譲れない女2

 テニスを終えた後、あゆみたちは居酒屋で飲み会を開いた。何ということはない、あゆみや健司たち六人のサークルメンバーが酒を飲みながら各々の仕事の愚痴を言い合い、それをみんなで励まし合い、また酒を飲む。男の一人が酔いつぶれ、真っ直ぐ歩くこともできなくなり、家の近い別の男がタクシーを呼んで送って帰る。他のメンバーは、朝まで飲み明かそうとする者もいれば、終電で帰ろうとする者もいる。どこにでもある、ごく普通の飲み会だ。あゆみはというと、この日は自分の車で来ていたので、終始ソフトドリンクだけを飲んでいた。そのまま朝までいるつもりだったが、飲み会の途中で直子から「話があるから今日中に帰って来て」とだけ連絡があったので、終電組と一緒に帰ることにした。サークル一の美女であるあゆみが帰ってしまうことを男子陣は惜しんだが、無理矢理引き留めて彼女に嫌われることを嫌がったのか、あゆみはスムーズに帰ることができた。


 帰りの車を運転しながら、あゆみは直子の話が何であるのかを考えてみた。直子からこのような連絡が来ることはまずない。というより初めてだ。そもそも直子からの連絡さえ、仕事上の事務的な内容を除けば滅多にない。それは決して直子があゆみのことを嫌っている訳ではなく、単にそういう性格なだけあることを、あゆみは理解していた。


 だから、今回の呼び出しも、単なる仕事上の打ち合わせか何かだと思っていた。大方、シナリオの変更や、絵の修正とか、そんなところだろう。だが、そう考えると少しおかしい。それぐらいのことなら、わざわざ呼び出す必要などない。電話やメールで充分だ。それもこんな時間なら尚更だ。時刻は既に日付が変わろうとしているところだった。


 そこまで考えて、あゆみはこれ以上考えるのをやめた。やはり思い当たることはない。行ってみれば分かることだ。今は運転に集中することにした。どうせ大したことではないだろう。さっさと話を聞いて、今日はすぐに眠ろう。あゆみは車を走らせながら、そんなことを考えていた。


 しかし、あゆみのこの推測は、すぐに外れることになる。そしてそれこそが、この後起こる事件の発端になるのだった。






 マンションに到着すると、車を駐車場に停めた。このマンションは、「石橋うさぎ」の共同マンションで、主に仕事場として使っている。あゆみも直子も各々自宅があるが、一日の大半をここで過ごすことも珍しくない。特に連載している漫画雑誌の発売日が近づいて来る忙しい時期は、何日もここに泊まり込み、二人とも自宅には全く帰らないこともある。いわば、二人にとっての第二の自宅である。


 いつもの場所に車を停めたあゆみは、エレベーターに乗って九階に向かった。エレベーターが止まり、箱の外へ出ると、廊下を端まで歩き、九〇一号室の前で止まった。この九〇一号室が、「石橋うさぎ」の共同仕事部屋である。あゆみは鞄から鍵を取り出し、ドアを開けて中に入った。


「ただいまー」


 部屋の奥に聞こえるぐらいの声量で、あゆみは自分が帰って来たことを知らせる挨拶をした。そのまま部屋の中へと入って行くと、書類がたくさん乗った机の前に座った年配の女性が笑顔であゆみに答えた。


「おかえりなさい、あゆみさん」


「あら、内海さん。まだ起きてたの?」


「はい。もうすぐ休ませてもらうつもりです」


 この年配の女性は内海芳子。現在は住み込みで「石橋うさぎ」の秘書をしているが、元々は直子の秘書をやっていた。直子よりもあゆみよりも二回り以上年上だが、二人のことを心から尊敬、敬愛しており、二人には敬語を使っている。このことを直子もあゆみも最初は嫌がったが、「お二人に偉そうに話すなんてあり得ません! 私は、お二人の才能を尊敬してるんです!」と言って聞かなかったのだ。無理にやめさせるほどのことでもないので、本人がそれでいいならと、直子もあゆみも折れることにしたのだった。


「あまり無理しないで。内海さんももう歳なんだから」


「お気遣いありがとうございます。でも、これでも私、まだまだ元気なんですよ? 週に三回はジムに行って歩いたり泳いだりしてますし」


 その言葉の通り、芳子はもうすぐ還暦を迎える歳だったが、四十代と言われても疑わないほどに若々しかった。こんな時間でも全く眠そうにしていないのが良い証拠である。


「それもそうね。ところで、直子さんは?」


「奥でお仕事中です。あの…お話って何のことなんですか? 直子さん、結構神妙な顔されてましたけど…。それに、自分たちが話してるときは、私は絶対に部屋に入らないようにって…。私、ちょっと怖かったぐらいで…」


 どうやら芳子は、直子があゆみに話があることは知っているが、それが何の話であるかは知らないようだ。つまり、知っていることはあゆみとほとんど変わらない。ただ、直子が神妙な面持ちをしていたというのは気になった。それほど重要な話なのだろうか。取り返しのつかないミスをした覚えはない。ミスをしたのは直子の方だろうか。いや、完璧主義者である直子に限って、ちょっとしたミスならまだしも、芳子を怖がらせるほどの顔をしてしまうようなミスをするとは考えられない。あゆみは、ますます直子の話の内容が気になった。ただ一つあゆみの中ではっきりしているのは、何だか嫌な予感がするということだった。


 そして、その予感は当たることになる。

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