うのか。
「あのカラスは何だよ、教えてくれよ」
「気にする事はないよ」
私が考えても仕方がないと思って放り出した疑問を、坊主頭の少年は伯父さんにぶつけた。案の定伯父さんはさらりと流し、坊主頭の少年もそれきり気にする事はなかったようだが、一方でメガネの少年は今が二月であるかのようにガタガタとふるえていた。
「お前も便所に行って来いよ」
「違うよ、単にカラスがさ」
「カラスなんてどこでもいるじゃねえかよ」
いかに頭が良いとは言え、カラス一羽で出来る事などたかが知れている。カラスが真っ昼間にやかましく鳴いた所で、何の問題があると言うのだろう。
うるさいとか言うのならば、人間の方がずっとうるさいに決まっている。二人の声だって、私たちを乗せているバスの出す音だって、人間が出している音ではないか。
「トイレ行きたくないんならばドア閉めて先に行くけどいいの」
「かまいません」
「じゃあ行くよ、ほかの二人もいいかな」
メガネの少年はかまいませんと言う言葉をキリッとした顔と声で発音したが、それが逆におかしさをにじみ出させてしまっていた。
真正面を見つめると言う正しい格好でバスに乗る彼の姿はかえって奇妙だった。私が外を見ていたのは先の景色を見たいと言うより、単にメガネの少年の方を見たくないだけだった。
バスはこれまでに比べ遅めの速度で再び動き始めた。たまにトンネルをくぐりぬけるような事もあり、その度にうす明るいオレンジの照明と耳が少しだけおかしくなる感覚によくわからないときめきを覚えながら、再び飽きると言う単語を忘れたかのように外を眺め始めた。
「やっぱさっき便所行きゃ良かったじゃん、オレなんかさっきに比べて体が軽くなったせいで気分爽快だぜ、お前は体が重いから気分まで重くなんだろ」
「関係ないよ」
そんな中でもメガネの少年はずっとしかめっ面をしながらただじっと正面を向いて座っていたらしい。なんでわざわざそんな事をするのか、自分からすると彼が大変なムダづかいをしているように思えて来た。
「そうやってぐずぐずしてちゃ何がしたいのかわからねえだろ、何がしたいのかはっきり言えよ、なあ」
「このバスはいつどこにつくのか、それが知りたくって」
「お前って顔に似合わず本当にしつこい奴だよな、いつかどこかに着くだろ、なあ」
私が適当にそうだねと言うと、メガネの少年は心底からがっかりと言わんばかりの表情になって席を立ち、坊主頭の少年から離れて後ろの席へと向かった。
「運転手さん、教えてやってくんないかな、あいつ参っちゃってる感じなんで」
「もうちょいかな」
こんな時のもうちょいという言葉が当てにならない事は、自分自身もうちょいで帰って来るからと言い返し40分以上外で遊び呆けてしまい親に叱られた経験がある以上よくわかっていたが、それを言う必要はどこにもない。メガネの少年にとってはその言葉が何よりもきれいで美しい言葉であり、何よりも自分が求めている物とピッタリ合っていたからだ。
私が彼の事をかえりみずバスから外を眺め続けていると、1人の男性が車道の脇の細い歩道を歩いていた。父がよく着るスーツと言う物を身に纏った伯父さんと同じくらいの年齢のその男性は、どこか疲れていたような顔をしていた。だがその男性は私の存在に気付くと、急にその目を光らせて私をにらみつけた。いったい何がその男性にあったのだろうか、父や伯父さんと同じぐらいの年に思える男性からそんな事をされるおぼえは私にはない。
「おいなんだよ、何か怖そうな人が来たな」
そして、坊主頭の少年にもない。私の逆側の席に座っていた坊主頭の少年もまた、スーツ姿の40歳ぐらいの男性からにらまれたと言うのだ。なぜその男性は私たちをにらむ必要があったのだろうか。
「そう?なんかずいぶんうれしそうな顔をしてたけど」
一方で、後ろの席にいたメガネの少年が見たスーツ姿の男性は、ずいぶんとうれしそうな顔をしていたらしい。なぜにらまれなかったのだろうかと不思議に思い、そして私が彼の方を振り向いてみると彼はバスが出る前に読んでいた文庫本を両手で開いていた。
「嫌かい、僕がこうやって本を読んでる事が」
私はいつも、坊主頭の少年から乱暴な扱いを受けていた。それでも彼は乱暴にした分だけ手厚くもしてくれ、こちらが困っているとなると積極的に助けに来た。
だからなんとなく、私は坊主頭の少年とつるみ続けていた。一方でメガネの少年は、私に対し何もしようとしなかった。こんなバスと言う閉鎖された空間の中で伯父さんを含めてたった4人しかいない中で、わざわざ他の人間と関わろうとしないのはなぜなのか。単純にわけがわからなかった。
「ふーん……………」
私がメガネの少年から言われた言葉に別にと言い返すと、彼は再び文庫本に視線を落とした。
「お出かけ」が何のためにあるのか、その理由を聞かされた事は誰からもない。「お出かけ」をすれば何が変わると言うのか、誰も教えてくれない。「お出かけ」をしなかった人間が不幸になるのかならないのか、それすらも知らない。
「でもよ、まだ何にも始まってないんだろ?それにしちゃずいぶんとオレ面白い思いしてるじゃねえかよ、あーあなんでダダこねちまったんだろうな」
だが少なくとも私の反応は、坊主頭の少年の反応とあまり変わらなかった。
常日頃見る事の少ない緑でいっぱいの山、そこで見かける様々な物。なんだかわからないが、とりあえず楽しかった。文庫本を読んでいるメガネの少年は、そのチャンスをすすんでムダにしていた事になる。もったいないなと思ったが本人が気にしていない様子である以上、これ以上どうにかする理由もなかった。私が外の景色を見て「お出かけ」を楽しんでいる事が大事であるように、メガネの少年にとっては文庫本を読む方が大事なのだろう。
「まあな、そろそろ着くだろうから本ばっか読んでねえでさー」
「静かにしてよ」
坊主頭の少年が本を読むのをやめるように言ってもメガネの少年は聞こうとしない。本なんてどこでも読めるものをなぜわざわざ読むのか。私はクラスの中で背の順に並べば30人の中で18番目ぐらいであり、坊主頭の少年は後ろから5番目である。背の高い人間もいれば、低い人間もいる。そう考える事にしたが、どうにもメガネの少年の不自然さは私の頭の中から抜けなかった。
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